太宰さんは、慣れている。今までのお付き合いから、私はそう確信した。
思えば、初めてうずまきでお茶したときからそうだった。ほとんど初対面のような男性と向き合って、私の方はなんだかいたたまれない心地でぎくしゃくしていたのに、太宰さんの態度はと言うと、そういう類の違和感は全くと言っていいほどなかった。そのときは、人見知りしない人だな、程度に受け止めていたが、考えてみればそれも、女性に対する免疫がある故のことだったのだろう。
彼の振る舞いは、ときどき財布その他大事なものが流されて持っていないこと以外、――なぜそのようなことになるのか、詳細は濁すばかりでなかなか教えてくれないが――その点以外では、至ってそつがなくスマートだ。そして度々、こちらが気を抜けばひどい勘違いをしてしまいそうな台詞を、さらりと言ってのける。あまりからかわないでほしいと抗議しても笑って流すものだから、いつも私ばかりが困らされる。
確かに、太宰さんほどの美男子ならば、世の女性が放っておかないだろう。本人に直接聞いたわけでもないが、きっとこれまでにも、女性とのお付き合いの経験はそれなりにあるに違いない。そんな男性からしてみれば、少し親しくなった相手を外出に誘うことなんて、それほど深い意味もないし至って気軽なことなのだろう。
きっと、太宰さんと私とでは、デートという言葉に感じる重みが全然違う。
おかげで、私は週末までの数日、仕事に支障を来たすぎりぎりのラインで、一人あれこれ思い悩み過ごすこととなった。「忘れないでね?」なんて、別れ際、悪戯っぽく微笑んでいた彼の顔が憎らしくさえ思える。
それでも、なんだかんだ日々は過ぎていき、デートの約束の日、当日となった。
定刻通りに到着したバスから降り立ち、私は周囲を見回した。公園前のバス停では、私の他にも数名の乗客が次々と下車し、停留所を起点にそれぞれの目的地へと散っていく。その中でも、観光客らしき家族連れが向かう方向、公園の中央入口の方へと目を向けると、見知った人物が佇むのを見つけた。
太宰さんだ。まだ、こちらには気がついていない様子だ。
私の心臓はまた俄かにうるさく鳴り始め、なんだかこのままどこかに隠れてしまいたいような心地すらした。それでもなんとか気持ちを落ち着かせ、ゆっくりとそちらに近づいていく。
あと数歩まで来たところで、声をかけようとした。すると、それより早く、太宰さんがこちらに気がつく。
鳶色の瞳が嬉しげに細められて、それだけで、どうしてか緊張が少しずつ解けていくような気がした。
「やあ。来てくれてありがとう」
「こ、こんにちは」
「今日はよろしくね」
「こちらこそ、よろしくお願い、します」
挨拶を交わすと、早速だけど、と太宰さんが今日の予定を確認してくれた。午前中は園内を散策するつもりだということで、私も特に異存はなかったので、入口に向け、二人並んで歩き始める。
「バスの中、混んでいなかった?」
何を話そうか。話題を探して私の思考は一瞬さまよったが、ありがたいことに、太宰さんからそう切り出してくれた。
「あっ……そうですね、それなりでした。いいお天気だから、観光客が多いような気がします」
「だよねえ。私が来るまでの間にも、けっこう見かけたよ」
「そうでしたか……あ。時間、大丈夫でしたか? お待たせしませんでした?」
「ん? ああ、大丈夫だよ。私も来てすぐのところだったから」
そこまで言うと、太宰さんは唐突に、ハッと目を輝かせた。そして、「今のやりとり、デートっぽいねえ」なんて言ってわざとらしく頬を緩ませる。
その様子に、私はまた気恥ずかしさがぶり返してきた。からかわれたことへの抗議の意も込めて、ぷいと視線を逸らし、進行方向だけに注意を向けておくことにする。
しかし、そこから少し歩いても、どうしてか太宰さんの視線はこちらに注がれたままだった。それに気づかないふりを続けるわけにもいかず、私は渋々また顔を上げた。じろりと睨めあげるようにしても、太宰さんはにこにことしている。
「もう一つ、デートっぽいこと言ってもいい?」
「……何でしょうか」
「そのワンピース、良く似合ってる」
「!」
