よく晴れた日の昼下がり、午後二時。昼食も済ませ、ある程度腹がこなれてくる、一日のうち最も眠気を誘う時間帯。空気そのものが微睡むような雰囲気は、ここ武装探偵社の事務所内にも例外なく漂い、デスクワークに励む社員達は皆言葉少なに、それぞれが淡々と手元の作業を進めていた。どこかで誰かが欠伸を噛み殺したようなため息をつく。
部屋の一角では、乱歩もいつものように自分のデスクに着いていた。椅子に背をもたせてロリポップを舐めながら、背後の窓から見える青空へ見るともなしに目を向けている。
ふと、その彼が思い出したように呟いた。
「そういえば、こないだ例の女性に会ったよ」
小川のせせらぎに小石をぽちゃりと落とすような、何気ない声音だった。
しかし、事務所内を包んだのは一瞬の静寂。
直後、がたっと音を立て、つい今しがたまで瞼を眠気と戦わせていたナオミが勢いよく立ち上がった。
「本当ですの!?」
その頬は薄らと紅潮し、ぱっちりと大きな目はらんらんと輝いている。向かいのデスクでは、突如元気を取り戻した妹に、兄の谷崎が目を丸くする。
しかし当の乱歩は、ナオミの食いつきようには特別頓着せず応じた。
「うん、本当」
「いつですか?」
「確か先週の水曜日くらい。うずまきで」
「先週の水曜日……その日なら私も、事務所にいましたわ。どうして呼んでくれませんでしたの?」
「どうしてって」わけもわからず責められて、乱歩の頭上に黒いもやもやが浮かぶ。その様子に気づいた谷崎が、慌てて立ち上がった。
「ま、まあ落ち着きなよ、ナオミ。すみません、乱歩さん。ボクとナオミ、まだその人にお会いしたことがなくッて」
「そうだっけ」
「そうですわ……あのとき、私と兄様、出掛けなきゃいけない用事がありましたから。事務所に戻る頃には、もうお帰りになった後で……」
残念そうに俯いて言うと、ナオミは室内を振り返った。
「皆さんはもう、それぞれお会いしているんですよね?」
それまで耳だけそちらへ向けて事の成り行きを見守っていた社員達が、顔を見合わせ頷いた。
「はい、僕は現場で。ご自宅までお送りもしたので、その間少しお話させてもらいました」
敦が和やかに言う。
「国木田さんは?」
「俺も一度……いや、二度か。名刺を頂戴したな」
PCのキーボードを打鍵する指は止めずに、国木田が応じる。
「賢治はまだではないのか」
「いいえ、僕も乱歩さんと一緒にお会いしました」
キャビネットに文書ファイルを仕舞っていた賢治が、振り向き明るい声で言った。
そのとき医務室の扉が開き、軽く伸びをしながら白衣姿の与謝野が現れた。事務所内の様子に気づくと、数度目を瞬く。
「ン? 何の話だい?」
「与謝野先生には、診てもらった上に塗り薬まで用意してもらって、感謝しているとおっしゃってましたねえ」
「塗り薬……? ……ああ、もしかして、あの娘のことかい?」
次々と話が通っていき、最後に鏡花が、くりくりとした目を少し伏せて言った。
「私はまだ……少し、気になる」
「そうよねえ!」
その呟きに、ナオミが力強く同意した。
「どんなひとなんですの?」
そして再び乱歩に向き直り問いかけた。
「どんな? うーん……普通」
「乱歩さん、普通って……可愛らしくて、感じのいい女性でしたよ」
「常識人だったな。太宰とは似ても似つかん」
「ホント、何であんな男に目ェつけられたかねえ」
「お菓子をくれました! 優しい人でした」
口々に述べられる感想を興味深げに聞きながら、ナオミは改めて物憂げなため息をついた。
「なんとかお目にかかる方法はないかしら……」
そのとき、事務所出入口の扉ががちゃりと開いた。
「お早う諸君。今日もいい天気だねえ」
午後の二時には相応しくない挨拶と共に、太宰が顔を覗かせた。
再び部屋全体を包む、静寂。
考えるポーズで頬に手を当てていたナオミが、その恰好のまま太宰を見つめ呟いた。
「……そうですわ」
同僚達の注目を一身に受け、何かを察した太宰は素早く事務所内に視線を巡らせる。
そして国木田に顔を向けると、口元に笑みを貼り付けたまま、軽い調子で言った。
「ところで国木田君、何か仕事ある? 出来れば当分事務所には戻ってこられないようなやつ」
「幸いなことに無いな。と言うかお前は未済の報告書類をさっさと上げろ」
「わかった、じゃ散歩がてら構想を練ってくるよ」
「ここで練れ!」
踵を返そうとする太宰の背に国木田の怒号が飛ぶ。それとほぼ同時に、素早くそちらへ回り込んだナオミが太宰の腕に取りついた。
「太宰さん、ダブルデートしませんこと!?」
「ごめんナオミちゃん、ちょっと何を言っているのかわからない」
「ナオミ!? 兄さんもわからないよ!?」
「デート……? デートスポット、行きたい……」
「きょ、鏡花ちゃん、それはまた今度連れてってあげるから、ちょっと今は下がっていようね」
「私と兄様、それから太宰さんとお相手の方で!」
「いいンじゃないかい? 面白そうで」
「青春ですねえ」
「あ、駄菓子無くなった」
それぞれが思い思いに喋りまくるので、俄かに騒がしくなる事務所内。そこにはもはや、昼下がりの睡魔が立ち入る隙など到底見当たらなかった。国木田が頭痛を抑え込むように眉間を指で揉む。
そこに、再び事務所の扉を開く人があった。
「社長……!」
いち早く反応し立ち上がったのは、やはり国木田だった。緩み切っていた室内の空気が、瞬く間にぴんと張りつめる。
武装探偵社社長、福沢は、堂々たる姿勢でその場に足を止めた。狼を思わせる鋭い視線が、居並ぶ社員達に走らされる。
怒られる。誰もがそう思った。
ふと、その視線が太宰の顔の上で止まった。
「太宰」
厳かな声が名を呼ぶ。
太宰は一歩前へ出て、さすがに幾ばくかの緊張を含む声で応えた。
「はい。御用でしょうか、社長」
「…………」
福沢は黙って太宰を見つめる。
叱るなら早く叱ってくれ。誰もがそう泣き出したくなるような、たっぷりの沈黙だった。
やがて、福沢が口を開いた。
「お目出度う」
太宰は撃沈した。