#1にて登場の友人と国木田さんの話です。
友人の名前変換可能(デフォ:伴野 夕子)です。





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 「えっ、付き合うことになった?」

 素っ頓狂な声を上げ、私はぽかんと口を開けた。
 フォークに巻き取り持ち上げたパスタが、くるくると音もなく皿へと滑り落ちていく。

 「うん、いろいろあって……」

 向かいでなまえが、気恥ずかしさを誤魔化すように珈琲をすする。
 土曜日の午前十一時半。少し早めのランチを食べに、私達は山下公園近くのカフェで待ち合わせていた。

 友人であるなまえと顔を合わせるのは、かれこれ二ヶ月ほどぶりのこととなる。その間、それぞれに仕事やプライベートの行事が重なり、なんとなく会うタイミングを見合わせていた。お互いそれほどマメな性質でもないため、普段からメッセージ等のやり取りもぼちぼちだ。そんな中で、久々になまえの方から連絡があった。ちょうど私も仕事が一段落して、どこかで羽根を伸ばしたいと思っていたところだった。携帯に送られてきたメッセージでは、少し話しておきたいことがあると言うので、それじゃお昼でも食べながら喋ろうかということになり今日のセッティングをした。天気は生憎の雨だったが、地下道が整備されたこの街では然程問題にもならない。

 なまえの話とやらは、切り出すのに少々時間がかかった。言わなければならない、けれども言いづらいといった雰囲気が醸し出されていて、いったい何の話かと私の方もそわそわした。だいたいいつもそうなのだが、やがて私の方がしびれを切らし問いかけた。で、話って何? と。するとなまえは緊張で頬を強張らせながらも口を開いた。

 なまえが話し出したその人については、もちろん私も覚えていた。何しろあんな経験、おそらく人生に二度はない。見知らぬ男性に片膝つかれて、「心中してください」と申し込まれることなんて。あのときはさすがにびっくりして、しばらく思い出す度にしみじみ可笑しな気分に浸っていたが、それもやがて日々に忙殺されるうちに忘れていた。そのときもう一人の人物から受け取った名刺も、扱いに迷って家のどこかに仕舞い込んだままだ。

 そんな奇天烈な遭遇を果たした男性と、なまえはその後偶然にも再会したらしい。そしてまたいろいろな偶然が重なり、なんとお付き合いすることになったと言う。
 言わずもがな、私は仰天した。
 そんなことある?

 「夕子も知ってる人だし、と言うか夕子がきっかけなわけだから、黙ってるのも変かなと思って……」

 カップを置いてもごもごと言うなまえに、私は宇宙を背負いかけていた意識をハッと取り戻した。
 フォークを置き、改めて彼女に目を向ける。

 「いや、うん、聞かせてくれてありがとう。すごいびっくりはしたけど」
 「だよね……変な話だけど、私もびっくりしてる」

 言いながらはにかむなまえを、私はどこか感慨深い思いで見つめた。
 この子とは学生の頃からの付き合いだが、青春真っただ中の当時から、そういう甘酸っぱいあれこれとはどこか一線を引いている節があった。控え目で、何かにつけ考え込んでしまう性格も邪魔をしていたのだろう。社会に出てからもそういった気配は一切なく、けれども本人はそれを然して気にしたふうもなくのほほんと過ごしていた。母親目線ではないけれど、私の方が少し心配してしまうくらいに。
 それがこんな偶然の出会いを果たした人物と、恋仲にまで辿り着いてしまうだなんて。本当に、人生何が起きるかわからないものだ。

 「……しかし、言っちゃ悪いけど変わった人だったよね。大丈夫なの?」
 「ああ、うん……たまに川に落ちちゃったりとか、いろいろあるんだけど」
 「どういうこと?」
 「でも、すごい人だよ。優しい人」