私は今度こそ、自分の頬が熱を持つのがわかった。恥ずかしいやら照れくさいやら、いろいろな感情が胸の内に巻き上がってくるが、いちばんのところは実は、ほっとしたという思いだった。
このデートに臨むに当たり、私は洋服選びにとても手間取った。何分、男性と二人で出かけること自体、私にとっては稀な出来事であり、また今回のデートの意味もいまひとつ計りかねていたので、どの程度の服装で正解なのかまるでわからなかったからだ。
雑誌を開いても、ストーリー仕立てで紹介されるコーディネートはなんだか気合が入り過ぎている気がするし、経験がありそうな友人に尋ねるにも、状況を上手く説明できそうもない。結局、ネットで見つけた気軽なコラムから、「ワンピースでいけば間違いない」との情報を得たので、それに従って手持ちのものから、派手過ぎず地味過ぎず、最も無難と思われる一着を選んできたのだった。
似合っている、という太宰さんからのその一言は、まさしく私の労をねぎらってくれるものだった。
「あ、ありがとうございます」
小さくなりながら、やっとの思いでそれだけ返す。
しかしすぐに、せっかく褒めてもらったのだから、こちらからも何か返すべきではないかという思いが浮かび、私は顔を上げた。
「太宰さんは……」
私が見つめ返すと、ところが太宰さんは、なぜか少し気まずそうな顔をした。
休日ということで、今日は太宰さんも軽装だ。白いシャツにごく薄いグレーのパンツを合わせた姿は普段とそれほど変わらないが、上着にはいつものロングコートではなく、濃紺の薄手のジャケットを羽織っている。
「あんまり見ないでよ」と、太宰さんは言った。
「よく考えたら、余所行きの服はあまり持ち合わせがなかったんだ……いまいち代わり映えがしなくて、悪いね」
予想外に自信なげな言葉に、私は少し面食らった。けれども、男性の服装について口出ししようだなんて、その方が余計なお世話だったのではないかと思い直す。私は反省して、頭を下げた。
「すみません……。けど、太宰さんはスタイルがいいので、何を着ても似合いますね。うらやましいです」
後半にはフォローのつもりで、素直な感想を伝えておいた。
そうして隣の様子を窺うと、どうしてか太宰さんは軽く目を瞠り、こちらを見下ろしていた。髪に隠れてよく見えないけど、その耳元がうすらと赤くなっているような気もする。
「君って……」
何か言いかけて、けれどもその続きを飲み込むように口を閉じてしまう。
「……もしかして、お気に障りましたか?」
「いや、そうではないのだけど……あっ。そうそう、知ってるかい?」
「はい?」
「この先の庭園、今がバラの見頃だそうだよ」
「えっ、本当ですか? それは楽しみです」
そうしてすぐに話題はバラのことに移り、私はすっかりそちらに夢中になってしまった。
心の片隅では太宰さんの言葉の続きが気になりはしたけれど、わざわざ掘り返すのもどうかと思い、結局そのままにしておいた。
それから私たちは遊歩道を抜け、庭園を散策した。太宰さんの言っていたとおり、バラは今がまさに盛りというタイミングで、瑞々しい花弁を幾重にも重ねた花々が、庭園のあちらこちらで咲き誇っている。色や形、大きさも様々な花が陽光を受け照り輝く様は、本当に絵になる風景だった。
庭園の一角には、洒落た洋館もあった。異国ゆかりの建物であるそうだが、確かめてみると私も太宰さんも詳しく見た経験がなかったので、この機会にと中を見学することにした。西洋の趣ある内装は、どこを取っても私の異国への憧れをくすぐるもので、思っていたよりもじっくりと時間をかけて見入ってしまった。
館内を一通り見て回り、外に出ると、時刻は正午近くとなっていた。そろそろどこかでお昼を、という話になり、それならばと、私は元町商店街にあるカフェを提案した。友人とショッピングに行ったときによく利用するお店で、うずまきほどではないが、落ち着いた雰囲気は太宰さんにも気に入ってもらえるのではないかと思ったからだ。
今から少し歩くことにはなるが、この後、山下公園の方へ向かう予定もあったので、太宰さんも賛成してくれた。私たちは庭園を抜け、展望台からの景色を横目に眺めながら、公園の遊歩道を下って行った。
