うずまきを出た後、太宰さんは最寄りのバス停まで私を送ってくれた。
 バスを待ちながら、しばらくは喫茶店での続きのような他愛もない話をしていた。やがて道の向こうに四角く赤い、大きな車体が見えると、太宰さんはふと声を落とし、囁くように言った。

 「来週の金曜日、また会えるかい」

 私はどきりとした。けれども、自分で言ったしまったものだから、今更待ったはないだろう。体の内で響く拍動を悟られぬよう、努めて平然として言ってのけた。

 「お時間が合えば」
 「うん、待ってる」

 横目に見上げた太宰さんは、にこりと笑った。
 バスに乗り込み、車体が動き始めてからも、太宰さんは停留所にとどまりこちらを見送っていた。その姿が見えなくなって、ようやく私はほうと息をつき、冷たいガラス窓に肩を預けた。ゆったりと、けれども確かなスピードで、夜のヨコハマが車窓の外を流れていく。
 来週の、金曜日。去り際の約束が脳内で勝手に反芻されて、私は、明日が休日だということがせめてもの救いだと実感した。


 かくして、七日の時間が流れ、金曜日。定時そこそこで仕事を切り上げ、帰り支度をする私がそこにいた。
 常と変わらず同僚や上司と挨拶を交わし、エレベーターに乗り込む。ビルの正面入口をくぐるまでは何ともなかったのに、そこから一歩足を踏み出した途端、妙な緊張感がつま先から背中までみなぎってきた。これから辿るのはいつもの通勤経路のはずなのに、なんだか初めて通る道のように足元が落ち着かない。
 本当に、太宰さんはあの店で待っているのだろうか。あのときの口約束の他、何ら連絡手段というものを持たなかった私たちは、その後の確認もなしに当日を迎えている。
 いなかったら、どうしよう。そんな心配が頭を過るが、それはそれだと己に言い聞かせる。太宰さんがいなくたって、お店の味は変わらない。残業せず仕事を切り上げたのだって、金曜の夜はできる限りそうしようと決めていることだし、もう一度、一人でゆっくりあのプリンを味わうことだって悪くないはずだ。そう、これは、私のための時間。
 そんなことをぐるぐると考えながら道を行き、角を曲がり、近づく喫茶店の窓辺に太宰さんの姿が見えたことに安堵したなどと、この世の誰にも言えまい。
 窓越しに私に気がついた太宰さんが、ひらひらと手を振ってくれる。私はそれに会釈で応えると、ドアチャイムを鳴らしながら店の扉をくぐった。

 席につき、今日は先日とは違い、艶やかな黒髪を結わえた女性が注文を取ってくれる。珈琲とプリンをお願いすると、太宰さんが少しからかうような口調で言った。

 「プリン、気に入ってくれたんだね」
 「それは、おいしかったので……」

 口の中でもごもごとして応えると、太宰さんはなぜか嬉しそうに頬を緩めた。

 「さて、今日は君の話を聞かせてよ」


 そうして、私の現在の仕事や実家で飼っている猫の話など、何でもない雑談をしながら二十分ほどが過ぎた頃。お店のチャイムを鳴らす人があった。

 「失礼。店長は……む、不在か」

 背中から聞こえた声に、私は珈琲に口をつけながら、おや、と思った。この声も、どこかで聞いた覚えのあるような。
 少し振り向いて確認しようとすると、それより早く、向かいに腰かける太宰さんが「げ」と呻いた。それを聞きつけてか、声の主がこちらに近づいてくる。

 「何だ、太宰。そそくさと帰ったと思えば、まだこんな所で油を売っていたのか。打刻はしてあるんだろうな?」

 そこまで言ったところで、その人の磨かれた革靴の先が、私の視界にも入った。横を向いて見上げると、やはり見覚えのある長身。私が顔を知るもう一人の探偵社員、国木田さんが、彼もそのとき初めて私の存在に気が付いたようで、目を丸くしてこちらを見下ろしていた。

