「……なに、笑ってやがる」 だらしないことになっているであろうおれの顔面をぽかんとしながら凝視していた船長が漏らした声は、先程の怒声から一転して喜怒哀楽どれもを含んだ宙ぶらりんの感情を示していた。 おれが笑うのはそんなに珍しいことだろうかと自問し、確かに珍しいと自答する。 船長がいつもおれに対して不機嫌そうにしているのを嫌われているからだと思って勝手にやさぐれていたが、考えてみればおれだって船長の前ではずっと緊張して強張った表情になっていた。 クルーになって間もない頃はそんなことなかったはずなのに、最後に船長にちゃんとした笑顔を向けたのは随分と前のことだ。 おれは船長に気を許してもらえないことが辛かったけれど、船長もおれに笑いかけられなくて悲しい思いをしたのだろうか。 少し優しく触れただけの右腕を酔いから醒めてなお手放そうとしない船長は、今までのおれの心ない行動のせいで体裁を取り繕えないほど傷ついているのかもしれない。 昨夜の涙の時点で情報が止まってしまっているのなら尚のこと精神状態は最悪のはずだ。 どうすれば殻に閉じこもってしまった船長におれの気持ちを伝えられるだろうと思考を巡らせているとついさっき机の上に置いた本が視界に入った。 船長の喜ぶ顔が見たい一心で購入を決意したプレゼント。 これを渡せば少しくらい好意を信じてもらえるかも、と一縷の希望を胸に本を手に取り、刺激しないようゆっくり船長に近づく。 一歩足を出すたびに逃げ場のないベッドの上で微かに身じろぐ船長を見ているとなんだか自分が悪漢にでもなったみたいだ。 いや、比較するのもおこがましいくらいの強者である船長がおれなんかに追い詰められている様に喜びを覚えている時点で悪漢に違いないのだけれど。 ベッドまであと一歩というところで両膝を床につけると、右腕に船長の爪が喰い込んでピリッとした痛みが走った。 「船長、これ」 邪まな考えを脇に追いやり、できるだけ穏やかな雰囲気を心がけて本を差し出す。 長い沈黙の末しぶしぶといったように本に手を伸ばし、掠れた題名を指でなぞった船長の顔が驚愕に染まった。 タイミングが悪くて不安がらせてしまったがプレゼントのチョイスは外していなかったようだ。 「これ、は」 「船長が探してたやつ、本屋で見つけたから買ってきました。初版の保存されてた島が海軍に消されて間違った記述の写ししかないとかで愚痴ってたでしょ」 「…………なんで」 なんで。 探してはいたがお前に話した憶えはない、希少価値の高い本だ、金はどうした、命令したわけでもないのになんでおれに物を贈ったりする。 何度か口を開きかけては視線を彷徨わせていた船長がようやっと絞り出した疑念に「この本買うためにルビーの指輪売っちゃいました」と意識した軽い口調で返すと、薄茶の瞳が零れ落ちそうなほどに見開かれた。 「前々からこっそり船長の欲しがりそうなもの探ってたんです。おれから物を贈られるのは迷惑ですか?」 本を持つ手に左手を重ねると船長の首が勢いよく横に振られる。 なんだか語る言葉を知らない子供のようで微笑ましい。 本当は指輪のほうを渡したかったんですけど、と苦笑すると船長の首がギシリと音を立てて止まり、視線が絡まった。 「おれ、今まで自分のことばっかりでした。昨日ようやく、そのせいで船長を傷つけてたって気付いたんです。これ以上苦しめたくないと思って船を降りようとしたけど、船長はおれがいなくなることを喜んでくれなかった。おれが自分で考えて行動するとどうにもロクなことにならない」 何か言いたそうな船長の手をぎゅっと握りしめ、真っ直ぐに目を見て「だから」と続ける。 「直接聞くことに決めました。おれは今から、船長の望みをなんでも叶えることにします」 あなたの本心を、あなたを喜ばせる方法を、あなたの口から直接教えてください。 言い聞かせるように強く告げると中途半端に開かれた船長の唇からハ、と吐息が漏れた。 「……なんでも?」 「はい」 「死ねと言やァ、死ぬのか」 「はい。まァ、かなり嫌ですけど船長がそう望むなら死にますよ」 冗談っぽく笑ってみせるが割と本気だ。 それで船長が幸せになれるっていうなら命くらい捨ててみせる。 そのくらい覚悟しなければ、きっとこの人には届かないから。 ちらりと船長の刀に目を向けると慌てたように左手を引かれた。 「ちがう、おれは……おれの、」 おれの望みは。 そう言ったきり眉を寄せて黙り込んでしまった船長の考えは相変わらずわからない。 けれどその表情には見憶えがあった。 おれの胴体を真っ二つにするときの怒りの表情。 船長はいま怒っているんだろうか。 それともこの表情は、怒ってるんじゃなくてなにか別の。 そこまで考えてフラッシュバックするように過去の光景が鮮明によみがえった。 そうだ。 確か戦闘で傷を負って、痛みを耐えてるときも船長はこんな顔を。 「……船を降りるのは許さねェ」 「はい」 この状況でなぜその表情になるのかという答えに行きつかないうちに船長がぽつりと『望み』を口にしはじめたため、疑問をそのままに間を開けず頷く。 本当に受け入れられるなんて信じられないというようにふるりと船長の唇が震えた。 「金は渡すから、指輪を買い戻してこい」 「はい」 二つ目の『望み』も一つ目に続いて些細なものだ。 指輪を贈りたい相手に買い取りの為の金を貰うだなんて格好悪いことこの上ないが本のおかげで手持ちがない現状しかたがない、が……なんだこの違和感。 昨日、船長は指輪が欲しかったと言ってたはずなのにどうして「指輪をよこせ」と要求しない。 おかしいぞ。 耐えてる? なにを。 まさか。 まさか、船長。 ――この状況で、ここまでお膳立てしているのに、我儘を言うのを、耐えて。 まさかそんな、勘違いだろう、そうであってくれ。 そんな願いも虚しく、おれから視線をはずした船長は空気に触れた瞬間消えてしまいそうな弱々しい声で呟いた。 「おれを、嫌うな」 「……はい」 一拍遅れてしまった反応をうけ、船長が絶望したように顔を歪める。 ごめん船長、でもおれちょっと泣きそうです。 なんでも叶えるって言ってもまだ本音を吐きだしてもらえないとか……自業自得とはいえ、キツい。 |