*
カフェでのランチは、思ったとおり太宰さんも満足してくれた。お会計の前に、今回はどちらが持つかで少しもめたが、じゃんけんにより、私が出した折衷案である割り勘で決着した。
「こういうときくらい、格好つけさせてくれよ」
「そういうわけにはいきません。それに、今時は割り勘も主流なんですよ」
お店を出てからもぶうぶう言う太宰さんに、これもネットで得た言説で、私はなんとかなだめすかした。
山下公園へ出ると、ここも晴天に恵まれた休日なだけあって、たくさんの人が午後のひと時を楽しんでいた。ベンチに腰かけて海を眺めるカップル、休日にだけ訪れる大道芸人を囲み、楽しげに囃す人々。青々とした芝生の上では、家族でピクニックに来た子どもたちの笑い声が、潮風に乗って高い空へと響きわたる。
私と太宰さんは、海側に設けられた歩道をのんびりと歩いて行った。
やがて、大さん橋の前から象の鼻パークも抜けて、赤レンガ倉庫の前に辿り着いた。
ここもやはりというか、いつものとおりに、建物の外からでもたくさんの人入りが見受けられた。今日は休日だから、恐らくその多くは観光客だろう。
「寄っていくかい?」
私の視線に気づいたのか、太宰さんにそう声をかけられ、私はほんの少し躊躇した。
実は、私はもう何年もこの街に住んでいながら、この施設にはほんの一度しか訪れたことがない。と言うのもその一度入ったとき、季節柄からか観光客も多く、あまりの人出に些かぐったりしてしまった覚えがあるからだ。
建物を外から見る分には歴史を感じられるいいところだが、中は元々が倉庫というだけあって、一般的なショッピングモールに比べると、通路などは然程広くない。その中に流行のショップや人気の飲食店などが多く出店しているので、ひどいときには、陳列棚を眺めるにも他の人と押し合いへし合いしなければならない。
それでもやはり、こうして近くまで来てしまうと、今はどんなお店が入っているのか、気にはなってしまう。けれども、私の趣味に太宰さんを付き合わせて、いつかの私のように疲れさせてしまったらどうしようかとも思う。
「……いいですか?」
「もちろん」
「人、多そうですけど……」
「私は気にしないよ。人混みは苦手かい?」
軽く首を傾げる太宰さんに、私は、ううんと唸った。そして、意を決した。
「行きましょう」
「そうこなくっちゃ」
楽しげに笑う太宰さんを引き連れて、私は聳える赤い煉瓦の山に飛び込んで行った。
そして少しして、やはり後悔した。建物の中は、いつかの私の記憶と違わず、驚くほどの客入りで、通路を行くにも横並びになるのは憚られるような有様だった。すれ違う人たちと肩をぶつけないように、注意して歩いていく。
それでもなんとか、目的のお店の前まで辿り着いた。生活雑貨を中心としたショップだが、どうやら出店して日の浅い、新しい店舗だったようだ。ここもまた、お客さんでひしめき合っている。それもやはり、女性客が多い。
お店の入口で考えて、やがて私は後ろを来ていた太宰さんを振り返った。
「あの、やっぱり出ましょうか」
「えっ、どうして?」
「あんまり人が多いので……」
私は苦笑して見せた。これ以上人混みの中、太宰さんを連れ回すのも悪い。かと言って、それを気にして引き返そうとする思惑が知れて、気を遣わせるのも悪い。なるべく、自分が疲れてしまったように見えるよう、取り繕ったつもりだった。
すると、ふいに太宰さんが一歩前に出て、私の肩を引き寄せた。突然のことに驚くも、そのすぐ後に、若い女性の二人組が軽く頭を下げながら、私たちの横をすり抜けていく。
「あっ……すみません」
どうやら、うっかりして通路を塞いでしまっていたらしい。私は恥じ入りながら、太宰さんにお礼を言おうとした。
ところがそのとき、ふと左手に温もりを感じ、驚き弾かれるように顔を上げた。太宰さんは、じいっと、何かを読むように私の目を見つめていた。
「疲れてしまったわけではないんだよね?」
「えっ? あ、ええっと、それは……」
「それならいいんだ」
何もはっきりと答えてはいないのに、太宰さんは納得したように、にっこりと笑った。
