ジャブラは呆然としていた。 これまで互いの誕生日やクリスマスといったイベントごとを悉く無視していた恋人、アルバがどんな心境の変化か、今年のバレンタインはチョコを渡してきた。 紆余曲折あってようやく恋人になったはずなのに恋人らしさが全然ないとやきもきしていたジャブラにとってアルバがそういった行動をとるのはとても喜ばしいことだ。 渡されたのがチョコレートでなければ尻尾の一つや二つ振ってしまっていたかもしれない。 そう、チョコレートでなければ。 イヌ科の動物にとって、チョコに含まれるカカオ成分は死にもつながりかねない猛毒だ。 そしてそれは狼のゾオン系であるジャブラにとっても同じこと。 たとえ能力を使っていない人型の状態であったとしてもチョコレートを口に含みたいとは到底思えなかった。 更に間の悪いことに、バレンタイン当日とあってそこかしこから漂ってくる甘い香りのせいでジャブラはずっとイライラとしていて、だから、アルバから差し出されたチョコレートに顔を歪めて「そんなもん誰が食うか」と言ってしまったのは嬉しくなかったとかそういうわけでは全くなく、ただ、少し気が立っていたという、それだけのことだったのだ。 ジャブラは、呆然としていた。 ジャブラの足元には、さっきまで赤い包装紙と茶色いリボンで綺麗にラッピングが施された『ジャブラのための贈り物』だったはずのチョコレートの箱が、見るも無残にひしゃげて転がっている。 「受け取れ」「いらねェ」の問答を何度か続けた後ジャブラの見ている前でこの箱を床に叩きつけ足で踏みつぶしたアルバは冷たい目でこちらを睨み「そんなにセフレがいいならそう言えよ」と吐き捨てて部屋から出て行った。 セフレがいいなんてそんなはずがなかったが、以前「顔合わせて話ししてセックスするだけじゃセフレと一緒だ狼牙」と愚痴をこぼしたのはジャブラで、今しがたアルバが関心を持ってくれた恋人らしいイベントを拒否したのもまた、ジャブラ自身である。 勿論愚痴をこぼしたのはもっと恋人らしいことがしたかったからだしチョコレートの受け取りを拒否したのはチョコレートが苦手だからだ。 けれどアルバは愚痴の理由もジャブラがチョコレートを苦手としていることも知りはしない。 何も知らずにジャブラの言葉と行動を繋げたアルバが今回のことをどう解釈し、どう受け止めたのかは考えるまでもなかった。 呆然としたままふらりと屈みこみぎこちない動きでひしゃげた箱を手に取って足形の付いた包装紙を剥がして箱を開けると、中から粉々に砕け散った、元は大きなハート形をしていたのだろうチョコレートが現れた。 アルバは体裁を気にする見栄っ張りな男だ。 そんなアルバが女だらけの店でこのチョコレートを買うのにどれほどの葛藤があったのか。 そして、それほど苦い思いをして購入したチョコを受け取らなかったジャブラに対しどんな風に感じたか。 目の前にある砕けたハート形のチョコがその答えだ。 アルバはきっと、ジャブラのことを見限ってしまったのだ。 「……ひっ……う゛っ……ぐ、うぅぅ゛ッ……!」 目の奥が痛いくらい熱くなり、頬から髭を伝い、涙が落ちていく。 セフレがいいならそう言えと言われた。 それは、ジャブラがそうしたいなら引き留めないということだ。 恋人としてのジャブラに執着はないと。 そういう、ことだ。 歯を食いしばり手のひらに爪を立てても嗚咽が零れるのを押さえられずひぃひぃと喉から絞り出したような嗚咽を漏らしていたジャブラは、ほどなくして拳を解くと震える指でチョコレートの欠片を摘み上げた。 口内で溶かし、飲み込んで、すべての欠片を腹の中に収めてしまえば元通りになるのではないか。 そんな馬鹿げた衝動に突き動かされるようにしてハートの欠片を口に放り込み咀嚼する。 涙だか鼻水だかで塩辛い口の中に広がる、舌がひりつくほどの濃厚な甘み。 反射的に吐きだしそうになるのを押さえてもう一つ大きな欠片を押し込む。 と、 「おいジャブラ!お前チョコレート食ったらヤバいって本当なの、か……」 バンッと大きな音を立てて扉を開けはなったアルバが、泣きながら口をむぐつかせているジャブラを見て動きを止めた。 見開かれた瞳に先程の冷たい視線を思い出して身体が竦む。 きっとジャブラには粉々になったチョコですらふさわしくないと取り上げにきたのだ。 そう考えたジャブラが奪われる前にと必死に両手で残りのチョコを掴んで嗚咽にむせながら口に含むと、アルバはサッと顔を青褪めさせ、動揺した様子でこちらに駆け寄ってきた。 「な、おまっ、なにやってんだ馬鹿!吐け!」 「ん゛ーっ!む、ぅう゛ーッ!」 「唸るな!犬か!ッじゃねェ、犬だ!犬はチョコ食えねェんだろ!?だから受け取らなかったんじゃねェのかよ!」 部屋から出た後で誰かに教えられたのか、正しくジャブラがチョコの受け取りを渋った理由を言い当てたアルバが「死ぬ気か!」と怒鳴りながら顎を掴んで歯を抉じ開けた。 吐きだしたくなんてないのに指を突っ込んで溶けかけの大きな欠片を掻き出され、溶けているものも念入りに、アルバの舌で直接舐めとられる。 「ったく、しょっぱいなァ。どんだけ泣いたんだよ……おれが悪かったから、泣くなよ」 理由も聞かないで怒ってごめん、と優しく抱きしめて背中をとんとん叩くアルバにまた涙が溢れてきたが、仕方がない。 だって、アルバが戻ってきた。 だから、これは仕方がないことなのだ。 「こ、こいび、とっ」 「ん?」 「恋人、じゃねェと、い゛やだっ!」 もはや嗚咽を殺すこともなく泣きじゃくりながら懸命に主張すると「おれだって」と笑ったアルバにまた唇を塞がれた。 チョコはもうなくて涙の味しかしないはずなのに、なぜか甘いキスだった。 |