 そう言うなまえの目には、恋情だけじゃない、どこか温かな光が宿っていた。それが何かは、恐らく本人にしかわからないけれど。
 私は知らず知らずのうち、にんまりと口角が上がっていくのを感じた。

 「好きなんだねえ」
 「えっ!? いや、その、それは……そうなんだけど……」
 「もっといろいろ聞かせてよ。どっちからだったの?」
 「ええと、それは……」

 赤くなったり青くなったりするなまえを肴に、私はその後もランチタイムを楽しんだ。あれこれ聞き出すうちに盛り上がってしまって、場所を移しながらも結局日暮れ前まで話し込んだ。


 そして帰宅後。私はすっかり当てられていた。

 「ああ〜、私も恋したい!」

 そう叫び、ぼすんと音を立てベッドに沈み込む。
 話している間は野次馬根性が先に立って、ただ面白く微笑ましいだけだった。けれどもなまえと別れて一人になり、あれこれ反芻していると、その裏に隠れた“羨ましい”という気持ちがじわじわと顔を出す。私だって二十歳を過ぎた女なのだ。そりゃ恋人を得た友人に羨望を抱くことだってある。
 けれども今回のこれは、単純にそれだけが理由ではなさそうだと、私は気づいていた。

 どうしてなまえだけ? そんな薄っすらと暗く、もやもやとした思いが心の隅っこでとぐろを巻いている。

 誤解のないように言っておくが、私は決してかの人物がなまえと恋仲になったこと、それ自体を羨んでいるわけではない。
 確かに彼の容姿はとても整っていた。一般的に言ってイケメンの部類に入るだろう。けれども正直私は、あそこまでパンチの効いた人物と付き合いたいとは思わない。とてもついていける気がしないので、頼まれたって遠慮したい。率直にそう思う。
 けれども一応、二人の出会いのシーンには私という存在だって含まれてはいたのだ。私の方にだって何かあってもおかしくなかったはず。そう思いたい。

 つまり私は、なまえに嫉妬もしていたのだ。運命的な出会いを果たしたなまえに、女として。

 ああ、嫌だな。私は顔を顰める。
 数年来の友人が、幸せの只中にいるのだ。純粋に喜びたい。そういう気持ちはあるのに。

 私はしばらく、天井の白い壁紙を睨んで、それから徐に傍らの携帯電話を引っ掴んだ。
 眠っていた画面を起こし、指先で素早くタップしてメッセージアプリを立ち上げる。少しスクロールすると、目当てのメッセージを見つけた。昨日の夜送られてきて、気乗りしなかったので保留にしていた用件。まだ間に合うだろうか。私は返事を手短に打ち込んだ。

 『参加で!』

 そうして私は来週の華金、久方ぶりの合コンに参加することにした。

 *

 結果から言おう。失敗だった。

 酔客の笑い声が飛び交う店内で、私は苦々しい思いと共にウーロン茶を飲み下していた。
 鉄道の駅近くにある、チェーンの大衆酒場。雑居ビルの三階部分に設えられたその座敷席で、件の合コンが催されている。

 女性側の幹事となるのは、職場の同僚だった。私より一つ年下の、目鼻立ちがはっきりとした垢抜けた子。底抜けに明るいその性格で友人も多く、要領が良く世渡り上手。まさに絵に描いたような、今を生きる陽キャである。
 そんな彼女から、この度職場の女子に向け合コンのお誘いがあった。実を言うと、うちの勤務先は女性の割合が多い。どこの係を取っても概ね四人中三人が女性といった具合だ。加えて外部折衝や出張の多い職でもないので、出会いは限られる。自ら動かねば、望みの薄い環境にあるのだ。
 それ故そういった声かけはありがたくもあるのだが、私は当初、この企画にいまいち気が向かなかった。理由は、発案がその同僚であるということ。彼女は陽キャであり、加えて所謂ところのパリピであった。フェスやクラブ、ナイトプールなど、その手のイベント事には一通りの知識と経験を有する。
 話に聞くだけでも、素晴らしいバイタリティだとは思う。けれども、今回の集まりはそんな彼女が友人の伝手を頼って企画したものだと言う。果たしてそのメンバーに、私のような無難な女がついていけるのか?
 その不安は的中することとなる。

