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 天体望遠鏡で覗いた月のように、あるいは怪異という存在を認識したあとの世界のようにひとつ知るとなにもかもが違って見えることがある。
 のちになって気づくことだが、真下の後輩である朝倉拓巳はまさしくそういう男だった。
 出会いは真下がまだ刑事だったころ。なぜか真下に懐いた朝倉は積極的に仕事をサポートしたり食事や睡眠など健康に気を使ったりとさながら忠犬のように甲斐甲斐しく尽くしてきた。初めはたまにいる集団の空気を悪くする人間を放っておけないお節介なタイプかと思ってただただ面倒くさく感じていたのだが、真下が上司の指示を無視したときや独断で捜査を行ったときなど至極楽しげに笑うものだからどうやら真下を更生させて輪に加えようなどという考えはもっていないらしいと気がつき、それならばと放置することに決めた。
 でかい図体で視界をちょろちょろするのは鬱陶しいが飲み過ぎでカフェインの効果が薄れてきたコーヒーの代わりに炭酸を買ってきたり誕生日に仮眠用のクッションを渡してきたり手作りはさすがに気色悪いだろうからとレトルトの野菜スープを差し入れしてきたり、そばに置いておくとなにかと便利だったのだ。
 過干渉ではあるが行き過ぎではない気遣いが心地よくて、またそれが当然というふうに接してくるものだから、真下は朝倉のあれやこれやに慣れるにつれ一歩、もう一歩と近づくことを許していった。
 コーヒーや炭酸の代わりにビールを渡されて煮詰まった仕事を放棄して二人で飲むこともあったし寒い日の仮眠中には真下の上着の上に朝倉の上着が重ねられるようになった。
 警察寮の互いの部屋を行き来することも増え、非番の日には朝倉の手料理を食べるようになった。料理といっても大抵は鍋かカレーか野菜炒めだ。朝倉は平均より細身な真下にとにかく栄養をとらせたいようで味噌汁にはいつも大量の具が入っていた。わざわざ口にすることはなかったが幼いころに食べた祖母の味噌汁を思わせるそれが真下は少し気に入っていた。
 このころになると真下は朝倉の自分に対する感情が単純な好意ではないと気がついていた。
 酒に弱い朝倉は大抵真下より先に酔って機嫌良く「すきです、だいすき」と繰り返しはじめるし、泥酔したときには頬にキスされたこともあった。唇にし返したら幸せそうに笑って眠ってしまったし起きたときにはまるで覚えていない様子だったから仕方なく流してやったがもはや真下の中では朝倉の気持ちは確定したも同然だった。
 なぜなのかはわからない。自分の顔が整っているのは理解しているがそれがプラスにならないほど人に嫌われる性格であることもまたよく理解している。だがまあそれでもこれまでだって真下の性格や態度を気にせず近寄ってくる人間がいないわけではなかったし、人の感情に理由を求めるタチでもなかったので深く追及するつもりはなかった。
 恋愛の駆け引きなど興味はないし片想いの間が一番楽しいなんて被虐的な趣味もない。手間が省けたな、と。そのときはただそう思っていた。
 もう少し踏み込んで観察していれば、あるいは朝倉本人に自分に対して好意的な理由を確認していれば何かしらの違和感には気づいたかもしれない。気づいたところでこのときの真下は怪異なんて信じるどころか想像すらしたことがなかったのだから違和感の根本を理解することはできなかっただろう。しかしもしこの時点で朝倉の自分に対する感情がただの恋愛感情などではないと気づけていればその後の、それこそ手間のかかる展開は避けられたはずだ。
 変えられない過去にもしもなどありはしない。すべては後の祭りというものだが、それでも真下はこのときの自分の判断を後悔せずにはいられなかった。

***

 権力者が関わっている事件を追っていたせいで冤罪を負わされ刑事を免職になったとき真下は何がなんでも真相究明を諦めないと心に誓うと同時、この件にかたがつくまで朝倉との接触を断とうと考えた。
 下手に事情を知れば自分もついていくといいだしかねない。自惚れでもなんでもなくそう思えるほど朝倉は真下に懐いていた。
 よくよく横暴だ自己中心的だと非難される真下だが、独自基準でやっていいことと悪いことの線引きはある。どうでもいい相手ならともかく朝倉を自身の失職の道連れにするつもりはなかった。
 解決したら会いに来ればいい。朝倉から真下への連絡手段はなくとも真下には朝倉の所在がわかっている。あれがそうそう心変わりするとは思えないし離れたところで何も問題はない。
 そんな、朝倉という男を見誤った上での慢心が誤算を生んだ。
 怪異という埒外の要因が絡んでいた事件をどうにか解決したあと探偵として起業し、その仕事がてらに朝倉と接触を図ろうとしたとき、朝倉はすでに真下と同じ経緯を辿り後を追うようにして警察から姿を消していたのである。
 弱みを握っているおかげでいい情報源になってくれるかつての同僚が嫌な笑みを浮かべて朝倉の免職を口にした瞬間、想像していなかった事態に動揺を隠すことができなかった。思い出したくもない失敗だ。真下を揺さぶることに成功したのがよほど嬉しかったのだろう。あのにやけ面の腹立たしさときたら、あやうく公衆の面前で暴力沙汰になるところだった。
 そうならなかったのは頭に血が昇るより早くある可能性に思い至り血の気が引いたからに他ならなかった。
 朝倉が真下と同じ事件に手を出して冤罪を被せられ免職になったのだとしたら。その後も自身と同じように独自に事件を追っていたとしたら。朝倉は最悪、真下より先にH小の花彦━━怪異に遭遇してしまっている可能性がある。
 おぞましい想像だった。真下が死の刻限ギリギリで消滅させた怪異に真下より先に遭遇しているというのは、朝倉はすでに死んでいるというのと同義だ。
 信じたくはないが朝倉の行方が知れないとなっては否定することもできない。過去の会話や行動を思い出して顔を出していそうなところで聴き込みを行ったり、いい思い出のまったくないH小に再度忍び込んで隅々まで探索したりしたりしてみたが消息を掴むどころか手がかりひとつ見つからず、じりじりとした焦燥だけが募っていく。
 いい加減苛立ちが限界に達しつつあったある日、奇妙なほどタイミングよくその女は現れた。

