ベル先輩が帰ってこない。
 小隊を率いての国外での任務で、3週間前には現地入りした。ところが向こうで雇った引き入れ役が直前に寝返ったとかなんとかでスケジュールが大幅に後退、果ては定期連絡も途絶え、今現在先輩を含めた隊全員が安否不明とのこと。
 絶対の任務成功率を誇るウチの部隊、ヴァリアーにとってはまさに歴史上類を見ない椿事だし、これで当該案件をしくじったともなれば一大スキャンダルだ。天下のヴァリアークオリティの看板に派手な傷がついてしまう。
 ここ数日は、この件についての事実確認やなんかで本部内もなんとなく慌ただしい。スーツを着込んだ情報処理班の男や女が、廊下の向こうを忙しなく行き来している。
 そんな有象無象から目を逸らして、ミーは部屋の中を振り返った。談話室とは名ばかりの、幹部以下数名が時折集まっては暇を潰すだけの場所。無駄に豪奢なソファの向こうに、窓がある。その外で降りしきる雨を、ガラスに肩を預けたままぼんやりと眺める女がいた。

 「なまえ先輩は何もしなくていいんですかー?」

 声をかけると、女は目線だけを動かしこちらを見た。茫洋としたヘーゼルの瞳が、薄曇りの光を受けてちらつく。

 「ん……私はいいよ。情報収集は担当じゃないし」

 そう言う彼女は、ロン毛隊長のところの戦闘員。そして渦中の人物、ベル先輩の恋人だ。
 恋人、という表現が正しいかどうかはわからない。何しろここにいる人間は全員漏れなく爛れて腐っている。そんな人間同士でそんな美しい関係が成立するわけもないし、あの堕王子がそんな殊勝な立場を彼女に求めている気もしない。それでも、彼は彼女を自分の所有物だと言う。それなら、他に適当な言葉を探すのも面倒なだけだし、便宜上恋人ということにしておけばいい。
 なまえ先輩は、ベル先輩任務失敗疑惑が持ち上がってからずっとこの調子だ。自分の仕事だけは機械的に淡々とこなしているようだけど、それ以外の時間は専らこうして外を眺めているだけ。さすがのアホの隊長も真のアホには手をつけられないようで、特にフォローもなく放置している。

 「でも、気になるでしょー?」
 「そりゃ、気にはなるけど……どうしようもないし」

 そう言って目を伏せる。頬にかかる絹糸の髪がいよいよ陰鬱だ。
 彼女はベル先輩に依存している。ベル先輩がいなければ何もできない。空っぽなのだ。彼女の世界はベル先輩を中心に回り続け、先輩の言葉一つで生きもするし死にもする。
 そんな愚かで惨めなお姫様が、ミーはもうずっと欲しくてたまらない。その美しい空洞に、あのいかれた王子の代わりとして自分をねじ込んでやりたくなる。
 そして今、当の王子が彼女の中からその存在を消そうとしている。
 ミーはソファを回り込み、彼女に近づいた。

 「けどまあ、ベル先輩の生き死には別として、任務は大ポカですよねー。やばいんじゃないですかー、これ。仮に戻ったとして、そのまんま処刑かも」

 なまえ先輩の横に並び、窓枠に肘をかける。外は相変わらずの雨で、ノイズのように走る雨粒が庭木の枝を重くしならせている。先輩は、伏せていた目をゆるりとこちらに向けた。長い睫毛が、色のない眦に影をつくる。雨粒が古い雨粒を押し出し、地に叩き落とすまでもう少し。

 「そろそろ、ミーに乗り換えません?」

 先輩の顔を下から覗き込むようにして、ミーは言った。
 先輩の表情は変わらなかった。窓から見える曇天を背景に、それより暗く重い瞳で静かにミーを見つめている。やがてその瑞々しい唇が微かに震えて、何か言葉を形作ろうとした、そのとき。

 銀色の刃が、二人の間の僅かな隙間を裂いた。


 「何してくれてんだよ、クソガキ」

 部屋の入口には、ベル先輩の亡霊が立っていた。両腕には包帯が巻かれ怪我の痕が見られるけど、五体満足なその姿は生前のままだ。よく見ると、足元にはくっきりと影がある。それじゃ、このベル先輩は、

 「……生きてたんですかー?」
 「生きてるっつの。任務も完了。何の問題もナシ」

 若干脚を引き摺りながらも、ずかずかと遠慮なしにこちらへ歩み寄るベル先輩。ミーとなまえ先輩の前に立つと、窓ガラスにヒビを入れて突き刺さったナイフを引き抜いた。それを左手に持ったまま、今度は右手でなまえ先輩の腕を乱暴に引っ掴む。

 「つーか、おまえもさあ。俺がいない隙になに口説かれてんの? 来いよ。立場わからせてやる」

 そう言って、こちらには一瞥もくれずまた歩き出す。なまえ先輩は何か言おうと口を開きかけていたが、諦めたのか黙って腕を引かれてついていった。

 「ちょっとー、ミー達話の途中だったんですけどー」
 「うるせえ。てめーも後で殺すからな」

 その一言を最後に、二人はドアの向こうへ姿を消した。
 
 しばらくその場で立ち尽くして、ミーは深々とため息をつく。
 本当に、いいところで邪魔してくれる。
 少しして、オカマ先輩が部屋に顔を覗かせた。

 「あっ、フランたら、こんなトコいたの。ベル帰ってきたわよ」
 「知ってますよー……」
 「……あらヤダ、もしかして傷心?」

 うるせーですよ。そう返して、窓に手をやる。割れて、小さな穴が空いたガラス。ナイフが飛んできたとき、刃先がなまえ先輩の毛先を掠めていた。あの人でなし王子、手元がぶれてどちらかに当たってもまあいいやとか思ってやがる。
 それでも、ミーは見てしまった。
 自分の毛先をいくらか切り落とし、窓に突き立ったナイフを目にしたとき。あの嫌味な声が聞こえて、勢いよくそちらを振り向いたとき。
 そのときの、光を取り戻し輝くなまえ先輩の瞳。

 「……あと一押しだと思ったのにー」

 そう呟いたのは、絶対に負け惜しみではない。それなのにオカマが「ヤダぁ〜、アタシが慰めてあげるぅ〜」なんて言うから、全力で無視を決め込んでやった。
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