 「これは……連れがいたのか。失礼した」
 「あ、いえ、お気になさらず」

 ぺこりと頭を下げる国木田さんに、私は慌てて手を横に振る。と、顔を上げた国木田さんは、何かを思い出すようにじっと私の顔を見つめた。

 「貴女は……どこかでお見掛けしたような」

 首を捻る彼に、私はどう言おうか迷いながらも頭を下げた。

 「ええと……先日は、ありがとうございました」

 その言葉に、察しの良さそうな彼はすぐピンと来たらしい。そしてなぜか太宰さんの方をぎっと睨みつけると、先日ほどではないが、怒気を含んだ声で詰め寄った。

 「太宰……! まさか、今度はこちらの方に迷惑をかけているのではあるまいな!?」

 心労からか、今にも歯ぎしりせんばかりの国木田さん。そんな彼の様子もどこ吹く風といった体で受け流し、些か面倒くさそうに太宰さんは言った。

 「違うよ。迷惑はかけていない。それに“今度は”じゃなくて、私は最初から彼女にこそ用があったのだよ」
 「はあ? 何を言っているのだ貴様は」
 「というかこんな話、国木田君にしたくはないのだけれど」

 そう言って舌を出す太宰さんに、国木田さんは要領が掴めず、怒りながらも疑問符を飛ばしていた。
 俄かに賑やかになった店内に、カウンター席にかけるお客さんがちらちらとこちらをうかがい始める。ここは私が場を取りなさねば。私はとりあえずその場で腰を上げて、二人の間に割って入った。

 「ええと、国木田さん、先日はご丁寧に名刺までいただいて、ありがとうございました。友人の代わりになりますけど……あっ、私、こういう者です」

 そういえば、今が仕事帰りであることをやにわに思い出す。私は座席に置いたバッグから名刺入れを取り出すと、一枚取って国木田さんに差し出した。すると彼は条件反射のように、「あ、これはご丁寧に」と腰を折り受け取ってくれた。ひとまずクールダウンした様子の彼にほっと胸を撫でおろす。
 太宰さんの方は、とふとそちらにも目を向けると、彼はなぜかその場で静止していた。頬杖をついた腕から少しばかり顔を上げて、何かを凝視している。不思議に思って視線の先を辿ると、そこは国木田さんの手元のようだった。

 「あの……太宰さん?」

 声をかけると、太宰さんはゆっくりとこちらに顔を向けた。

 「……私、もらってないのだけれど」
 「え? 何を?」
 「君の名刺」

 私は合点する。そうか、名刺を見ていたのか。確かに太宰さんには渡していない。けれども、そんなもの必要だろうか。

 「……要ります?」
 「要る」

 念のため確認すると、太宰さんは即答した。そうか、要るのか。変わったものを欲しがるなあと思いつつも、別に断る理由もないので、私はまた一枚手に取り、太宰さんに手渡した。
 太宰さんはその小さな紙片をしげしげと眺めた後、徐に顔を上げ、また私に問いかけた。

 「この番号は、仕事の?」
 「え、ああ、携帯電話ですか? そうですけど」
 「登録してもいいかな」
 「えっ」
 「そういえば私たち、連絡先の交換もしていなかったろう?」

 言われてみて、思い出す。そうだった。それが故に、今日この約束もまだ有効かどうか、若干不安に思いながらもここへやって来たのだった。
 このご時世、相手の連絡先の一つや二つ持っておかないと何かと不便だ。交換しておいて損はないが、けれども改めて持ちかけられると少し照れくさいことのように思える。

 「ええと、仕事用のでもよければ……」

 若干の気恥ずかしさを隠しつつ、私は返した。
 太宰さんは、パッと表情を明るくすると、コートのポケットから携帯電話を取り出し、その画面と名刺とを見比べながら端末を操作した。やがて、携帯電話のバイブが私のバッグを震わせる。私も同じく自分の端末を取り出し画面を確認すると、未登録の電話番号が表示されている。

