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サイドチェストに伸ばされてはピタリと止まり、宙を切って返される鍵爪。
回数を重ねるたび苛立ちを増長させる無意識の行動にクロコダイルは知らず唇を噛みしめた。
引き出しの中にはクロコダイルが好んで吸う葉巻が数本シガーケースに収められたまま転がっているはずで、それに手をつけてはいけない理由など存在しない。
葉巻の香りも唇や歯に当たる感触もクロコダイルの張りつめた精神を和らげる重要な役割を果たしており、現に今クロコダイルの苛立ちはピークに達している。
にもかかわらず何十回目の行動で引き出しから掴みだした葉巻をシガーケースごと砂に変えたのは何故か。
その疑問を、クロコダイルは故意に思考の外へ追いやった。
サー・クロコダイルという人間が他者の言葉で習慣を変えることなどあり得るはずがなく、ここ最近葉巻を吸わない理由とてあくまでそういう気分だったから、というだけに他ならないのだ。
微かに葉巻の香りを残す砂を床に投げ捨て再びペンを手に取る。
すると間もなくしてクロコダイルの耳にノックの音が聞こえた。
等間隔に四回。
耳に煩くない柔らかさを感じる独特な音に、ペンを握る手がピクリと反応する。
湧き上がった動揺をすぐさま隠して入室許可を出すと静かに開いた扉から脳裏に描いた通りの男が現れた。

「失礼します。クロコダイル様、新しく建設中のカジノついて報告、が……?」

いつもと同じようにいい知らせか悪い知らせか判断がつかないほど厳しい顔をした部下、ナマエが一度息を継いだあと不思議そうに鼻を鳴らしたのを見てクロコダイルの鼓動が僅かに速まる。
勘が鈍くなければ常人でも気付くであろうその違和感をナマエが見落とすはずがない。
クロコダイルの考えた通り、何も銜えられていないクロコダイルの唇と床に散らばった砂を確認したナマエはゆっくりとした足取りでクロコダイルに近づいてきた。

「クロコダイル様、失礼ですがその砂は」
「葉巻だ。後で片付けさせる」
「葉巻になにか問題がありましたか?」
「……お前が気にする必要はない。さっさと報告を、ッ」

報告を済ませろ。
そう言おうとした瞬間、唐突にナマエが机に身を乗り出しクロコダイルの首筋に顔を埋めた。
ぞわりと粟立った肌をナマエの吐息が撫で、背筋に震えが走る。

「葉巻の匂い、全然しませんね」

おれのためですか、と耳元で囁かれた声に頭の中がカッと熱くなった。
ふざけるな。
そんなわけがあるか。
調子に乗るんじゃねェ。
否定する言葉がいくつも頭に浮かぶのにすべて喉で詰まって意味をなさない呻き声に変わってしまうのは、どう喚いたところで下手な言い訳にしか聞こえないとわかっているからだ。

ひと月ほど前、ナマエにキスをした。
それまでナマエとの間に特別な関係があったわけではない。
むしろ仕事中ですらクロコダイルのことを避けようとするナマエが、珍しく手の届く位置にいたものだから、つい。
そんな魔が差したといっても過言でない衝動的なキスはクロコダイルが想像もしなかった結果に終わった。
唇を重ね、舌を絡めたところでクロコダイルを突き飛ばしたナマエは、突如激しく咳き込んだかと思うとヒュウヒュウ喉を鳴らして床に崩れ落ちたのだ。
幼少期に気管を患っていた影響で健康体になった今でも葉巻の類に過敏に反応してしまう、というのは後に落ち着きを取り戻したナマエ自身から聞いた話。
煙や匂いに身構えるせいでいつも表情が強張るし、失態を恐れるあまりクロコダイルの傍に寄ることもできない。
そんな、まるで「葉巻の匂いさえなければ」とでも言わんばかりの説明のあとの禁煙はナマエにとってさぞ意味深なものに見えることだろう。
反論せず唸るばかりのクロコダイルの態度をどう受け取ったのか、潔癖そうな顔に艶やかな微笑みを浮かべたナマエはさらに顔を近づけてクロコダイルの唇を一舐めした。
次いで軽く唇をあわせると小さく開いたクロコダイルの口内にナマエの舌が忍び込む。

甘い。

混じりあう唾液も絡みついた舌も何もかもが以前に比べて鮮明に感じる。
苛立ちも焦燥も霧散し急激に働きの鈍った頭の片隅で煙草をやめると料理が美味くなると聞いたことがあるがこれはそういうものなのかと考えながらクロコダイルは夢中でナマエのキスを貪った。

「は……クロコダイル様、かわい」

うわ言のような呟きに対して怒りや羞恥を発露する前に離れていく唇が惜しくなって銀糸を追う。
このキスはクロコダイルの気まぐれで許されたほんの戯れ。
葉巻を銜え、煙と匂いを纏っていればナマエはクロコダイルに近づけないのだからこんなことは今日これっきりなのだ。

「……ナマエ」

ただ、今だけはそういう気分だから、もう少し付き合ってやってもいい。



――翌日、報告を後回しにしてしまったお詫びとしてナマエから届けられたプレミアムシガーをその場で砂に変えるという『気まぐれ』を起こしたクロコダイルが禁煙の続行を決めることは、まだ誰も知らない。