立つ鳥を跡を濁さずという言葉通り妙な名残は残したくないものだが、たとえ一時的にあらぬ噂が広まったとして日々様々な情報が錯綜する海軍本部では部外者となったおれのゴシップなど酒の肴ほどの価値しかない。 きっと数日もすれば他の話題に埋れ、数年後にはそんなこともあったと誰かが思い出す程度に終息するだろう。 したがっておれはここを去った後で自分がどう言われようと構わない。 構わない、のだが、それはあくまでおれ一人だった場合の話だ。 サカズキはこの状況を誰かに見られることが冗談抜きで面倒な事態に発展しかねない立場にある。 マグマで敵を焼き尽くす圧倒的な戦闘力とそれを躊躇いなく振るい続ける精神力、苛烈なまでの正義への執心、部下を従わせるカリスマ性。 常人には得難い上に立つ者の資格をすべて持ち合わせたサカズキという男が次期大将を担うことは既に海軍本部における暗黙の了解だった。 とはいえ、海軍も一枚岩ではない。 神輿に乗せようとする者がいれば引きずりおろそうとする者がいるのも当然のことで、自分にも他人にも厳しい姿勢を貫くサカズキが人に縋って恥も外聞もなく泣いている姿はそういう奴等にとって格好のバッシングポイントになってしまう。 精神脆弱なのではないか、情に流され取り返しのつかない行動に出るのではないかなど、一旦大将としての資質を疑われればそれは後々まで続く足枷となるだろう。 サカズキがその程度の悪評で倒れるとは思わないが回避できるならそうすべきだ。 だからそろそろこの引っ付き虫をなんとかしなければならないのだが……まったく、どう宥めたものか。 一度思いきり泣かせてやればすぐに立ち直るだろうという想定に反し十分経っても二十分経ってもサカズキの涙は枯れる気配がない。 それどころか泣きっ面で長距離を移動させるわけにもいかず普段使用されることが少ない資料室へ連れ込んだことがより一層サカズキを開き直らせてしまったようだ。 当初おれに縋るまいとしていたのはなんだったのかと呆れたくなるほどにぎゅうぎゅうと抱き付いてくるサカズキのおかげで見聞色の覇気が安定せず、いつ人が入って来るかと思うと肝が冷えた。 こんなことで動揺するから少将どまりなんだと自虐しながらぐずぐず鼻を啜って泣き続けているサカズキの背を軽く叩く。 「サカズキ、そろそろ泣き止まないか」 「……泣かせちょるんはあんたじゃろうが。泣いていいと言うたくせにもう反故にする気か」 硬い声に詰られ曖昧な笑みを浮かべると、少し身を屈めて首筋に額を預けていたサカズキが顔を俯かせたままこちらに視線を向けて不機嫌そうに唸った。 赤らんだ頬、涙に濡れた瞳、上目遣い。 それだけの要素を抱えてなお不遜な態度で睨みつけているようにしか見えないサカズキが酷く可愛らしい生き物に思えるおれは間違いなく異常だ。 いくら否定しても心の中から消しきれないこの感情は、もしかしたら気づいていなかっただけでずっと昔からおれの内側に存在していたのかもしれない。 好いた女性を腕に抱いたときの胸の高鳴りとよく似ているが、それよりもっと激しくて汚らしい赤い色をした感情。 愛だの恋だのでは言い表せないこの想いをサカズキが知ったらどんな顔をするだろう。 自分から唇の近くに頬を寄せてくる様子からして案外喜ぶかも、などと楽観していると僅かに開いた隙間を埋めるようにサカズキが勢いよく距離を詰めてきて、軽い衝撃とともに一層隙間なく密着されたおれは思わず両手を上げた。 「おいおい、泣いていいとは言ったがいつまでもこうしてるわけにはいかないだろう」 「なぜです」 「なぜってお前」 人に見られたらサカズキの立場を悪くするかもしれないというのが一番だが、それに加えてサカズキはまだ遠征の帰還報告を済ませていないだろうし、おれは辞表を提出したのだから速やかに本部から立ち去るべき身だ。 むしろこの状況でなぜと問えることを疑問に思っていると、サカズキが責めるような口調で「わしが泣いたらアルバさんの時間をくれるっちゅう約束でしょう」と言って腕の力を強めてきた。 思わず瞠目して動きを止めたおれにサカズキの表情が険しくなる。 「……まさか、憶えとらんのですか」 「いや、憶えちゃいるが約束は、」 約束はしてないはず、と言いかけて口を噤み天を仰ぐ。 昔のことだ。 サカズキと同時期におれの隊に所属していた二等兵が訓練後一人で泣いているのを見つけた。 普段は明るい男だっただけに心配になり「夜に酒でも飲みながら話を聞こう」と告げたところサカズキがそれを止めたのだ。 「アルバさん時間の無駄じゃ。海軍にいながら涙を晒すような弱兵、正義を背負うに値せん」 ゴミを見るような目でそう吐き捨てたサカズキの言葉は、厳しいけれど海兵という命がけの職にある以上間違いではない。 しかしおれは我ながら甘い判断だとは思いつつ「泣くこともときには必要だ。サカズキも辛いときは泣いていい、おれの時間ならいくらでもやる」と確かにそう言ったのだ。 言った当人ですら記憶の片隅に追いやって思い出すことのなかった軽口を絶対的な約束として信じ続けていたサカズキ。 その視線が殊更真っ直ぐにおれを射抜く。 負けた、と。 心の底から感じた瞬間だった。 |