「八敷さんからあなたの話を伺って依頼をしにきたの。元刑事で元印人の探偵さん。お互いに災難だったわね」

 真下より後に九条館を訪れた印人だという厚化粧の老婆、安岡都和子。
 個人のものというには数の多い、しかもどれもこれも胡散臭い内容の依頼を寄越した安岡は、その裏に関わっているかもしれないモノを察して即座に断ろうとした真下に悠然と微笑みこう告げた。

「ところで真下さん、あなた朝倉拓巳という子を探しているらしいわね。彼に会いたくはないかしら?」

 ここで聞くとは思わなかった名前を突然出されて息を呑む。
 真下に探し人がいるということをどこで聞いたのかと訝しく思ったが、きっと尋ねても答えはしないだろう。先程のセリフもそうだが口角付近に刻まれた皺をさらに深くして返事を待つ安岡の雰囲気が「情報がほしければ依頼を受けろ」と物語っている。
 その余裕のある態度に思わず顔が歪んだ。逆ならまだしも、弱みを握られて使いっ走りをさせられるなんて冗談じゃない。しかもただの使いっ走りではなく命懸けだ。本来ならいくら金を積まれたって割に合わない仕事である。
 けれどこれを逃せば朝倉の行方に繋がる情報を得られる機会は二度と訪れないかもしれないという思いもあった。怪異関係でさえなければ一も二もなく飛びついていただろうとも。

「……少しだけ先に教えてあげる。あの子、このままご実家に戻れば近く怪異に呑まれて死ぬことになるわよ」
「、は」

 逡巡する真下に安岡はもう一押しと、一押しにしては威力の大きすぎる爆弾を投下した。
 実家。怪異。死ぬ。
 言われた内容と朝倉が頭の中で結びつかない。いや、怪異と死については花彦に遭遇しているかもしれないと考えたときに真下も想像したことだ。しかし実家に戻ればというのはどういうことなのか。

「そういうものと縁が深い家系なの。九条家と同じようにね」
「……朝倉も、怪異のことを知っているのか」
「ええ、詳しくは聞いていないけれど幼いころから何度も巻き込まれているはずだから。朝倉の男はみんなそうなの。わたくしも若いころ何度か彼のお爺さまのお手伝いしたわ」
「その爺さんは」
「死んだわ。まだあの子が生まれる前のことよ」

 真下の困惑を汲み取って説明を加え「自分は死なないと大見得を切っていたくせ」にともの寂しげな表情で呟く安岡をよそに、真下は妙に芯の冷えた頭で朝倉の家と怪異は九条家とあの人形に似た、もしくはそれより強制的な関係を持っているということかと考えた。
 真下にとって日常の象徴ともいえる朝倉が自分よりずっと早く、深く怪異に関わっていたという事実に心臓がざわめく。
 それと同時に直感で悟った。
 真下への盲目的な好意と執着、そして真下がいないのなら用はないと言わんばかりに職どころか人生すら投げ捨ててしまうような将来への無関心さ。
 それらの根源にあるのはおそらく、死に対する諦めだ。明るく気楽そうな外面はそのまま朝倉という男の闇だった。
 好かれているのだから離れても大丈夫というのは完全な判断ミスだった。あれは目を離してはいけないものだった。朝倉はきっと真下をこの世へのよすがにしていたのだから、離れたりせず傍に置いて、掴んで、繋ぎ止めておかなければならなかったのだ。
 当人に生きる気力がないから一人で朝倉家に戻るのは自殺行為だと憂いを含んだ溜息を吐きつつ「あなたはとても『強い』し相性もいいみたいだからあの子のそばにいてほしいの」と真摯な声で言うくせに依頼を下げるつもりはないらしい。強かな女だ。
 数分か数秒か、殺気混じりの睨みにも張り詰めた空気の沈黙にも終始動じず真下を見つめ返していた安岡はついに根負けして目を逸らした真下の舌打ちを是として受け取り、再度その頬の皺を深めて微笑みを浮かべるともっとも重要な、危険性が高い依頼について詳細を語り始めた。

「━━雨の赤ずきんという噂をご存知?」