 「私の番号だよ。こちらも社の支給のものだけど、仕事柄常に持ち歩いているから。何かあれば連絡して」

 私は頷き、電話帳にその番号を登録する。グループ分けをどうしようか悩んでいると、太宰さんがまた言った。

 「また、電話してもいいかな?」

 顔を上げると、どこか甘えるような色をした瞳と目が合った。私は危うく端末を取り落としそうになりながら、なんとか平静を装って頷いた。

 「じ、時間外なら、出られると思います」
 「ありがとう」

 にこにこと上機嫌に微笑む太宰さんと、端末操作に集中するフリをする私。
 そんな私たちの様子を、何か信じられないものを見る目つきで見比べる国木田さんに、そのときの私は全く気がついていなかった。

 *

 そんなこともあり、私と太宰さんが顔を合わせる機会も徐々に増えていった。と言っても、会うのはいつもそれぞれの勤務がはける定時後、場所は決まって喫茶うずまきだ。夕方から夜も浅い時間までの短いひと時だけれど、私にとってはそれが日々の楽しみにもなりつつあった。
 連絡は、いつも太宰さんから寄越してくれた。こちらから電話をかけようとしたこともないではないが、なかなか気恥ずかしさは拭えない。けれどもいい加減、気を利かせてもらってばかりなのも申し訳ない。
次こそは、私からお誘いしてみよう。そんなことを考え始めた矢先の出来事だった。


 その日、私は午後からの外回りに向かうため、早めの昼食を済ませて会社を出た。いつもタッグを組んでいる先輩は別件で会議が入っており、珍しく私一人での営業だった。と言っても、訪問先は顔見知りの得意企業ばかりなので、まだ気楽なものだ。万が一イレギュラーがあっても、持ち帰り相談させてもらうことは可能だろう。その分、一軒ずつ丁寧に回っていこう。
 そんなふうに頭で段取りを組み立てながら、駅の乗り口に向かうため高架下を歩いているときだった。

 「すみません、少しよろしいですか?」

 そう声をかけられ、私は振り向いた。見ると、三十代ほどの見知らぬ男性が、手に何か紙切れのようなものを持って、こちらに向いている。

 「実は、人を捜しているんですけど……」

 恐縮したように男性は頭を下げる。人捜し、ということは、手に持っているのは写真か何かだろうか。
 こんなところで人捜しとは珍しい。見たところ警察官というわけでもなく、どこにでもいるサラリーマン然とした男性だ。
 目の前の人物に対して訝しむ気持ちがなかったわけでもない。けれどもこのときの私は、少し時間に余裕を持って社を出ていた。写真を見て、見覚えがあるか否かを答えるだけならば、無下に断る理由もないだろう。そう判断して、私は頷いた。

 「いいですよ。どちらですか?」

 写真を見せるよう促すと、男性は「ありがとうございます!」と頭を下げ、手にした写真の表をこちらに向けた。
 その瞬間、ざっと血の気が引いた。
 そこに写っていたのは、私だった。どこか建物の外から、窓を通して撮られたであろう私の横顔。背景に写り込む調度には見覚えがある。ここはうずまきだ。うずまきで、恐らく太宰さんと会っているときであろう私が、写真の中で気楽に笑っている。
 私の顔色を覗き込んだその人が、にたりと唇を歪めた。「正解」という呟きの直後、後ろから私の腕を捻り上げる力があった。
 気が付くと、すぐ右手の車道側にいつの間にか黒いワゴン車がつけられていた。その扉が開き、私を背中から拘束する人物が中へと押し込もうとする。私は必死に抵抗するが、仕事用の踵付きパンプスではろくに踏ん張りも効かない。そのうち、車内からもう一本腕が伸びて、私のシャツの襟首を掴むと、乱暴に引きずり込んだ。扉が閉まる。その刹那、車外のどこか遠くから女性が声を張り上げた気がしたが、確認する間もなくワゴン車は走り出す。
 シートに倒れ込んだ私を抑えつけながら、男が言った。

