敦君に付き添われ廃工場を出た後、私は一旦武装探偵社の事務所へと向かった。建物自体は毎日のように目にして、ここ最近ではその一階部分に入り浸っているわけだが、そこより上階へ立ち入るのはこれが初めてだった。
慣れない外階段をおっかなびっくり上っていく私に振り向いて、敦君は安心させるように笑ってくれた。
「大丈夫ですよ。変な人……はちょっと多いかもしれませんけど、いい人ばかりですから」
真鍮のプレートに社名が掲げられたドアをくぐると、そこは意外にも一般的な間取りの小奇麗なオフィスだった。
事務員らしき女性が早速出迎えてくれて、別室に通される。医務室だろうか。簡素なベッドに薄い緑のスクリーン。昔、学校で見たことのあるような薬棚には各種の医薬品が整然と並べられている。
その近くのデスクについた女性がこちらを振り向いた。濡れ羽色の髪を肩の辺りで整えた、美しい女性だった。華やかな蝶の髪飾りが、照明を反射してきらりと光る。
「与謝野先生、お連れしました」
「ああ、ハイハイ。軽傷だって聞いてるけど、まったく大袈裟だねエ」
くるりとチェアを回転させて脚を組む様に、私はハッとして深々と腰を折った。
「お、お世話になります。よろしくお願いします」
すると女性はなぜか一瞬眉を顰めて、敦君にじろりと視線を向けた。
「敦、あんた何か余計なことを言っていないだろうね」
「め、滅相もありません! まさかあんなこと、言ってないです!」
「そうだよ、妾ゃ普通の怪我人は普通に診るよ」
意図の掴めないやりとりに、私は顔を上げて二人の様子を窺う。与謝野先生、と呼ばれていたその女性は気を取り直すように首を振ると、「座んな」と言って向かいの丸椅子に促してくれた。
敦君が席を外し、早速怪我の具合を診てもらう。彼女の言うとおり大袈裟だとは思うが、やはりお医者様に診てもらえると安心感が違う。手首、足首、ぶつけた肩なんかも確認してもらい、処置はすぐに済んだ。
「骨は以上ないし、捻挫もしてないね。縄で擦れちまったところはしばらくヒリヒリするだろうけど、悪いが我慢しておくれ。どうしても気になるようなら、これを塗っておきな」
「ありがとうございます。すみません、ここまでしていただいて」
「あんたが悪いんじゃないンだから、謝る必要ないよ。さて、この後二三、話だけ聞かせてもらうよ。別室に警官も呼んであるから、そっちに行きな」
私は再度お礼を述べて、席を立った。去り際にぽつりと、「しかし、けったいなのに目ェつけられて……」と呟きが聞こえて振り向くも、与謝野先生は何でもないと手を振るだけだった。
その後、敦君と一緒に警察の方から事情聴取を受け、その日は解放となった。
時計の針は午後三時を回り、社を出たときには真上にあった太陽も西に向けて傾き始めていた。そのときようやく、自分が外回りの途中で攫われたことを思い出し大層慌てたが、そこも探偵社の方々は親切にも、太宰さんに渡した名刺を頼りに社に連絡を入れてくれていたそうだ。
改めて自分からも電話をかけてみると、早々に連絡があったお陰でフォローも間に合ったとのこと。そして同じ電話で、今日この後は有給にするよう配慮された。申し訳ない気持ちもあったが、確かにこれからまた出社しても、まともな動きをする自信はない。私はお心遣いに甘えて、そのまま帰宅することにした。
さすがにこれ以上探偵社のご厄介にはなるまいとしたのだが、太宰さんに私を任された敦君の意志は、思いの外強かった。恐らく自分より三つは年下の男の子に気遣われているという状況に赤面しながらも、私はバスに揺られ、自宅であるアパート前にたどり着いた。今朝ここを出てきたことは普段通りのはずなのに、見慣れたその風景がなんだか懐かしくすら思える。
「それでは、僕はこれで。ゆっくり休んでください」
そう言って元来た道を戻っていく敦君に、改めて頭を下げる。通りの角を過ぎてその姿が見えなくなってから、私はようやく部屋の扉を開いた。
カーテンを透かす西日に沈んだ部屋で、ベッドに倒れ込む。あちこち汚れていたのでとにかく着替えだけは済ませたが、それ以外の動作を起こす気にもなれない。
ふかふかした枕に頭を沈めると、今日一日の劇的な出来事が記憶の上を通り過ぎていく。
そういえば、と思う。あの工場を出るとき、太宰さんに借りていたコート。探偵社の事務員さんが預かってくれると言うので流れで渡してしまったが、クリーニングの一つにでも出しておけば良かった。己の気の利かなさに落胆する。太宰さんには迷惑をかけて、剰え助けてもらったというのに。
