「美しいひと。私と心中してくれませんか?」

 そんなぎょっとするような台詞が聞こえて振り向くと、隣を歩いていたはずの友人が見知らぬ男に手を取られていた。

 「はあ……?」

 少し間を置いて、友人から困惑のため息が漏れる。当然だ。眺める私も同じく呆気に取られている。つい今しがたまで、休日のショッピングを二人楽しんでいたというのに、ただのナンパならまだしも、わけのわからない台詞と共に唐突に足止めを食らったのだから。それも、男は友人の前で地面に片膝をついている。まるで異国式のプロポーズのようだ。普通、ナンパでそんなことはしない。
 蓬髪のその男は、よく見ると恐ろしいほど整った面立ちをしていた。友人を見上げる目元の、涼やかで美しいこと。すらりと伸びた手足はモデルだと言われても素直に納得してしまいそうなほどだが、しかしその袖口や襟元から覗く真白い包帯はいったい何事だろう。
 見れば見るほどに、不可解極まりない状況だった。
 友人は困惑のあまりすぐには動けないでいる。私がやめさせるべきだろうか。

 「あの……」

 戸惑いつつも声をかけようとしたそのとき、いつの間にか現れた、今度は金髪で長身の男性が、苛烈な勢いでそのナンパ男の後頭部をはたき落とした。それこそ、首がもげてしまったのではないかと思うほどに。
 目を丸くする私と友人をよそに、金髪の男性は大きく息を吸い、叫んだ。

 「太宰! 貴様また仕事をさぼりどこをほっつき歩いているかと思えば!」
 「痛〜いな国木田君。首がもげるかと思ったよ」
 「そのままもげて排水溝にでも転がり落ちてしまえ! そして二度と人様に迷惑をかけるな!」

 通りの端から端まで響き渡りそうな怒号でナンパ男(ダザイというらしい)を叱り飛ばす男(クニキダというらしい)。怒涛の勢いで始まった漫才のようなやりとりに、私と友人はようやく目を見合わせることしかできなかった。
 すると、金髪の男性がふと息を整えこちらに向き直り、お手本のようにきれいな直角に腰を折り曲げた。後ろで一つに縛った髪の束が地に向かって垂れ下がる。

 「とんだ失礼をしました。この男はうちの社の者です。自殺が趣味で、見目良い女性に出会うと見境なく心中を持ち掛ける頓智気な輩でして」
 「はあ……」
 「直ちに社に連れ帰り、きつく言い付けておきます。本当にご迷惑をおかけしました。何かあればまたこちらにご連絡を」

 流れるように男性が取り出した名刺を、わけもわからずと言った風情で友人は受け取った。

 「さあ戻るぞ、この包帯無駄遣い装置! 貴様がためこんだ報告書類を敦がヒイヒイ言いながら片付けているぞ」
 「それなら敦君に任せておけばイイジャナイ。て言うか国木田君、その呼び方気に入ってる?」

 怒りのあまりか、がに股気味になりながらクニキダさんは私たちに背を向け歩き出した。その彼に後ろ手で首根っこをひっ掴まれるダザイさん。散歩を拒否する犬のようにズルズルと連れられていく。

 「何だったんだろうね……」
 「さあ……大丈夫?」
 「うん。でもイケメンだったし、びっくりしたわ〜」

 ちょっとなかなか無い経験かも。そう言っておどける気丈な友人に苦笑を返し、私は改めて去っていく二人の方に目をやった。
 すると、バチッと。
 それこそ音がしそうなほどのタイミングで、遠く小さくなっていく彼と目が合った。引きずられる格好のまま、こちらに真っ直ぐ向けられた鳶色の瞳。

 「……?」

 気のせいだろうか。遠くて見間違えたかもしれない。
 それでも感じた視線に首を傾げていると、隣で友人が、今度は驚嘆の声を挙げた。

 「えっ、うそ」
 「どうしたの?」
 「見てこれ、名刺。武装探偵社だって」
 「え……って、あの?」
 「うん。すごーい、ほんとにいるんだ」

 覗き込んだ友人の手元には、白い小さなカード。その紙面には確かに、“武装探偵社”の文字が黒くシンプルな書体で記されている。
 武装探偵社と言えば、このヨコハマに住んでいて知らぬ者はない。光と影のそのあわいから、街の治安を守る組織。けれどもその活動実態には秘密も多く、私たちのような一社会人からすれば半ば都市伝説のような存在でもある。それがまさか、こんな昼日中の道端で何の前触れもなく出会うことになるとは。
 社名の次に続くのは、”国木田独歩”の名と連絡先。クニキダさんとはこういう字を書くんだな。変に感心してしまった。
 私は黒髪の彼を思い出す。ダザイと呼ばれていた。彼もまた、武装探偵社の社員なのだろうか。なんだかおかしな人だった。けれども、不思議な雰囲気を纏う人だった。
 二人の姿は既に、雑踏に紛れて見えなくなっていた。