 「あんた、太宰治の関係者だろ? ちょっと面貸してくれよ」

 *

 連れてこられたのは、ヨコハマ中心部から少し外れた場所の廃工場だった。外の景色で確認していたわけではない。ただ、車に揺られていた大凡の時間から、そう当たりをつけただけだ。
 埃まみれで油臭いコンクリートの床に、私は手足を縛られた状態で転がされた。
 私を攫った人物は計五人いた。最初に声をかけてきた男が一人。私の腕を捻り上げ、車内に引きずり込む連携を見せたのが二人。運転席で待機していた者が一人。そしてこの廃工場で更にもう一人が待ち受けていた。
 男たちの風体は、見るからにならず者だった。かどわかされたこの身がそういうふうに見せるのかもしれないが、それを差し引いても、鼻にはピアス腕にはタトゥーと、いっそ潔いまでの自己アピールだ。最初に声をかけてきた男はそういうふうには見えなかったが、それもただの役回りだったようだ。今は他の男たちとつるんで快哉を上げている。

 「上手くいったな」
 「女一人かっさらうくらいわけねえぜ」
 「こいつが太宰って奴の連れか?」
 「間違いねえよ」

 男は私に見せた写真をひらひらする。あんなもの、いつの間に撮られていたのだろうか。気がつけるわけもなかったのだろうが、それでもこの現状を思うと悔やまれる。
 私の視線に気がついたのか、男が笑みを浮かべながら目の前に来てしゃがみこむ。

 「何で自分がって面だな」
 「……そりゃ、まあ」
 「教えてやろうか?」

 男のにやけ面からは、この企てへの絶対の自信が見て取れた。ここまでスムーズに事が運んでいることへの満足と愉悦も垣間見える。そんな男にべらべらと気分良く喋らせるのも癪だが、ここで下手に機嫌を損ねるのは愚策だろう。私はできるだけ素直な声音を装って、「教えてください」と乞うた。
 男はやはり満足げに笑むと、喋り出す。

 「俺らはついこないだ、武装探偵社に潰された組織の一員なんだ。どうにか難を逃れた残党ってやつさ。ここヨコハマに来て、やっとこれから商売の手を広げていこうって矢先の出来事だったよ。まあ、やられちまったもんはしょうがねえ。けど、詫び料くらいはもらってもいいだろ? 俺らは社員どもの異能力を徹底的に調べ上げた。どいつもこいつもバケモンばっかだ! けど、一人だけ、俺ら一般人には何の効果もねえ異能を持つ奴がいた。そいつが太宰だ。触れた者の異能力を無効化する、だってよ。それじゃ異能を持たねえ俺らにはハナから関係ねえ話だ。で、俺らはどうにかこいつを人質に取って、利用してやろうって考えた。そこであんたに目をつけたんだ」
 「……つまり、私を攫って太宰さんを誘き寄せて、そこで彼を捕えようと?」
 「そういうことだ! 異能は怖くねえにしても、どんな隠し玉を持ってやがるかわかんねえからな。盾になる奴がいた方がやりやすい」

 なんとも回りくどいプランだ。けれども、良く言えば用心深いとも取れる。この人たちは決して武装探偵社を侮っているわけではない。十分に警戒したうえで、事を構えようとしている。

 「あんたのこともしばらく観察させてもらったけど、あんた太宰のコレだろ?」

 そう言って、男は小指を立てた。下卑た質問に、覚えず眉間に皺が寄っていく。

 「違います」
 「はあ? じゃあ何だってんだよ」

 重ねて問われて、私は一瞬、答えに詰まった。

 「太宰さんは……ええと……そう。ただの、茶飲み友だちです」

 なんとか捻り出した答えに、男は一瞬ぽかんとした。しかしすぐに腹を抱え、げらげらと笑い出す。

 「何だそりゃ、年寄かよ!」

 尚も笑い続ける男に、私は何も言えない。周りの男たちも、馬鹿にしたように肩をすくめている。
 茶飲み友だち。自分ではそれなりに腑に落ちた表現なのだが、しかしそれ以外に今の私と太宰さんの関係を言い表す言葉などあるだろうか。ただの顔見知りというのも些か素っ気ないし、かと言って友人と言い切れるほどお互い踏み込んだ部分に触れてもいない。
 では、私にとって太宰さんは、太宰さんにとって私は、いったい何なのだろう。改めて他人に指摘されると、どうにも曖昧で宙ぶらりんな、奇妙な感覚を覚える。
 男は言った。

