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「#幼馴染」のBL小説を読む
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* ぬるま湯の潮時 の続き

「わかった。相澤、ペンと朱肉貸すから親指貸せ!結婚しよう!」

 突然の宣言。おろおろするばかりだった市井が覚悟を決めたように相澤に対峙し、片手でペン立てをガチャガチャと引き寄せた。
 わけがわからなくて「あ?」と声を上げる相澤に、いくつかのボールペンをゴミ箱に捨ててあったレシートの裏で試し書きし、一番インクの出が良かったらしい一本を握りしめて「だってさぁ」と睨むような強い視線を向ける市井。

「そりゃあ深いことなにも考えずに一緒にいれたらお互い幸せでハッピーみたいなノリでもらってきたやつだけど、渡す気とかさらさらなかったけど、なんもしないで捨てるってなったらなんか、いろいろ諦めるみたいで嫌じゃん……!」

 結婚の予定はないけどここに名前並べたいなと思った相手はお前だよだから結婚してくださいいまならお前酔ってるし俺も酒飲んでるしダメでも冗談だったってことでいけるよな空気読めよ相澤ァ!と一息に告げて猛然とした勢いでペンを押し付けてきた市井に、相澤はいったいどうするのが正しく空気を読んだ行為なのだろうと逡巡した。
 先程は婚姻届というあまりに予想外の物を見つけてしまい、酒で理性が働かなくて、カッとなって不義をなじるような態度をとってしまった。
 困惑する市井の顔を見た瞬間打つ手を誤ったことに気づいて血の気が引いた。
 ただの友人の結婚にただの友人が口をはさむ権利はない。軽く祝福して流すべきだった。酒が入っていたからできなかったのか、シラフの状態でならそれができたのかは定かでないが、そうするのが正解なのは間違いなかった。
 いまは、どうなのだろう。ダメでも冗談にできるといった市井は、これを冗談にしたいのだろうか。必死になって考える。正解しなければ後がないように思えた。
 そもそも諦めるってなにをだ。お互い幸せとはなんだ。自分の気持ちが知られていたということか。市井はそれを喜ばしいことだと思ったのか。だとしたらなぜ、婚姻届なんか用意しておいて渡す気はなかったなどと。
 どこまでが本気でどこまでが冗談なのかわからず懸命に頭を回転させていると胃の中のつまみとアルコールがせりあがってくる嫌な感覚がしてぐっとこめかみを押さえた。
 もういい。書いてしまおう。
 震える肺から息を抜き、市井からボールペンを受け取って無心で空欄を埋めていく。
 手がこわばって上手く字を書けないのは酒のせいにできるだろう。後で「まさか本気にするとは思わなかった」と引かれたら、相手もいないのに婚姻届を用意するほど結婚に憧れる夢見る中年男に同情しただけだと鼻で笑ってやればいい。

「あれ?相澤、澤の字なんかおかしくないか?」
「戸籍ではこっちの字だから正式な書類はこう書かないと、」

 受け付けてもらえないんだと続けようとして、ペンが止まった。視線を上げると、監視するようにじっとこちらを見つめていた市井がニヤニヤとした笑みを浮かべている。

「本気で書いてくれてんの、うれしい」

 馬鹿にされているのかと思って一瞬本気で手の力加減がわからなくなったのに、本当に締まりのない幸せそうにゆるんだ顔でそんなことを言われて、頭の中にスクランブルエッグが浮かんできた。よくホテルの朝食に出てくる黄色のアレくらい今の情緒はぐちゃぐちゃだ。

「……これ」
「ん?」
「拇印でも大丈夫なのか」
「認印でもいいって書いてあったし大丈夫でしょ。俺は実印押すけど」
「本気だな」
「本気だよ」

 こんなことならペン字講座でも受けとくんだったなと思った。
 この紙には、もっと綺麗な字で書きたかった。