 「あれ? 夕子ちゃん、もうウーロン茶?」

 そう声をかけつつ隣にやって来たのは、参加者の一人である男性。手にはビールが注がれたジョッキを持っており、にこにことあふれて止まらない笑顔が彼の状態を物語っている。私はへらりとした愛想笑いで応えた。

 「うん、お腹いっぱいになっちゃって……」

 それは腹具合の話だけでなく、精神的にも、という意味も含まれていた。
 私たちが通された座敷席は、完全個室となっている。広めに面積を取った部屋の中央には、多人数がかけられる掘り炬燵。床には畳が敷かれていた。その上に散らばる各自の荷物。卓の上には所狭しと並べられた料理やその取り皿、空のグラス類が無造作に置かれる。それらを挟んだ向かい側では、本日の幹事である同僚も含めた四人の男女が、思いつきで始まった王様ゲームに大騒ぎで興じている。
 それが始まった瞬間、私は「じゃ審判で」という謎の発言で一つ笑いを取り、穏便に一線を引いた。そのときには既に全員相当量の酒が回っており、箸が転げても笑ってくれるような状態だったのが幸いした。そこからこっち、度々振られる「この命令はアリかナシか」という謎のジャッジを担当しつつ、私はただ時間が過ぎることだけを祈っていた。

 来る場所を間違えた。まさしくその状態だった。
 私は今回、割とまじめに出会いを求めてこの会に参加していたのだ。普段あまり関わらないようなコミュニティにこそ、新たな発見が転がっているかもしれないという冒険心と期待を込めて。その希望ははかなくも打ち砕かれた。
 目の前で繰り広げられるどんちゃん騒ぎ。これはもはや男女の出会いの場というより、大学生の飲みサーだ。ただ面白おかしく、頭が痛い。私が期待したものはここにはなかった。

 私の右斜め向かいでけらけらと笑い転げる同僚に目をやる。私は改めて考えてみた。この子、今彼氏いるんだっけ? 交友関係の広い彼女からは、色恋沙汰についての愚痴も度々聞かされる。と言ってもほとんどが友人関係の延長のようなもので、それ故かくっついたり別れたりで入れ替わりが激しいのだが。そういえば最近、別れたという話を聞いた覚えはなかった。ということは、おそらく彼女は今現在彼氏持ち。今回の合コンは、彼氏だけではなんとなく物足りなさを感じ始めた彼女が、ただ遊びたかったから企画しただけのものだったかもしれない。

 「え〜、夕子ちゃん小食? てかわらび餅残ってんの、食べていい?」
 「ああ、うん、いいと思うよ。私のじゃないけど」
 「夕子さん夕子さん! 俺こいつとお馬さんごっこするんだけど! アリ!?」
 「アリじゃない? 腰痛めないでね」
 「やっだもう夕子さんやさしー、お母さんみたーい!」
 「褒めてんのそれ?」

 わいわいと賑やかさを増していく同僚たち。隣でわらび餅をつまみにビールをあおる男。私もつられて笑った。その顔が少なからず引き攣っていたことに、気づく者はその場に誰一人としていなかった。


 そんな楽しい会も、やがて終わりの時間となる。会計を済ませ店の軒先へ出たところで、やはり同僚が人差し指を天に立てて言った。

 「じゃあ〜二次会行くひと!」

 はーいやらうえーいやらの声と共に、その指へ向かって皆がわらわらと殺到していく。そんな中で私は一人、腕時計に目をやりながら言った。

 「ごめん、私終電あるから。今日はここまでにするわ」

 終電とは、もちろん口実である。その時間にはまだ少し早いし、逃したところで帰る手段は他にもある。けれども私には、この楽しいばかりの面子とこれ以上付き合う体力は残されていなかった。
 謝るポーズをすると、一様に残念そうな声が上がった。しかしそれも少しの間のことで、何人かが早速端末を取り出し次なる宴の会場を検索し始める。元気だなあ。私はそっと微笑むと、その場を後にしようとした。
 しかし、その背に追いすがる人物が一人いた。