「それじゃ、こうしておこう。はぐれないように」
そして、私の左手を取った温もり、つまり、太宰さんの右手がするりと指を絡ませて、私と太宰さんをいわゆる恋人繋ぎという格好にさせた。
私は目を見開く。
「さあ、行こう!」
「えっ、ちょ、ちょっと、太宰さん!?」
少年が探検に出かけるような元気な声を上げ、太宰さんは私の手を引き歩き出した。
あまりのことに混乱の渦へと叩き落された私は、それでもその優しい感触に抗うこともできない。ともすれば悲鳴を上げそうになる口元を必死に引き結び、覚束ない足取りでその背中についていった。
結局、そこでは二つほど気になった商品を購入し、店を出た。それまで歩き通しだったので、その後に施設内のカフェで休憩を取った。
そして外に出ると、そろそろ日も沈み始める頃合いで、海の向こうから差す金色の陽光が、建物の赤をより深みのある色に照らし出していた。
当初、今日のデートは、日が沈む頃にはお開きという予定だった。楽しい時間はあっという間、というのはどうやら本当のことのようだ。気がつけば、お別れの時間はもうすぐそこまで迫っていた。
「最後に、あれに乗ってもいい?」
そう問われて、私は太宰さんが指さす方向を振り仰いだ。遠目にも、高く聳え立って見えるビルの群れ。その風景に重なるようにして、白い放射状の骨組みが、中空に大きな輪を描いている。
「観覧車……」
「ダメかな?」
「いいえ、是非。乗りましょう」
今日、ここに来るまでは、緊張でどうにかなってしまいそうだと心配ばかりしていた。それが今では、あの夕日がもう少しその場にとどまってくれれば、なんて現金なことすら思う。
もう少し、ここにいたい。そう密かに願っていた私は、太宰さんの提案に大きく首を頷かせた。
*
とは言うものの、観覧車など、もう随分昔に家族と乗って以来ではなかろうか。
待機列が順々に前へと進んでいき、やがて私と太宰さんの番が回ってくる。係の人の案内に従い乗り込むときも、また乗り込んで直後も、どことなくそわそわと落ち着かない様子の私に、向かいの席に座った太宰さんはふと心配そうな表情をした。
「もしかして、高い所は苦手かい?」
「あっ、いえ、そういうわけではないんですけど」
私は慌てて、手を横に振る。
「久しぶりに乗るので、少し緊張しちゃって。……わあ、上がってく」
どきどきする胸を落ち着かせながら、窓から外を覗き込んだ。
観覧車はゆっくりと、けれども着実にその高度を上げていく。視界が開けるにつれ、住み慣れた街の風景が、普段とは全く違う角度で見え始めた。
「……すごい、高いですねえ」
「そうだねえ。初めて乗ったけど、これはなかなかのものだね」
「私たちが来たのはどっちでしょう?」
「赤レンガ倉庫があそこに見えるから、あの辺かな」
「本当だ。あっ、船も見えますよ」
「この時間でも、けっこう行き来してるんだね」
「うわあ……あのビルも、目線を変えるとまた迫力ありますねえ。……そうだ、探偵社はどの辺でしょう?」
「うーん、どうだろう。ここからだと、どうにも小さくて……」
「私も探します。えーと……あっ、あれはうちの会社、かも? じゃあ、探偵社は……あっ、今、下の方をカモメが!」
私が急いで指さすと、太宰さんは堪え切れないというように、笑い声を漏らした。
「っ、ふふ、今の君、なんだか野うさぎみたいだよ」
思いがけず動物に例えられ、どういう意味ですか、とじろりと目を向けながら、同時に赤面した。興奮のあまり、きょろきょろとし過ぎていただろうか。
少し落ち着こうと思い、私は改めて海側に顔を向けた。そして、目の前に広がる光景に目を奪われた。
私たちが乗るゴンドラは、いつの間にかその大きな円の天辺に差し掛かっていた。見上げると、遮るものの何もない空が、ガラスを通して視界いっぱいに広がる。天頂の青に、散らばる青灰色のうろこ雲。西端に目を移すほど夕焼けの色は紅く、その光は海を越え、街全体を包み込んでいる。夕日を照り返す高層ビルの窓は、さながら磨き上げた鏡のようにきらめいていた。
その下にひしめく建物にも、ぽつりぽつりと、あちこちで明かりが灯り始めている。