 「よしっ。じゃあ、気を取り直して行こっかー」
 「あっ、うん。次はこないだ言ってたショップだっけ」

 携帯電話の地図を確認しながら、私たちも来ていた道を再び歩き始めた。
 記憶の片隅ではあの瞬間、かち合った目線の意味が妙に引っ掛かっていたが、それでも、気にするほどのことでもないだろうと、この時は何となしにそう思っていた。

  *

 数日後の、日暮れ時。私は書類の詰まったバッグを肩に掛け直し、ふうと一つ息をついた。
 営業先でのプレゼンも無事に終わり、帰途に着く途中だった。社を出る前に課長から、直帰できるようならしても良いと言われていた。私はお言葉に甘えることにしたが、一緒に向かった先輩は一度戻って雑務を片付けると言い、つい先ほど駅前で別れたところだ。
 金曜日の夕方ということもあり、街の雰囲気は徐々に浮き足立ち、沈みゆく夕陽とは相反し、人工の灯りが目に眩しく、辺り一帯を照らし始める。そんな中を、特に予定もない女が一人歩くのは些かばつが悪い。まだ少し早い時間だが、今日は真っ直ぐ帰ってゆっくり湯船にでもつかろう。確か先日、友人と合わせて買ったバスソルトが一包残っていたはずだ。
 そんなことを考えるともなく考えながら、パンプスの踵を鳴らしてぽつぽつと歩いていたときだった。

 「おや、貴女は確か……」

 背中から柔らかな声をかけられて、足を止めた。聞き覚えのある声だと思った。
 振り返ると、長い砂色のコートを着た、先日のあの蓬髪の男性が、驚いたように目を丸くしてこちらを向いていた。

 「……先日の」
 「覚えていてくれたのかい?」

 パッと音がしそうな笑顔になり、両手を広げる男性。忘れられるはずもない。印象だけで言えば、私のまだ短い人生の中でも断トツに濃い出来事だったのだから。
 バッグの取っ手をぎゅっと握り直し、僅かながら警戒の意を示す私に、男性はふと表情に落ち着きを取り戻して言った。

 「仕事帰り?」
 「はい。そちらは?」
 「私は少し散歩をと思って。ちょうど社を出たところで、貴女の姿を見かけたものだから」

 男性はそう言って、私たちの横手に立つ建物を目線で示した。つられて見上げたそこには、夕陽で照らされた濃い赤色の、頑丈そうな煉瓦造りの建物があった。時代の流れと共に、ここいらでも珍しくなりつつある、趣のある建物だ。彼はそれを指して“社”と言ったが、見たところ一階部分は喫茶店になっている。すると、明かりの灯った二階部分からが事務所なのだろうか。通勤の途中、いつも通る道ではあるが、今まで全く気がつかなかった。

 「ここに、武装探偵社が……」

 思わず呟いた私に、彼は少し首を傾げたが、すぐに合点がいったようだ。

 「ああ、そっか。国木田君が名刺を渡していたね」

 そして何やらコートの内ポケットを探る仕草をしたが、すぐに顔をしかめてやめてしまった。今度は私が首を傾げる番だったが、そんな私に気を取り直すように向き直ると、彼は言った。

 「申し遅れたけど、私は太宰。太宰治だ。こうしてまた会えたのも何かの縁だし、お茶でもどうかな」

 そこのお店のマスターが淹れる珈琲は絶品だよ。彼はそう付け足したが、私はと言えば、そう簡単に頷けるわけもない。顔を知っているとはいえ、彼とまともに言葉を交わしたのは今が初めてなのだ。そんな男性といきなり打ち解けてお茶できるほど私の懐は深くないし、第一、先日のこともあって私の彼への印象はめちゃくちゃなままだ。名前と素性を知ったからと言って、それだけで信用してもいいものか。
 それに、先ほどからずっと、いや、先日からそうだ。私はこの状況を訝しく思っている。

 「……散歩はいいんですか?」

 しかしあえてそのことは口に出さずそう返すと、彼は私からの不信感を感じ取ったのか、その柳眉をいかにも寂し気に歪めて言った。

 「お急ぎかな」

 私は思わず言葉に詰まる。存外、ころころと表情をよく変える人だ。あんな奇行を取っていてもなお美しいと思えるような男性にそんな顔をされてしまうと、私もただの女だという事実を認めざるを得ない。
 たじろぐ私を知ってか知らずか、男性は畳みかけた。