 「ええ〜夕子ちゃん帰っちゃうの? 寂しいなあ」

 それは、途中私の隣へやって来てわらび餅をつまんでいた、あの男性だった。あれから彼は更に酒類を追加注文し、店を出る頃にはべろべろだった。それでも自立歩行は危なげなくできている。酒には相当強いらしい。
 けれどもそれも身体機能に限った話で、理性の方はかなりアルコールに浸されているようだ。元々人懐こくわんこ系だったキャラに拍車がかかっている。帰ろうとする私の上着を掴み、涙目を送ってくる。

 「もうちょっと遊んでこうよ。俺家近いし車あるし、終電逃しても送ってけるよ」
 「いや、もろ飲酒運転じゃん。ダメだよ」
 「あ、そうだった……。じゃあタクシー使いなよ。お金出すから」
 「そんなの悪いって。今日はほんと楽しかったよ。ありがとね」

 そう言うと、彼は眉を八の字に歪めた。あ、なんかやばそう。私は本能的にそう思った。そしてその直感は正しかった。

 「やだよー夕子ちゃん、もうちょっといてよー!」
 「うわっ!? ちょっ、と……離してって!」

 泣き真似をしながら、彼は私の腕に女の子のように取りついた。しかし彼の方が上背があるので、私の腕は軽く引っ張り上げられる形となる。酒で加減がぶれているせいか、その力は思いの外強く、私は肩の痛みに瞬間的に顔を歪めた。

 「痛っ……」

 困ったことになった。振りほどこうにも上手くいかず、私はもがく。助けを求めて背後を振り返ってみても、他の皆は少し離れた場所で盛り上がっておりこちらに気づく気配はない。耳元で彼がわんわん喚く。
 ああ、もうこれは、気の済むまでやらせるしかないのかな。そう悟りを開きかけた、そのときだった。

 「あっ、痛たたたた!?」

 彼の腕を、後方から捻り上げる人があった。

 「悪いな。しかし、そちらの女性は嫌がっているようだ」

 声のした方を、肩越しに振り返る。見上げるような長身。後ろで一つに束ねた金髪は、どこかで見覚えがあった。銀縁の眼鏡が、ネオンの色を反射して光る。

 「あれっ、ちょっと待ってアンタ何やってんの!?」

 そう声がして、先ほどまでお喋りに夢中になっていた同僚が慌ててこちらへ駆けつけた。

 「スイマセンお兄さん、それウチの連れです! さっきまで彼女も一緒にコンパやってて」
 「む……そうだったのか」
 「夕子さん帰るの嫌で引き留めてたの? うざ絡みやめな〜」
 「うう……だって……」

 べそべそする彼を、同僚がようやく引きはがしてくれた。さすが、こういうはちゃめちゃな場面にも慣れているのだろうか。事態に気づいてからの手際は実に良い。連れを脇に退けると、些か憮然とした様子の男性に一つ頭を下げた。