 「まあいいや。それより、ぼちぼちお相手さんに連絡つけるかね」

 そうして取り出したのは、私の携帯電話だった。あっ、と思う間もなく画面を開かれて、どうやらアドレス帳を探られているようだ。

 「太宰は……お、あったあった」

 あっという間に目当ての番号へと辿り着かれてしまう。

 「関係はどうあれ、てめえらのせいで一般人が巻き込まれたとあっちゃ、探偵社様が無視できるわけねえよな。ま、そのうち迎えが来るだろうから、もうちょっと大人しくしてな」

 私に向けてそう言うと、携帯電話を耳元へ持っていく。

 「やっ、やめてください」
 「なんだよ、来てほしくねえのか?」

 思わず声を上げた私に、男はただせせら笑うだけだった。
 私は嘆息して、顔を覆ってしまいたい気分だった。その連絡先について、今朝方まで私が何を考えていたかなど、この男が知る由もない。
 次こそは、私から電話しようと思っていたのだ。今まで太宰さんから声をかけてもらうばかりだったから、次こそはと。それがまさかこんな、迂闊にもかどわかされて、連絡手段として使われるなんて。私からの初めてのコールが、ただ厄介事をお知らせするだけのものになるなんて。
 せっかく良くしてもらっているのに。太宰さん、ごめんなさい。
 縛られた両手両足では成す術もなく、ただ心の中で謝罪した。
 そのときだった。

 爆発でも起きたかのような轟音をとどろかせ、正面にあった鉄扉がひしゃげて吹き飛んだ。
 同時になだれるように差し込んだ外の光に目が眩む。
 男たちは慌て、騒いだ。何事かと叫ぶ怒号を切り裂いて、若く明朗な声が響き渡った。

 「武装探偵社だ! 婦女誘拐の疑いでお前たちを拘束する!」

 舞い上がる埃の向こうに立っていたのは、少年だった。年は十七、八くらいだろうか。身軽そうな体躯をモノクロの衣装で包み、陽光を背負ってきらめく白髪を特徴的に切り揃えている。男たちを睨み据える眼光は凛々しく頼もしいが、けれども奴らをどよめかせたのはそれが理由ではない。
 少年の手足は、虎だった。比喩ではない。両手両脚が白と黒の被毛に覆われ、その先には鋭く獰猛な爪が光る。いつかどこかの物語で読んだことのある、月下を走る白虎のような。

 「探偵社!? おい、まだコンタクト取ってねえぞ」
 「早すぎる!」
 「目撃者がいたんだ! そこで大人しくしていろ!」

 少年の脚が地を蹴った。跳躍、とだけ表現するには度が過ぎる高さとスピードで、一気に男たちとの距離を詰める。
 そこからは瞬く間の出来事だった。五対一の数的不利など最初から勘定に入れていないかのように、虎の手が次々と男たちを沈めていく。逃げることは敵わず、手向かうことも許されず、いっそ清々しいまでの完封だ。
 その光景に圧倒される私の傍に、もう一つ近づく影があった。名を呼ばれ、仰ぎ見る。

 「太宰さん……」
 「……無事かい?」

 そう問う太宰さんは、場違いなほどに落ち着いた声色をしていた。コートの裾が汚れるのも厭わず、すぐに私の横へ膝をつくと、手際よく縄を解きにかかってくれる。次第に緩む拘束に、私は知らず詰めていた息をほっと吐き出した。