もうすぐ夜が来る。天にも地にも星々が満ちる、ヨコハマの夜が。
「きれい……」
思わず、そう呟いていた。ガラス窓に身を乗り出すようにして、その風景を見つめる。
数秒の間は、そうしていただろうか。ふと、向かいで太宰さんが、小さく息をつく気配がした。
「君も綺麗だよ」
私は窓の外から視線を外して、太宰さんを見た。
夕日は私たちが乗るゴンドラの中にも差し込み、足元から天井まで、小さな空間の全体を淡いオレンジに染めている。その光に縁どられた太宰さんの表情は、何か思い煩うような、切なげな微笑だった。
組んだ脚の上に置いた両手が、軽く握りこまれる。
「……初めて二人でお茶したときも、私は同じようなことを言ったね。覚えているかい?」
どこか改まった質問に、私は戸惑いながらも頷いた。
忘れようにも忘れられない。男性からあんな言葉を贈られたのは初めてのことで、あまり舞い上がらないよう、気持ちを抑えるのが大変だったことをよく覚えている。
そんな私の思考を読んだように、太宰さんは続けた。
「君はお世辞か何かと受け止めてしまったようだけど、そうじゃない。君に贈った言葉は全て、私の本心だよ。……君のことが、好きなんだ」
呼吸が、心臓が、止まってしまうような心地がした。
けれども、当然それは錯覚で、次に押し寄せてきたのは、どんどん大きくなり打ち寄せる、波のような鼓動だった。
咄嗟に逃げ出してしまいたい思いに駆られるのに、私を見つめる太宰さんの瞳がそれを許さない。
永遠にも思われるような時間の中、私はただ、黙って太宰さんの言葉を聞いていた。
「一目見たときから、君に惹かれていた。こんなことがあるものかと、自分でも驚いたよ。柄にもなく、少し怖くもなった。それでも、君に手を伸ばすことを止められなかった。君が傍にいると、私の世界は少しずつ息を吹き返すような気がするんだ。……もっと、君の笑顔に触れていたい。友人という今の関係も素敵だけれど、それでは、仕事だなんだと理由をつけないと、君を守ることもできない」
そうして苦笑する太宰さんは、あの廃工場での出来事を言っているのだろう。何も考えられないのに、それだけが私の思考の隅を掠めた。
太宰さんは微笑んでいた。少し首を傾ける仕草が、あのときのうずまきでの記憶と重なる。
「改めて言わせてほしい。君が好きだよ。……私の、恋人になってくれないか」
そうして静かに瞬く瞳は、この世の何よりも美しいものに思えた。
それからしばらくは、静かな時間が続いた。時折、何かを爪弾くような機械の音だけが、微かに空気を揺らす。
ゴンドラは天辺を通り過ぎ、ゆっくりと下降を初めていた。窓からの風景は徐々にその高度を下げ、ヨコハマの街を見慣れた場所へと戻しつつある。
ふと、呟くような声で、太宰さんが言った。
「そちらに行っても?」
私は目線も上げられないまま、首を横に振り応えた。膝の上に置いた両手は、もうずっと固く握りしめていて、指の一本を解くこともできない。
「ゴンドラが、揺れるかもしれないので……」
ごく小さな声で、陳腐な言い訳を返すだけがせいいっぱいだった。太宰さんの耳にも、届いていたかどうか。
それでも、彼は私の言葉を律儀に拾い上げ、「それもそうだね」と、吐息のようにささやかな声で笑うのだった。
帰り道のバス停まで、太宰さんは私を見送ってくれた。
ちょうどバスの到着時刻に重なっていたようで、それ程待たずして目的の便はやって来た。乾いたアスファルトを滑るようにして現れたバスが、エアーの抜ける音と共に扉を開く。
私は一歩踏み出そうとして、ふと振り返った。道々、お互い黙ったまま何も言葉を交わさなかったけれど、せめて別れの挨拶だけはと思ったからだ。
すると太宰さんも何かを言いかけていたようで、目が合った。けれども一瞬、ためらうように視線をさまよわせ、それから少しだけ微笑んだ。
「……また今度」
それだけ言うと、私を車内へと促す。私は曖昧に頷いて、ステップを登りバスへと乗り込んだ。
扉が閉まると、やがて車体は動き出す。
こちらを見送る彼の姿はじきに、薄暮の街に紛れ見えなくなっていった。