太宰さんは結局、私が探偵社にいる間は帰って来られなかった。想像するしかないが、事件の後処理というものは、きっとそれなりに手間も時間もかかるものなのだろう。
それならば、また今度会うときに菓子折の一つでも用意しておこう。探偵社の皆さんにも召し上がってもらえるものがいい。それで、今日のことについて、話しておかなければいけないこともある。
そこまで考えたところで、私の意識はもう随分と宙に浮いていた。例えるならば風船のようなそれを繋ぎとめる、細い紐の先から手を離すその瞬間まで、思い出されるのは太宰さんのことばかりだった。
*
翌日。いつも通りの時間に目覚めた私は、特に体の不調も感じられなかったので、いつも通りに出社した。
社員証をカードリーダーにかざし、事務所の扉をくぐり抜けた途端にどよめきが広がったのは言うまでもなく、私は肩を縮こまらせながらぺこぺこと頭を下げ、自分の席に着いた。同じ課の同僚からは休暇を取らなくても良いか頻りに確認された。改めて課長に心配をかけた旨謝罪をすると、無事ならそれで良いと励ましてくれるのだから、私は本当に職場に恵まれたと思う。菓子折はこちらの分も用意しておかねばならない。
その後、先輩に本日の予定を確認すると、昨日の今日で外になど出せないと突っ撥ねられた。代わりに溜まり始めていた事務仕事を、先輩の分も一部引き受け、その日は一日内勤で何事もなく過ぎていった。
そして、定時過ぎ。作成書類のチェックを済ませ、一息ついたところで、デスク上に置いてあった携帯電話が着信を知らせた。画面を確認して、慌てて席を立つ。廊下まで出たところで、私は軽く息を整え通話ボタンを押した。
「もしもし」
「やあ。昨日ぶりだね」
電話口から、太宰さんの穏やかな声が流れる。「今、いいかい?」と続けて問われ、私は一も二もなく「はい」と応えた。
「今日は出勤?」
「そうです。いつも通りに」
「そっか。実は、それだけ確認したかったんだ」
「? ……あっ。あの、太宰さん、昨日のことなんですが」
「うん。大丈夫、待ってるから」
そこで通話は途切れた。待ってる? どういう意味だろうか。
首を傾げつつ自席に戻り、ぼちぼちと帰り支度を整えながら、私はある可能性に思い至り急ぎ足で事務所を後にした。
ビルの外に出ると、正面には歩道と車道とを区切るガードパイプが見える。そこにお尻を置いて、長い脚を若干持て余す格好で、やはり太宰さんがそこにいた。私の姿を認めると、片手を上げ笑顔を送ってくれる。
「お疲れ様」
「太宰さん、どうしてここに?」
「昨日の今日だから、少し様子を見に来たんだ。休暇を取っているかも、とも思ったけど、君って真面目だから。案の定だよ」
少し呆れたように肩をすくめて、太宰さんは腰を上げる。自然、生まれる身長差に、私は太宰さんの顔を見上げる。涼しい夕方の風に前髪をそよがせながら、太宰さんは軽く首を傾げた。
「送らせてくれる?」
わざわざ待っていてくれただろうに、断る理由もない。私は太宰さんと二人で、会社からの帰路を歩き始めた。
日暮れ時のオフィス街は、私と同じくスーツやオフィスカジュアルに身を包んだ人の行き来で賑わう。時にゆったりと、時に急ぎ足で道を行く人々とすれ違いながら、太宰さんが口を開いた。
「体調の方は何ともないかい?」
そう言って顔色を窺うように覗き込まれ、私はハッとする。
「はい、おかげさまで。元気いっぱいです」
「そう? 少しぼうっとしていたみたいだけど」
僅かに眉根を寄せる太宰さんに、私は笑顔でその場を取り繕った。
ぼうっとしていたのは事実だ。隣を歩く太宰さんの、横顔を眺めていた。
あの廃工場で見た、太宰さんの表情。こちらに何も読み取らせないほど、一切の感情をどこか遠くへ隠してしまったような表情だった。あのとき感じた不安だけが気がかりだったけど、今、隣を歩く彼はいつもと変わらぬ穏やかな目線で、過ぎ行く街並みを眺めている。
私の知る彼に、戻ってきてくれたと思っていいのだろうか。そう考えて、私は内心でほっと息をついた。
「ところで、今日はもうお仕事はよろしいんですか?」
そして話題を変えようと、ふと思ったことを口にする。そういえば、私が社を出る少し前から待っていてくれたようだが、それでは彼の時間は大丈夫だったのだろうか。すると太宰さんは、けろりとして言ってのけた。
「ああ。実は、サボって来た」
「えっ、それって」