 「そこのお店、プリンも美味しいんだけど……」

  *

 アフターファイブに美味しいプリンと珈琲。これほど優雅で理想的な退勤後の過ごし方はないだろう。
 私は結局彼、太宰さんの誘いに押し負けて、喫茶「うずまき」のテーブルに向かい合って腰を落ち着けていた。
 「うずまき」は武装探偵社社屋の一階に店を構えており、その縁もあって社員たちの憩いの場としてよく利用されているらしい。外から見た印象と違わず店内もしっとりと落ち着いたレイアウトで、淡い緑のソファは固すぎず柔らかすぎず、仕事で疲れた足腰をゆったりと寛がせてくれる。店内に私と太宰さん以外の客は見当たらなかった。カウンターの向こうではマスターであろう初老の紳士がカップを磨き、鮮やかな赤毛を三つ編みにした女の子が給仕をしてくれた。随分若く見えたが、アルバイトさんだろうか。
 白い滑らかなカップの取っ手を持ち、ゆっくりと口に運ぶ。適温で提供された珈琲は今や少しぬるくなってしまっているが、それでも鼻腔を満たす深い香りは変わらない。ほっと息をつくと、向かいの席で太宰さんがにこりと笑った。

 「ね、美味しかったでしょう」
 「はい。プリンも珈琲も。久々に素敵なお店に出会えました」

 私がプリンを平らげる間も、太宰さんの注文は珈琲だけだった。その珈琲片手に、この喫茶店や武装探偵社のことを、かいつまんでではあるが話をしてくれた。
 先日の金髪の男性は、国木田さん。スケジュールに厳しい人で、当初は太宰さんの指導も担っていた人らしい。そして彼の言葉の中にちらりと出てきた敦君という男の子は、最近入社した若手とのこと。こちらの彼は太宰さんが指導に回っているようだが、先日の国木田さんの口ぶりからするに、些か放任が過ぎるのではないかと私は疑っている。他にも同僚は何人かおり、社の看板に恥じぬ個性豊かな面子が揃っているようだ。
 私はそれらの話を興味深く聞かせてもらったが、一方で、太宰さんは自分のことに関してはあまり話さなかった。同僚のことを面白おかしく話しては、私がプリンを口に運ぶ様を妙に微笑ましく眺めている。その視線を感じると、プリンは確かに美味しかったのだが、私は度々味がわからなくなっていた。
 
 また一口、珈琲を喉に流し込み、私はカップをソーサーに戻した。
 向かいの席で太宰さんは、何気ない様子で窓の外に視線を向けている。ちょうど会話が途切れた一瞬。聞くなら今だろうと、私は居住まいを正した。
 そして、このお誘いを受けたときには口にしなかった、先日からずっと疑問に思っていたことを、彼本人に振り向けてみた。

 「あの、太宰さん。一つ聞いてもいいですか?」
 「うん? 何だい? 国木田君の結婚願望について?」
 「いえ、そうでなくて……何で私に声をかけたんですか?」
 「え? それは君が……」
 「先日の、と言うなら、私でなく友人の方に興味がおありですよね。あのときも、声をかけられたのは友人だけでしたし」

 そう言うと、太宰さんは口を噤んだ。やっぱり、と私は思う。
 どこかおかしいと思っていたのだ。記憶の片隅に引っかかっていた映像。彼が去り際、なぜ私と目が合ったのか。あの場で熱心に視線を向けるなら、普通私でなく口説きにかかっていた友人の方であるはずだ。それがなぜ私の方に目を向けて、こうして顔を覚えられていたのか。今日だって、道を歩いていたのは私一人だ。友人が一緒でないのに、わざわざ声をかけて話し込む理由などない。あるとすれば、大方一つだ。
 言いにくいけれど、ここではっきり言っておかねば。私は意を決して口を開いた。

 「申し訳ないですけど、友人との仲を取り持つことはできません。こうして話してみて、太宰さんはいい人だと思いますけど……彼女の意思とは別のところで、勝手なことはできませんから」

 プリンと珈琲と、楽しい時間の恩はある。だから私としては誠心誠意、丁重にお断りしたつもりだった。
 けれども、ちらと伺い見た彼は、なぜだかぽかんとした顔をしていた。まるで私が全く見当違いなことを言い出したかのように。

