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上官であるモモンガに傾倒しすぎているせいで誰かと交際することなど絶対に不可能だとまで言われていたアルバを、マリンフォード内のデートスポットと呼ばれる場所で目撃した。
モモンガがそんな内容の噂を耳にするようになったのは冬の寒さが薄れ温かくなってきた頃のことだった。
一度だけなら見間違いという可能性もあるが複数人が時と場所を変えて何度も目撃している以上噂の信憑性はかなり高いだろう。
それでもモモンガは噂を信じていなかった。
否、信じたくなかったのだ。
いつもモモンガのことを一番に考えてくれている部下が、互いに忙しく職場以外では会うこともままならない恋人が、自分の知らぬ間に他の誰かと逢瀬を重ねているという事実を。

自身の執務室の中、モモンガは一冊の手帳を片手に立ち尽くしていた。
来客用のソファの上にぽつりと置き忘れてあった革張りの手帳は去年アルバの誕生日にモモンガ自身が贈ったものだ。
何が書かれているか気になってこっそりと開いた手帳には、いつもモモンガが読みやすいようにと丁寧に報告を綴るアルバの字が几帳面にびっしりと並んでいた。
店の景観、混雑の具合、ランチメニューの味や量、少し前から始まったという観劇の内容、夜景の美しい場所、それに、ホテルのベッドの大きさと頑丈さ。
いくつかの店の名前はアルバを目撃したという噂で耳にしたものと一致していて、そういった情報に疎いモモンガでも一人で入るような店ではないことが嫌でも理解できた。
相手がいる。
アルバと昼食をとり、劇を楽しみ、美しい夜景を見てホテルに入った相手が、自分以外に。
湧き上がってきた様々な感情が体中で暴れまわり、よろけるように机に手を突いたモモンガの頭に「当然だろう」と自分の声をした嘲笑が響く。
告白してきたのはアルバだ。
男同士、それも息子といってもおかしくはない年齢の部下に迫られたショックで酷い言葉を吐いたモモンガを、アルバはそれでも諦めることなく追い続けてくれた。
真面目で誠実で、いつだって真っ直ぐにモモンガを見つめるアルバ。
付き合い始めた理由こそ絆されたからというどうしようもないものだったが、今となってはモモンガの方がずっとアルバに溺れている。
それなのに言葉にしなかった。
アルバがモモンガを好いているから、アルバがモモンガの手を掴んで離さないから、だから仕方なく付き合っているのだというふうを装っていつも素っ気なく接していた。
話術に長けているわけでも聞き上手なわけでもなく、子供のようなキスをねだられただけで動揺して怒鳴り散らして。
若い女なら初心と言っても聞こえはいいが自分のような年嵩の男が色事に不慣れなど、いいことは一つもない。
夜だって毎回アルバに任せきりだった。
暴力じみた快楽を前に醜態をさらさないようにするのが精いっぱいで、アルバを悦ばせるために何かをする余裕は欠片もなかった。
考えれば考えるほどアルバを繋ぎとめておける要素がどこにもない。
掴まれた手を握り返しておかなければ手を離された瞬間にすべてが終わる。
当然だ。
そんな当然のことに今更思い至り、モモンガは冷たくなった手から手帳を取り落した。

「モモンガ中将失礼します!ここにおれの手帳っ、……モモンガ中将?」

手帳がないことに気づいて探しに来たのだろう。
モモンガが手帳を落とすと同時、いつになく慌てた様子で執務室の扉を開いたアルバが少し息を弾ませてモモンガの足元に落ちている手帳に目をやった後、訝しげにこちらに寄ってきた。
青褪めている顔と留め具の外れた手帳を見比べる視線が痛い。