 「さっさと連れて帰りますんで。ご迷惑おかけしました! ……えっと、お兄さんは……」

 そう言って、同僚は一瞬、まじまじとその男性を見つめた。次いで、ふと私の方に顔を向ける。その口元が、心なしかにやつくのを私は見逃さなかった。

 「あっ、じゃあウチら行きます! 夕子さん、また来週!」

 そしてぶんぶんと手を振ると、ぐずる彼を引きずって一行の方へと戻っていった。
 あの子、何かおかしなことを考えていたな。

 夜の街の雑踏の中。残された私たち二人の間にだけ、しばしの沈黙が落ちる。

 「あの……ありがとうございました」

 とにもかくにも、私はひとまず頭を下げた。

 「いや……知り合いだったとは。余計なことをした」
 「いえいえ、普通に困ってたので。助かりました」

 そう言う私に、彼は些か気まずそうにして眼鏡の位置を正した。生真面目な印象のその目元に、私はやはりどこか見覚えがあった。

 「あの、変なこと言いますけど、どこかでお会いしましたか?」
 「は? いや、初対面だと思いますが」

 私は彼の顔をじっと見上げた。つられて彼も私の顔をじっと見下ろす。少しの間。
 やがて私の首が痛くなる直前、唐突に思い出した。

 「あのときの……!」
 「心中の人の……!」

 互いに指さして叫んだのは、ほぼ同時だった。
 一拍置いて、その人は流れるような動作で腰を折った。妙に慣れた動きだった。

 「その節はご迷惑を……」
 「えっ、いやいやそんな、そんなつもりでは」
 「その上ご友人にまで……」
 「あ……」

 思わず口ごもった私に気づいてか、彼がちらりと目線だけを上げた。私も彼も、どこかきまりの悪い思いで互いを見つめる。

 「えっと……もしよければ、少しお茶していきませんか?」

 そう言って、私はすぐ真横で明かりを灯すカフェを指し示した。

 *

 夜から営業を始めるそのカフェで、私と彼は差し向かいに座っていた。
 私は酔い覚ましに温かいお茶を、彼はカフェインを気にしてかルイボスティーを注文し、それぞれウエイターが運んでくれるのを待って話し始めた。

 「えっと、お名前は確か、国木田さんですよね。伴野といいます。先日はお世話になりました」
 「いや、こちらこそ。その後お変わりはありませんか」
 「はい、おかげさまで。その……友人が、いろいろとお世話になったようで」

 早速だがそう話題を振って彼の様子をうかがうと、彼は「いえ……」と言ったきり曖昧に頷くだけだった。私はハッとして、慌てて身を引いた。

 「ごっ、ごめんなさい、なんか私、母親みたいですよね! いや、先日友人から話を聞いたばかりなもので!」
 「いや、心配はごもっともです。まさかあの男と……」
 「ええと、太宰さん、でしたっけ? お元気ですか?」
 「ええ、元気過ぎるほどです。今日も新たな自殺方法の考案に精を出していました。……彼女と出会ってから、気のせいか落ち着いたようにも見えますが」

 そう言って、彼はテーブルの脇に置いた冊子を、何気なく指で撫でた。厚めの和綴じ本で、変わったデザインだが、手帳か何かだろうか。席に着いたときから、そこに取り出してある。知り合いにも、人と話すときは必ずメモを用意すると言う人がいる。真面目そうな彼も、そういった習慣でもあるのだろうか。
 私はなんとなくそちらに目をやりながら、話を続けた。

 「……でも、偶然ってあるもんなんですね。私ほんと、びっくりしちゃって」
 「ええ、全く……」
 「びっくりして……なんかもやっちゃって」
 「もや?」

 唐突に飛び出た私の観念的な言葉に、国木田さんは首を傾げた。
 私は、あ、まずい、と思い、頭でストップをかけようとした。けれどもできなかった。こういう感情を抱くようになった、その経緯を、詳しく説明する必要のない人物と初めて話をしたからだろうか。誰かにこぼしてしまいたいという気持ちを、抑えることができなかった。

 「いやあ、実はちょっと、羨ましいなあとか思っちゃって。だってそんなの、運命じゃないですか。私もいたのになあ、とか思っちゃったり。で、なんかそんなこと考えてる自分が嫌で、ちょっと焦っちゃって。それでさっきのグループで合コン行ってたんですよ。まあ、見事に当ては外れたんですけど。ダメですねえ、よく考えもせず突っ走ると、ろくなことになんないのに」

