悪気の有無に関係なくうっかりで何かを忘れたり失くしたりするのは誰にでもあることだと思う。少なくとも五条にとってを忘れること、失くすことは日常茶飯事だし、もしそれについて怒られたとしても「別にいーじゃん」「俺が怒られる意味がわかんねぇ」としか思えなかった。 怒られて反省できないのには一応ちゃんとした理由がある。一応、というのはこれが五条にしか正しい意味で理解できない理屈だからだ。 五条にしか理解できない理由、理屈。孤高として孤絶していたがゆえの、社会性ある生き物、人間としてあまりに身も蓋もない身勝手なことわり。つまるところこれまで忘失、紛失してきたそれらは、五条にとってすべて『どうでもいいことばかりだった』のである。 大切ではないから忘れただけ。失くしても気づかなかっただけ。簡単に忘れる程度の物事を順当に忘れたところで怒られるいわれなどありはしない。持ち物も約束も呪術界のルールも、本当に大切なら忘れたりしない。それを忘れたということはつまり忘れても問題ないものだったということではないか。と、五条は本気でそう思っていた。 それは例えば吾郷との出会いの記憶にも当てはまる。 最初のときはどうでもよかったから忘れてしまったけれど、もしいまやり直したなら絶対忘れない。大切なものは憶えていられるんだから俺は絶対悪くない。 生まれてこのかた何かを大切に思うことなく生きてきた五条はそれを屁理屈ではなく心の底から正当な理屈だと信じ、その心のままに行動してきた。 問題が起きて叱られても完全に無視するか、あるいはぶすっと不貞腐れた態度をとって省みず。大切なものが少なすぎるから経験することがなかっただけで、元来自分は覚えておくべき物事から意識を逸らしやすい性質なのだと気づく機会もないままに。 *** 「五条、どうした?」 手汗をかいているというわけではないが乾いた吾郷の手と比べると間違いなく湿り気を帯びているのが気になって、なるべく肌の合わさる面積が少ないよう引っかけるみたいにして絡めていた指。その指を通して動揺が伝わったのか、吾郷が面を外して素顔をさらしている五条を覗きこんできた。 思わずうっと息を飲む。なんでもないとシラをきってしまいたい。けれどそうしてしまうと現在進行形で発生中の問題は解決できなくなってしまう。 はやく行動しなければ取り返しがつかなくなるかもしれないときに一回休みのマスへ自らとまりにいくほど馬鹿なことはないだろう。 「……ちょっとトイレに」 「ああ、ならちょうどそこに仮設トイレあるから行ってきな」 焦りのなか頭をフル回転させてどうにかこうにか別行動できる言い訳を捻り出した五条は吾郷に指をさされたほんの数メートル先、まごうことなき仮設トイレが設置されているのを見て絶望した。なんてひどいタイミング。空気読めよとトイレの設置場所を決めたなんの罪もない人間に心の中で中指を立てる。 仮設トイレは汚いから嫌だと文句をつけてみようか。いや、そんなことをしたところで土地勘のある吾郷に近場のコンビニまで案内されて終わりだ。意味がないどころか祭りの会場から離れてしまうという点において悪手でしかない。 「五条」 「…………………ゆびわ、おとした」 あきらかに不自然な間を繕うこともせず一心になにかないかと考えてみても残念ながら状況を打破する手は浮かんでこなくて、言いたくない言いたくないと何度も頭の中で唱えながらいやいや、しぶしぶ声をしぼりだす。 そう。いま、五条の指には吾郷から貰ったばかりのあのおもちゃの指輪がないのである。 焼きそばを買って二人で食べて、吾郷が地元の祭りなのに一度も参加したことがないという盆踊りの輪に飛び込んで。そのあと夏油と家入への土産を買って帰ろうという話になったところまでは指先の圧迫感や表面をなぞったときの安っぽい質感の記憶があるから、きっとそのあと色とりどりの飴玉や金平糖を選んでいるときに落としてしまったに違いない。 鬱血した指が腫れて外せなくならないようにと時折緩めていたせいだ。失くすわけがないとたかをくくっていたのが仇になった。 ちょっとしたマーキングのつもりで少量ながら呪力を込めていたから指輪が現在どこにあるのか追うことはできる。 でも、もしかしたらこの瞬間にも誰かに踏まれて壊れてしまうかとしれない。踏まれなかったとしても、あんなおもちゃの指輪蹴られて砂利の上を転がるだけで傷だらけになってしまう。 ただでさえちゃちな作りなんだから壊れてしまわないように、少しの傷も作らないように丁寧に、大切に保管しようと、思っていたのに。 失くしてしまった。失くしたことがバレた。きっと呆れられるし怒られる。 指輪を失くしたという事実を責められるのはかまわない。けれど嬉しいと感じて大切にしようと思った事実を疑われて失望されるのは、嫌だ。 そうなってしまったらどうしよう。蔑ろにするつもりはなかったのだと弁解したら吾郷は信じてくれるだろうか。 「なんだ、そんなの気にしてたのか?」 失くした指輪を無事回収できるのか、また失くしたことに対し吾郷はどんな反応をみせるのか。