「モモンガ中将……あの、もしかして……見てしまわれましたか?」

問いかけではあるがほとんど確信しているのだろう。
にも関わらず、それでも信じ難いといったふうなのはアルバがモモンガに抱く盲信故だ。
アルバは昔からモモンガのことを克己的でストイックな人間であると思い込んでいる節がある。
そんなモモンガが人の手帳を盗み見るなどあり得ないというわけだ。
自分自身そうあろうと努力しているためこれまでアルバの抱く印象に否を唱えることはなかったが、しかしモモンガとて所詮はただの俗人にすぎない。
いけないと頭で理解していても抑えられない衝動はいくらでも存在する。
それが唯一無二の想い人に関する事象であれば、尚更に。
アルバの期待を裏切りたくない。
どういうことだと問い詰めたい。
聞きたい、聞きたくない、誤魔化さなければ、しかし。
相反する考えにとらわれ硬直するモモンガを前にして、アルバは気まずそうに眉を下げ「すみません」と小さく謝罪するとゆっくり腰を屈めて手帳を手に取った。
手帳。
アルバと『誰か』が共に在ったという記録。
それがアルバの手に収まっていることに言いようのない激しい嫌悪を感じ反射的に手帳を奪い取る。
きょとりとしたアルバの瞳の中には酷い顔をしたモモンガが映っていた。

「ーーおれは、別れんぞ」
「え?」
「これの相手とどちらが浮気なのかは知らんが、上官に手を出しておいて……あ、あんな、身体まで繋げておいて今更、おれ……私は、絶対に認めんからな!」

「別れたくない」ではなく「別れない」。
堰を切ったようかのように口から漏れ出す言葉の醜さに我がことながら吐き気を覚えた。
これまでちっとも恋人らしい行為に協力してこなかった癖に、上官という立場を笠にきて、あろうことか手帳の相手も結んでいるであろう肉体関係を盾にとって怒鳴りつけるなど許されざる愚行だ。
だが、もうそれしか方法がなかった。
この期に及んで素直に気持ちを伝えることも、愛を乞うこともできない自分には、それしか。

「中将……モモンガさん、何か勘違いしてませんか?」

機嫌を取るように変わった気安い呼び方に、初めてそう呼ばれた日のことを思い出してじわりと涙腺が緩む。
手帳を奪ったのとは反対の手をとり眉を寄せてこちらを覗き込むアルバの白々しい言葉に縋り付いてしまいたいが、浮気の証拠である手帳はモモンガの手中にあるのだ。
勘違いで済ませられるはずもない。
「手帳、ご覧になったんですね」と今度こそ疑問符の取り払われた確認に歯を食いしばったまま頷くと苦い笑みとともに引き攣った目元を撫でられた。

「モモンガさん、やっぱり勘違いしてますよ」
「ッホテルにまで泊まっておいて何が……!」

怒鳴りつけるモモンガを見る目はいつも通り真っ直ぐで優しげなそれに思わずたじろぐ。
アルバはそんなモモンガを落ち着かせるように再度目元を撫で、そしてゆっくりと唇を動かした。

「一人で泊まりました」
「……、は?」
「一人で泊まりました」

ここに書いてある店も劇場も全部一人で回りましたと少し恥ずかしそうにしながらもきっぱり言い切るアルバ。
思ってもみなかった言葉に目を白黒させるうちに「確認してもらっても大丈夫ですよ」と携帯電伝虫を差し出され、モモンガは更に混乱した。
手帳に書いてあった店も目撃情報があった場所も、もちろんホテルだって一人で訪れるようなところではないというのに、どうして。

「モモンガさん、もうすぐ誕生日じゃないですか。一緒に外出する機会なんて滅多にないし……だからデートのとき目一杯楽しんでもらいたくて、失敗しないように下見してたんです。デートスポットなだけあって周りはカップルだらけですし一人でウロウロするのはかなり恥ずかしかったんですが、その、誰かに付き合ってもらったとして万が一不貞を疑われたら、せっかく恋人になれたのに捨てられるかもしれないと思って」

疑問に答えるように話し始めたアルバが「まさか一人で行動しても不貞を疑われるとは思いませんでした」とはにかんだところでモモンガは「ぁ、」と小さく声をあげた。
全て勘違いだったなら。
それなら、あの癇癪じみた主張はつまり、墓穴を掘っただけということではないか。
モモンガを想ってくれていたアルバを信じきれずに疑った。
冷静さを欠いて先走り、アルバが好意を抱いた理想的な偶像にあるまじき汚らしい感情を曝け出した。
どれもこれも考えるまでもないほど最低の行動ばかりだ。