 「怪我は?」

 縄が全て解かれ、太宰さんは私の両腕を取って確認した。差し出した手首は縄の締め付けと擦れで若干赤くなっていたけど、皮がめくれるようなものでもなく、痛みもそれほどない。
 大丈夫です。ひとまず安心してもらおうと、私はそう応えようとした。しかし彼の顔を見た途端、その言葉を失ってしまった。
 太宰さんの表情には、何もなかった。一切の感情を読み取ることができない。普段、私に見せてくれる笑顔やおどけた表情とはまるで違う。全て抜け落ちてしまった、暗い、穴の底を覗いているような。
 太宰さんが私の手首から目線を上げ、その鳶色が私の視線と絡まった。私はハッとする。次の瞬間には、彼はいつもの柔らかい微笑を取り戻していて、私の手首をそっとてのひらで隠しながら言った。

 「探偵社に医者がいる。念のため、その人に診てもらおう」

 囁くような優しい声に、先ほどの陰りは塵ほども残っていない。
 けれどもどこか、不安にも似た感情に囚われながら、私は彼の言葉にただ頷いた。


 やがて虎の少年が、倒した男たちの腕を掴み、ずるずると引きずっては一所に集めていく。

 「ご苦労様、敦君」

 そう声をかけられた少年が、顔を上げてこちらを振り向く。その名前を聞いて、私は驚いた。聞き覚えのある名だ。確か、最近入社したばかりの若手で、太宰さんが指導を受け持っているという。話の端々から、なんとなく先輩に振り回されがちな腰の低い少年を想像していたが、やはり彼も武装探偵社の一員なのだ。先ほどの目覚ましい活躍を思い出し、私は感心する。
 雄々しい白虎の手足は、まだ肉付きも薄い少年のそれに戻っていた。

 「いいえ、なんてことありませんでした。それより、そちらのご婦人は無事ですか?」

 少年がこちらに歩み寄りながら、気遣わしげに声をかけてくれる。私は改めて、二人に向かい深々と頭を下げた。

 「おかげさまで、何ともありません。こんなことになり、本当に、ご迷惑をおかけしました……」

 喋りながら、不覚にも少しだけ声を詰まらせてしまった。情けなさと、今更蘇ってきた恐怖が少しだけ肩を震わせる。すると、それを覆い隠すように体に温かな重みが加わった。見ると、砂色のコートが太宰さんの体を離れ、私の肩を優しく包んでくれていた。
 見上げる私に、太宰さんは微笑む。

 「気にしないで」

 優しいばかりのその言葉に、また涙腺が不用意に緩む。私は慌てて顔を俯け、手の甲でそれを拭った。

 「それにしても、こいつらはなぜ彼女を狙ったのでしょう?」

 少年が、ふと疑問に思ったのだろうことを素直に口にした。私はハッとしてそれに答えようとして、しかしそれより早く、隣で太宰さんが口を開いた。

 「私の大切な人だからさ」
 「!?」
 「え、大切? ……って、え、それってまさか、太宰さん、こちらの方と……!?」

 みるみる顔を赤くして、慌てふためく少年。なぜ君がそうなるんだと思いながらも、同じように慌てふためいて私は否定した。

 「ちっ、違います、それは、友人という意味で!」
 「あっ、な、なるほどそういう意味ですか! すみません、早とちりを!」

 二人してあわあわとする私たちに向けて、なぜか太宰さんのジト目が突き刺さっているような気がしたけれど、それはこの際気にしないことにした。

 「なんだか君たち……似てるねえ……まあいいけど」

 一つ息をつくと、太宰さんは気を取り直すように言った。

 「それじゃ敦君、彼女を頼めるかな。一旦社に戻って与謝野さんに診てもらい、何もなければご自宅まで送り届けてほしい。タクシーには待ってもらっているから」
 「あっ、はい、わかりました。けど、この男たちはどうしますか?」
 「心配要らない。私が警察に引き渡しておくよ」