想像してソワソワと落ち着かない気持ちでいた五条は「失くしちまったならしかたない」と軽く笑って本当になんでもないことのようにそう言った吾郷にえっ、優しいと一瞬そう思い、直後に妙な違和感を覚えて眉を寄せた。 なんだろう、これは。しっくりこない。気持ちが悪い。あまりにも、あまりにも軽すぎる。 これは、ああ、そうだ。いまの言い方にこの雰囲気。これはまるで、五条がしでかしたことを許すというより。まるで、 ーー『ぬるい水に氷のカケラを入れたらとけた』みたいではないか? 違和感のかたちにピタとあてはまる言葉のピースを見つけた五条は、しかし次に空白が埋まったことで見えるようになったはずの違和感の意味するところがわからなくて困惑した。 大切なものを失くしたことを許す寛容な態度とは似ているようで全然違う。 それははなからそうなる以外の未来などありえない、期待するべくもない『当然の出来事』に対する反応だ。 おかしいだろう。吾郷は五条に惚れている。吾郷は五条をデートに誘い、おもちゃとはいえ指輪を渡した。自分はそのすべてを受け入れてきた。 意図したことではないとはいえ、吾郷からすれば渡した指輪を即座に紛失されるというのは、成立したはずの好意という契約を突然投げ捨てられて踏みにじられたようなものではないか。 ならば怒ってしかるべきだ。 それなのに、なんでそんな。 「……しかたないってなに」 「渡したとき記念品だと思えとか言ったけど、お前は欲しいとも言ってない安物押し付けられただけなんだから別に気にしなくていい、って意味」 ほら行こうと手を引く吾郷はもう指輪のことなんてすっかり忘れたみたいな顔をしていて、言われた内容に愕然とした五条の口から「は?」と声が漏れた。 信じがたかった。本気で言ってんのかと尋ねようとしてはくりと口だけが動く。 しかたないってなに。気にしなくていいってなに。気にするだろ、俺のもんだぞ。安物を押し付けられたんじゃなくてプレゼントを受け取ったんだ。祭りのあいだはちゃんとつけて、帰ったら傷がつかないように保管して。 「俺は、」 言いたいことはたくさんあるのに言葉が続かない。なんだか心臓が嫌な動き方をしているし首を絞められているように喉が詰まってうまく声が出なかった。 ふと思い出したのは吾郷とはじめて教室で顔を合わせたときのこと。 気づいてしまえば理解せざるをえない。そのときもそのあとも、きっと吾郷にとっての五条は『ぬるい水の氷のカケラ』だった。 とけてもなんとも思わない。もたらされる温度の変化も微々たるもので気にかけるほどのこともない。そうなるのが当たり前でそれ以外のなにかなど期待するべくもない、そんな存在。 しゃべる代わりに唇をきゅっと噛む。 指輪を失くしたことで失望されるのではという五条の心配は杞憂だった。なにせ吾郷の頭には最初から五条が指輪に価値を見出すという考えすらなかったのだから。 なんで。 なにもわかっていない吾郷の顔に腹の奥からふつりと怒りがわく。 なんで。違うのに、なんで。 怒られないことがこんなに不快だなんて知らなかった。だって大切だった。大切にしようとしていた。 ただ絡めた指に、吾郷との会話に意識が向いてしまっただけで。でも指輪だって気づくたびに目で見て、指でなぞってその存在を確認していた。どうでもいいなんて思ってなかった。 俺はちゃんと、大切にしようって思ってたんだ。 「五条?ッ、おい、どこに」 「どこだっていいだろ。すぐ戻るからうんこでもして待ってろよ」 絡めていた指を物を投げ捨てるときみたいに勢いよく解いて大股で歩き出し、雑踏のなかにまぎれこむ。 いや、まぎれこめてはいないだろう。なにせ人より頭ひとつ分飛び抜けた高身長に夜でも目立つ白い髪だ。まぎれこめているはずがないから見失ったというわけでもないだろうに、吾郷は五条のことを追ってこなかった。ムカつく。 ムシャクシャした気分のままに、下駄の歯とつま先部分で削りとるように砂利を蹴る。すると当然のごとく足裏に砂粒が入り込んできてただでさえささくれだった神経が逆撫でされた。 唯一の救いはあからさまな不機嫌オーラを撒き散らす五条にナンパをしかけてくる空気の読めない猛者が現れなかったことだ。 普段なら気乗りしないナンパは無視するかそもそも意識に入ってこないのだが、攻撃的な気分になっているいま、猫撫で声で話しかけられでもしたら舌打ちして「鏡見たことねぇのかよブス」くらいのことは口にしてしまうだろう。 それで突っ掛かられたとしても戦闘慣れした呪術師であり無下限呪術を扱う五条に非術師が触れるすべなどあるはずがない。とはいえ、この一秒でも早く指輪を取り戻したいというときにわざわざそんな無駄なことに時間を割きたくもなかった。 誰かに拾われたのだろう。少しずつ移動している呪力の気配を追って浴衣がはだけるのも気にせずズンズンと大股で歩みを進める。 やがてぴたりと足を止めた五条の目前には、手を繋いだ大人と子供ーー子供と親密にする機会も関心もない五条には正確なことはわからないが、おそらく三歳ほどであろう幼女が目を丸くして立っていた。 なんの変哲もない黒茶の目。 幼児特有のやけに透き通った、自分の信じている世界が揺らぐことなど想像もしていないであろうまっすぐな視線は、五条の胸を不思議なほどに苛立たせた。 |