「ぁっ…わ、わたし……おれは、違う、私は、私、は――」

失望された。
愛するに値しない矮小な人間だと知られてしまった。
嫌われる。
アルバに見放されてしまう。
嫌な思考が頭を埋め尽くし俯きながら苦しげな声を漏らすモモンガの額にアルバが許しを与えるかのごとく静かに口づけを落とした。

「おれは絶対に浮気なんてしません。別れる気も一切ありません。モモンガさんだってそう言ってくれたのに、どうしてそんな顔をするんです?」

モモンガを慰撫する言葉とともに唇を啄まれ、目のふちに辛うじてひっかかっていた涙がついに決壊した。
ボロッと大粒の涙が零れ落ちたのを皮切りに止まらなくなった涙が頬を濡らし、髭を伝って床に落ちていく。
そっと抱きしめて「不安なことがあるなら全部話してください」と耳元で囁くアルバにモモンガは泣きながら謝罪を繰り返した。
これまでの態度のこと、愛していると伝えなかったこと、浮気を疑ったこと、アルバの思っているような人間ではないこと、不慣れで満足させられないこと。
文法も滅茶苦茶で纏まりのないモモンガの話は理解し辛いものだっただろう。
しかしアルバは時折頷きながら根気強くそれを聞き続け、そして最後に笑った。

「些事ですね」

愛があるなら何も問題ありません。
そう幸せそうに相好を崩すアルバに抱きしめられたまま何度もキスをされ、しばらく固まったのち安堵で膝からカクリと力が抜けた。
急な重みに少しふらついたアルバが「おっと」と驚いたような声をあげ、モモンガを抱えてそろそろと床に座り込む。
軟弱な。
頭のどこかで上官としてのモモンガが顔を出したものの、残念ながら叱責はできそうにない。

「さっき、浮気したと思ってるのにそれでも別れないって言ってもらえて嬉しかったです」
「……疑われて喜ぶな」

「初めて恋を自覚したときの常に真面目で隙のないモモンガ中将より親しい相手の前だと口調が崩れて予定してた起床の時間より早くに目が覚めると不機嫌になる、パクチーが死ぬほど嫌いでおれの作る蟹クリームコロッケが大好きなモモンガさんの方がずっと愛おしく感じます」
「なんだ、それは」

「あと声を漏らすまいと頑張るモモンガさんをどろどろにして口割らせるの、正直すごい興奮します。初々しいの最高です」
「ッ貴様やはりわざとか!」

モモンガの背中を撫で擦りながら会話を続けていたアルバから常々疑わしいと感じていたことの真実を聞いてつい語気が荒くなった。
何故かいつも「どこが好きですか」だの「モモンガさんの気持ちいいところ教えてください」だのやたらとモモンガにねだらせたり説明させたりしようとするアルバに、理性があるうちは歯を食いしばって抵抗できるものの執拗に責められ、わけがわからなくなるまで焦らされた挙句いやらしく強請らされるのが毎度の常で、やめろと言っても「モモンガさんのことちゃんとよくできてるのか不安で…」と子犬のように眉を下げられそれ以上追及できずにいたのだ。
ようやく吐いたなと眦を吊り上げるが、しかしこの流れでアルバを責めることはできないと思い至り怒りと羞恥に肩を震わせる。
なんだか大変な弱みを握られた気分だ。

「ちゃんとベッドが大きくて頑丈なホテル見つけましたから、沢山楽しみましょうね」

オーシャンビューなんですよと自慢げに言いはするが果たしてそのときに景観を楽しむ余裕などあるのだろうか。
くすくすと笑うアルバの声が揶揄うようなのにやけに真剣に聞こえて、モモンガは熱い頬を隠そうとまるで頷くようにして顔を俯けた。