 そう言うと、太宰さんはポケットから携帯端末を取り出し、何か操作し始めた。早速警察へと連絡をつけるのだろうか。
 敦君は了解したというように頷くと、私の背中に手を添え、建物の外へと促してくれる。
 私は借りたままのコートが落ちないよう胸の辺りでき合わせ、太宰さんを振り返る。今はこちらを見ていないその背中に何か声をかけたくて、けれども何を言っていいのやらわからず、口をついて出た言葉をそのまま声に乗せた。

 「あの、太宰さん。……早く、帰ってきてください」

 太宰さんは少し驚いたように振り向くと、何も言わず、笑顔で手を振ってくれた。

 *

 「……さてと」

 敦となまえがその場を後にし、しんと静まり返るその廃工場で、太宰は呟いた。
 靴底で床を蹴る音を響かせながら、敦が一か所にまとめ縛り上げた男たちの傍まで歩く。

 「ええと……」

 言いながら、その長い脚で男の肩を軽く蹴り上げた。首尾よく気絶させられた男は、その程度の衝撃では全く意識を取り戻さない。太宰は面倒くさそうに目を眇めた。

 「全く……敦君たら、手際が良くなったのはいいけれど、後のこと考えずに全員気絶させてしまうんだから……」

 ぶつぶつとぼやきながら、他の男の肩も順に蹴り飛ばしていく。と、一人の男がその痛みに小さな呻きを漏らした。

 「ああ、よかった。いたいた」

 太宰は安堵の声を上げ、その男の前にしゃがみ込んだ。
 男は辛うじて意識をとどめていたものの、体を動かすことまではままならなかった。しかし、ふと自分の前に現れ近づく気配に、先の敗北を思い出し頭に血を昇らせた。朦朧とする意識を励まし力を振り絞り、せめてもの威嚇を浴びせようと声を上げる。

 「っ、てめえ、探偵社! 一度ならず二度までも、よく、も……」

 しかし、今の男には精一杯のその罵声も、すぐ尻すぼみに消えていく。
 男は見てしまった。自分の顔を覗き込み、うすら笑うその人物の、暗い瞳の奥底を。
 男の喉から、空気が抜けるようなか細い悲鳴が漏れ出した。

 「あ……わ、悪かった。ゆるしてくれ。俺は、その、首謀者じゃないんだ。やろうって言い出したのはこいつらで、ああ、あの女にも、何もしてない」

 唇を震わせる男の言葉に、太宰は応えない。男は更なる恐慌を来たし、重ねて訴える。

 「やっ、やめてくれ! この国じゃ、私刑なんて許されちゃいないだろ!? なあ、頼むから!」

 その懇願に、太宰は数度まばたきすると、ふむと顎に手を当てた。

 「確かに、その通りだ。ここは曲がりなりにも法治国家。君への懲罰は、これから送られる刑務所できちんと法に則る形で下されるだろうね」
 「そっ、そうだろ? それじゃ……」
 「でもその前に、私は君に一つお願いしたいことがある」

 意外にも易しいその響きに、男は藁にも縋る思いで身を乗り出した。

 「な、何だ? お願い? いいぜ、俺にできることなら、何でも」
 「ありがとう」

 男の言葉を切るように、太宰は応えた。そして続ける。

 「君にお願いしたいことって言うのは、まあ所謂保険だよ。君たちはヨコハマに来てまだ日も浅いようだから仕方がなかった。けど、この街の日陰に生きる身でウチに手を出そうなんて輩は、もうそうそういないだろう。しかしまあ、仕事柄いろんな方面に恨みを買いやすいっていうのは重々承知している。そこでだ。君には収監された後も、長鳴鶏のように方々触れ回ってほしいんだ。ウチとその関係者に危害を加えたら、どういうことになるのか。……君の身をもってして、ね」

 そこまで聞くうちに、男の顔は色を失くしていった。

 「え……ちょ、ちょっと待ってくれ。さっき、そんなつもりはねえって……」

 弱々しく縋る声に、希望の光はいまや見出せない。

 「彼女もああ言ってくれたし。……手早く済ませようか」

 真昼の三日月のように目を細め、太宰は静かに嗤った。
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