 まだ体内に残る酒の勢いも手伝っていたかもしれない。一息にそう言うと、私はへらりと笑った。口に出してみると、ますますしょうもない。愚痴と内省。ほぼ初対面の人に向けて何を言ってるんだと、どこかで冷静な自分が呆れ返る。いや、そういう人相手だったからこそかもしれない。

 国木田さんを見ると、気の毒に、やはり少し困った顔をしている。やっちゃったなあ、と私は素直に反省する。酒が入っているときにこんな話をするものじゃない。

 「すみません、いきなり愚痴っちゃって……」
 「いや……しかし、」

 国木田さんは、何か言いたげにそこで言葉を切った。私は、おや、と思う。話が続くとは思っていなかったからだ。絡まれて助けられて同席させて、挙句愚痴り始めるような女に、いかにも合理的そうな彼がこれ以上付き合ってくれるとは思えなかったので。
 彼は難しげに眉根を寄せて、少し考えてから言った。

 「貴女が今、自分を理想的な状態ではないと考えるなら、それを打破するために行動することは褒められるべきことだ。仮令、その結果が芳しくなかったとしても」

 そう言う彼の緑の瞳は、真剣そのものだった。私の愚にもつかないたわ言を純粋に受け止めて、彼自身の考えに基づき答えを返してくれた。その言葉には、そんな響きがあった。
 言い回しは少し難しくて、理解に時間を要したけれど。

 「ありがとう、ございます……」

 思いがけないフォローに、私は我に返って心底恐縮した。ありがたさと気恥ずかしさで、頬が熱を持つのを感じる。

 「……あ、ええっと。く、国木田さんは、その、お付き合いしている方とかいらっしゃるんですか?」

 慌てて話題を変えようとして、飛び出したのがその問いだった。つくづく自分の頭の回転の悪さに嫌気が差す。

 「俺は……」

 国木田さんが何事か言い淀んだ、そのときだった。

 「きゃっ……!?」

 私たちの席の横を行き過ぎようとした女性客が、足元に水でも落ちていたのだろうか、突如足を滑らせた。悲鳴と共に傾く身体。その腰がテーブルを打ち、上に置いてあったカップが揺れて高い音を立てる。
 あわや転倒。そう思うが早いか、国木田さんは素早く腰を上げていた。片手ではテーブルを押さえ、もう片方差し出した腕が、倒れそうになった女性の背中をしっかりと支える。

 「すっ、すみません……! ありがとうございます!」
 「いいえ。お怪我は?」
 「何ともありません! 本当にすみません……!」

 助けられた女性は、国木田さんに向けぺこぺこと頭を下げる。それを受けても彼は事もなげに、「お気をつけて」と注意を促すのみだ。やがて女性は席へと帰り、店内の注目もそれぞれのテーブルへと戻っていく。
 誰も怪我はなく、テーブルの上の飲み物も無事。万事恙なく事故を防いだ彼の、その鮮やかな手並みに、私はただ呆気に取られると同時に見とれていた。さすがは武装探偵社。並の人ができる動きではない。

 「す、すごい……!」

 思わずぱちぱちと両手を鳴らす私に、国木田さんは少し照れくさそうに咳払いした。

 「お騒がせしました」

 そう言いつつ腰を椅子へと戻そうとする。
 ふと、その足元に私は落とし物を見つけた。

 「あ、国木田さん、手帳が……」

 言いつつ私は身をかがめ、それを拾おうと手を伸ばした。落ちた拍子に、ページが仰向けに開かれている。指先が手帳に届く。そのとき、これは決してわざとではないのだが、ついその開かれたページの上に目を走らせてしまった。

 「……『配偶者計画』?」

 思わず、そこに書かれたタイトルを読み上げていた。それと同時に、国木田さんの手が目にも止まらぬ速さで手帳を拾い上げていった。身を起こして見ると、少し焦ったような顔をする国木田さんが手帳を手に立ちすくんでいる。

