焼きたてのパンは幸せの味だ。 幸せなんて欠片もないこのハッピーツリーで、うまい食いものだけがまともな生を実感させてくれる。 まあ食事ですら死の前兆なわけだから油断なんてできないけれど、それでもやっぱりうまいものはうまい。 「ディド、お前もうヒーローやめてパン屋になれよ。そしたら俺の嫁にしてやるから」 ナッツ入りのパンを咀嚼しながら九割九分本気の提案を投げかけると スプレンディドが案の定「ありえない」といった顔でこちらを見てきた。 「私がヒーローをやめたら誰が皆を助けるんだ」 「お前が出てったところでみんな死ぬしむしろ被害が拡大するだけだろうが」 嫁にしてやるという部分は完全に聞き流したらしいスプレンディドは俺の言葉にしかめっ面をしながらも反論しない。 どうやら自覚はあるようだ。 スプレンディドの本質はヒーロー(英雄)ではなくただのキラー(殺人鬼)。 彼が動けば動くだけ死人の数は増え続ける。 「……それでも私はヒーローがいいんだ」 「そーかい。いいけどな、別に」 何したって死ぬんだし、という言葉は呑み込んだ。 これ以上機嫌を損ねるとパンを取り上げられる可能性がある。 自分から幸せを放棄するなんて馬鹿のすることだ。 温かい紅茶を一口啜って二つ目のパンに手をつけたとき、遠くから助けを呼ぶ声が聞こえた気がした。 気がしたというか確実に聞こえたのだがその声は突如音量を上げた音楽にかき消され、なかったものとされている。 「どうしたジン」 「……いや、なにも」 パンを口に運びつつスプレンディドを見ていると笑いながらしらを切られた。 スピーカーの摘まみをいじる様子はあくまで自然だがどう考えたってわざとだ。 こうしてちょくちょく面倒くさがって悲鳴を無視する癖に、スプレンディドはなぜヒーローに固執するのだろう。 確実に向いてないぞ、お前。 「ああそうだ、誰助けようと勝手だけど俺が悲鳴上げてても絶対来るなよ」 「どうして」 不満げなスプレンディドに俺はにやりと唇を歪めた。 「どうせ死ぬんだから戻ったらすぐおいしいパンが食べたい。パン屋にならないなら俺が悲鳴上げて死ぬときくらい俺のためにパンを焼いておいてくれ」 焼きたてのパンは幸せの味。 死の先にこの幸せがあるならば耐えがたい苦痛でも耐えられる――精神の死だけは、回避できる。 「危機に駆け付けなくたって俺はお前に救われてるんだぜ、スプレンディド」 俺以外誰も救えちゃいないだろうけど。 |