 「あの……太宰さん?」

 声をかけると、彼はばつが悪そうに苦笑した。

 「そうか、そう思われてしまったか……」

 そう呟くと、テーブルに両手を重ねて置いて、どこか改まった表情で私に向き直った。心臓が、俄かに大きく脈打つ。太宰さんの目は、あのときと同じ色をしていた。真っ直ぐこちらに向けられた、鳶色の瞳。

 「気を悪くしないで欲しいのだけど」

 太宰さんはそう前置きした。

 「あのとき、本当は君に声をかけたかったんだ。けれども何故か、どう声をかければいいのか全く思いつかなかった。おかしいだろう? いつもの私はあんな調子なのに」

 あんな調子、とは心中を申し出ているときのことを言っているのだろうか。そうですね、と頷くわけにもいかず、また、太宰さんが何を言わんとしているのかも掴めず、私は黙って彼の続く言葉を聞いていた。

 「だから、代わりに君の友人に声をかけて引き留めたんだ。謝るよ。君にも、君の友人にも迷惑をかけた」
 「それは、友人もそれほど気にしていませんでしたから……もう、いいですけど」
 「ありがとう」

 太宰さんはふわりと微笑んで、少しだけ首を傾けた。その表情が店内の柔らかな照明に彩られて、なぜだかそれを見つめている自分が、この世のあらゆる優しいものに包まれているような心地がした。

 「何故だろうね。君とは心中したいだなんて、ちっとも思えないんだ」

 太宰さんは続けた。

 「君はこんなに綺麗なのに」


 「……っえ」

 やっと絞り出した声はそれだけだった。自分の頬が、体が、みるみる熱くなっていくのだけが鮮明にわかる。
 そんな私をよそに、太宰さんはふと窓の外に目を向けて、「おや、すっかり暗くなってしまったね。そろそろ出ようか」と言って座席から立ち上がった。さりげなく会計伝票を手に取ると、未だ混乱の最中にある私の横に立ち、クスッと小さく笑った。

 「お手をどうぞ?」
 「……だ、大丈夫です」

 差し出された手をやんわりと押し戻して、私も席を立った。
 とんでもないことだ。もしも今この手を取ってしまったら、私の心臓がどうなることか全く見当もつかないのだから。


 お勘定場の前に並ぶと、財布を取り出そうとする私を太宰さんが手で制した。

 「奢るよ」
 「えっ、いえ、そんな。自分の分は払わせてください」
 「ダーメ。付き合ってもらったのはこっちなんだから」
 「でも……」

 こういうときはどうするべきか。お言葉に甘えればいいのだろうか、それとも無理にでも押し切るべきか? 実のところ男性に奢ってもらうシーンなど、二十や三十も年上の上司からの厚意以外ほぼ経験のない私はすっかり戸惑ってしまった。同じようなやりとりを繰り返し押し問答する私たちに、それまで淡々とレジ操作をしていた赤毛の女の子が、このとき初めて口を開いた。

 「あなたねえ。女性に奢る余裕があるなら、溜まりに溜まったツケを支払ってくれてもいいんじゃなくって?」

 私はぎょっとした。太宰さんが慌てて女の子に泣きつく。

 「ルーシーちゃん、今ここでそれを言うかい?」
 「あら、そんなに見栄を張りたいお相手だったのね。ごめんあそばせ」

 赤毛の女の子は、まだあどけなさの残る顔立ちでツンと澄ました表情を作り、そっぽを向いてしまった。意外に言う子だったようだ。私たちが席にいる間は、ずっと一人静かに黙々と立ち働いていたものだから、これは思いも寄らなかった。そんな年下の女の子に一刀両断されて、おろおろとする太宰さん。ついさっきとは打って変わって気の抜けた様子に、私は思わず吹き出してしまった。

 「あの、やっぱりここは私に奢らせてください」
 「いや、でも……」
 「その代わりに」

 一度言葉を切って、私は隣の太宰さんを見上げた。

 「また今度、奢ってください」

 そう言って、ニッと笑ってみせた。
 太宰さんは、きょとんとしていた。あれ、と私は思う。これは一応、私なりの冗談で、太宰さんも降参とばかりに笑ってくれるだろうと思っていたのだけれど。よく見ると、レジ向こうの女の子も意外そうに目を丸くして、口元に手を遣ってこちらを見つめている。私はしばらく考えて、あっ、と思った。

 「いや、あの、今のはその」
 「また、会ってくれるのかい?」

 そう言ってこちらを見つめる太宰さんの目は、期待に輝いていた。そんな顔をされてしまっては、今更冗談などと言えるはずもない。
 私は恥ずかしさのあまり財布を握りしめながら、投げつけるように言った。

 「お、奢ってくださいね!?」

 それでも太宰さんは、至極嬉しそうに笑うのだった。
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