真に受けて驚く私に、太宰さんはすぐに「冗談だよ」と言って笑った。
「ちょっと抜けてきただけ。大丈夫、許可も取ってあるから。君の様子を見てくるって名目でね」
「私の、ですか」
「そ。何せ君は、ウチのごたごたに巻き込んでしまった被害者だからね」
そう言って、やれやれというふうに首を横に振る彼に、私は改めて申し訳なさが込み上げてきた。
「すみません、こんなにお時間を割いてもらって」
思わず声を落とす私に、彼はなんてことのないふうに言った。
「気にしないでよ。これも仕事のうちだから」
その言葉に私は、はたと思考を止めた。そして、心のどこかで浮ついていた気持ちが、みるみるうちにしぼんでいくのを感じた。もちろん、太宰さんは何もおかしなことを言っていない。それどころか、私がこれ以上気に病まぬよう気遣ってくれての台詞だったのだろう。
けれども、仕事、という言葉を聞いた瞬間、少なからぬショックを受けている自分がいた。そしてまた、自分が何故突然にそのような感情に囚われたのか、理由がわからず困惑もしていた。
私は誘拐事件の被害者で、その動機には探偵社への怨恨があって、だから探偵社の所為ということでは決してないのだけれど、その社員である太宰さんが代表して様子を見に来てくれた。何も不自然なことなどないのに。太宰さんが来てくれた、ということで、私は自分でも気づかぬうちに何か思い違いをしていたのだろうか。
そう思い至って、私は急激に恥ずかしくなってきた。
「みょうじさん?」
「えっ? あっ、いえ、何でもないです。その、ありがとうございます」
慌てて頭を下げる私を、太宰さんは不審に思いはしないだろうか。内心でどぎまぎしたけれど、幸いなことに、このときの彼はそれほど深く追求してはこなかった。首を傾げつつ頷き、「そういえば」と話題を切り替える。
「さっき電話で、何か話があるみたいだったけど」
私は思い出す。そうだ、それを伝えたかったのだ。
あの廃工場でも話題に上ったけれど、太宰さんに妙な先手を取られてしまったものだから伝えそびれたこと。それが理由で私は連れ去られたようだけど、今後、もうそんなことはないだろうと、太宰さんにも安心してもらわねばならない。
「そうなんです。昨日の一件なんですけど」
「うん」
「あの人たち、何かこう、私と太宰さんの関係を誤解していたようなんですが」
「……うん」
「はっきり否定しておきましたので。もう、大丈夫だと思います!」
勢い込んでそう言い切り、私はぐっと拳を握った。
ところが、それを聞いた太宰さんはなぜか突然、押し黙ってしまった。そのうえ、それまで淀みなく歩を進めていた足も、その場でぴたりと止めてしまう。
「太宰さん?」
声をかけるけれども、彼は動かない。道の真ん中で突然立ち止まった私たちを、周囲の人々が些か迷惑そうに避けていく。
太宰さんは顎に手を遣って、何か考えるような仕草をしていた。それから少し間を置いて、パッと何か思いついたように顔を上げると、私に向けて言った。
「デートしよう」
ちょうど、三点リーダーが一点ずつ、頭上に浮かぶくらいの間。
そのくらいの間を置いて、私は「はい?」と聞き返した。
「だから、デートしよう。今度の休日」
「え、いやあの、急にどうしたんですか?」
文脈についていけず戸惑う私に、「いや、ね?」と太宰さんは区切った。
「私たち、今までうずまきでしか顔を合わせていないだろう? せっかく二人して、こんなに魅力溢れる街に住んでいるのに、毎度同じ景色というのも勿体ない話じゃないか。だから!」
「だっ、だから?」
「ヨコハマ観光なんてどうかな。行先はなんとなく決めておくから」
「それで、都合は?」と促され、私はわけもわからず慌てて手帳を取り出した。今度の休日。カレンダーを辿って赤字で日付が記されたその枠を見ると、都合も何も、都合良く何の予定も入っていなかった。
私は手帳から恐る恐る目線を上げ、太宰さんの顔を見る。いつかも見たことのある、期待に満ちた目をしている。その目に私がなかなか抗いようもないことを、もしやこの人は知った上でやっているのだろうか。
「……あ、空いてます」
「良かった」
太宰さんはにっこりと笑った。
「それじゃ、そうだなあ。待ち合わせは、港の見える丘公園の前で。十一時くらいでいいかな?」
歌うように慣れた調子で言い、小首を傾げる。こちらの都合をうかがうと見せかけ、それは実質、決定事項のようなものだった。
こうして、私は太宰さんとデートすることになった。