 「……見ましたか」
 「すみません、少し……」

 顔を見合わせ、互いに汗を垂らす。そのページに目を落としていたのはほんの一瞬だったが、タイトルの下、箇条書きに記されたいくつかの項目を私は読んでしまっていた。彼が配偶者に求めているらしい、いくつかの条件。いや、いくらか、の方が正しいか。それ以上か。何しろ、長かった。
 彼は手帳をベストの内側に仕舞うと、ぎこちない動作で席に戻った。眼鏡のレンズ越しの目が、気まずそうに伏せられる。

 「……不愉快には思われませんでしたか」
 「え? いや、そんなことは……どうしてですか?」
 「以前、同僚が、これはあまり女性に見せぬ方がよいと……」

 呟くようにそう言って、ずれたカップの位置を元に戻す。そしてついでのように、一口すすった。
 私は目を瞬いて、しばし彼を見つめた。さっきまであんなにも完成されて見えたその姿が、今はもっと身近なものに思える。彼の手帳にあった“理想”という表題。その言葉の意味をようやく理解する。そこには恐らく、彼の進むべきと決めた道が他にも示されているのだろう。彼もまた、自らの理想を求める一個の人間なのだ。
 ならば私が言うことは決まっている。

 「……確かに、項目が多いのはびっくりしましたけど。でも、国木田さん、さっき私に言ってくれたじゃないですか。理想の姿を求めてあがくのは、悪いことじゃないって。だから私も、そう思いますよ。理想を追い求めるって、大変だけど、いいことだと思います」

 そう言うと、国木田さんもまた、しばし目を瞬いていた。やがて小さな声で、「そうですか……」とこちらを見たままぽつり呟く。
 私はなんだか唐突に、思い切り伸びをしたい気分になって、その通りにした。

 「あー、なんか全部すっきりした! ありがとうございます! 私も焦らず腐らず、ちゃんと理想を持ってがんばります!」
 「そうですか。それは、よかった」
 「あっ、ここ私持ちますね! お付き合いいただいて本当にありがとうございました」

 そうして、私たちは席を立った。なんだか来たときよりも少しぼんやりする国木田さんを押しのけて、私は宣言通りお会計を済ませた。

 彼と別れて駅へと向かう途中も、私の気分は至極晴れやかだった。
 きっとこの世では皆大なり小なり、何かしらの理想を持って生きている。それが何についての理想で、そしてどんな形をしているかは人それぞれ。少しでも自分をその形に合わせようと、トライアンドエラーを繰り返して人は生きていくのだろう。それなら私も、そんな中の一人でありたい。上手くいったら喜んで、失敗したら悔しがって、素直に生きていきたい。

 「手始めになんか自分磨き……美容院予約しようかな」

 そう呟いて端末を取り出す。ついでにあの子に、国木田さんに会ったことを教えてあげよう。きっと驚くはずだ。

 街明りと月が照らす歩道橋の階段を、私は軽い足取りで登っていった。



 *

 後日、武装探偵社事務所にて。

 「ああ、暇だなあ……」
 「お前に暇など存在せんはずだぞ、太宰」
 「暇過ぎて死ねそうだよ……」
 「なら一旦死んで仕事に集中しろ」
 「暇だから国木田君の手帳見よ」
 「なっ、貴様……また掏ったな!?」
 「どれどれ……お、配偶者のページ、相変わらずだなあ……ん?」
 「ちょっ、待っ、そこは……!」
 「あれ? あれれ? なんかここ更新されてない?」
 「み、見るな!」
 「長いのは変わらないけど、追加されてる……なになに、『自分の心に正直で気持ちのいい人』?」
 「そして読み上げるな!」
 「これ誰のことだい国木田君!?」
 「やめて!」
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