と、いうことがあったのが先週のことでね。そう打ち明けると、電話の向こうで友人は「うわ、やば……」と心底引いた声音で呟いた。
 やっぱり私は大きな過ちを犯したようだ。そう表現するとかなり語弊が生じるけども。

 あの後、結局私は早坂君に押し切られるまま、太宰さんへの返事を送った。ごめんなさい、今日は後輩と約束してしまっていたので行けません。概ねそんな感じの文面で。
 この段階で既にかなりの罪悪感に駆られていた私は、彼からの返事を待つ時間を一日千秋にも感じた。やがて再び送られてきたメッセージには、『それじゃあ、明日はどうかな?』とあった。私は泣きそうになった。翌日は、週末に行われる展示会の最終確認のため、担当者内で残業が決定していたのだ。その旨を伝えると、少し間を置いて、『そっか、それは残念。また予定を合わせよう』といらえがあった。その文末には、『展示会、がんばって』と添えられており、太宰さんの優しい声音が頭の中に響くようだった。
 そしてその後も不運は続く。こういうときのタイミングというのは実に奇なるもので、あちら立てればこちらが立たずといった具合に私達の予定はすれ違い続けた。メッセージアプリのトークルームには、空振りのやり取りばかりが虚しく連なる。
 あのとき私が、もっと自分の気持ちに正直に行動していれば。こんな選択ミスは犯さなかっただろう。
 妹さんへのプレゼントが無事決まり、早坂君に喜んでもらえたのは良かったが、それからこっち、私の心には後悔と焦りで真っ黒になった暗雲が垂れ込め続けている。

 電話口で、友人が言った。

 「とりあえず、メッセージで話してみるとかしないの?」
 「それも考えたんだけど……いざ話そうとなると、なんて送ればいいのかわからなくて……」
 「あー、うーん、そうかあ……。まあ、話が話だし、文面だとやりづらいか」

 なんとかフォローの言葉を探してくれる、友人の優しさが身に沁みる。思ったことは率直に伝えるタイプの子だが、こういうとき、まずはこちらの気持ちを汲んでくれるところがありがたい。
 「でも、まあ」と友人は続けた。

 「そう思ってるなら、早いとこ時間見つけて会うことだね。大丈夫、まだ取り返せないことじゃないよ」
 「うん……ありがとう。そうする」

 力ない私の声に、友人の苦笑するようなため息が重なった。しかしふと、何かに気づいたように立ち上がる衣擦れの音が聞こえた。

 「……っと、危ない。もうこんな時間? ごめん、そろそろ切るわ。七時から合コンあるんだ」
 「え、また合コン?」

 その言葉を聞き、思わず食い下がった私に友人はからからと笑った。

 「だいじょぶだいじょぶ、もうこないだみたいなことしないから。ちゃんと考えて動いてるよ」
 「そ、そう。それならいいんだけど……」

 頷きつつ、私は少しそわそわする思いがあった。自分の現況もさることながら、こちらについてもしばらく気になっていたこと。私は思い切って、尋ねてみることにした。

 「あのさ、夕子あれから、国木田さんに会ったりした?」

 しかし、返ってきた声はあっけらかんとしたものだった。

 「え? 国木田さん? いや、会ってないけど。どうかした?」

 きれいに期待を裏切られ、私は座椅子から滑り落ちそうになった。しかしなんとか体勢を立て直し、「あ、そっか……いや、何でもない」と誤魔化すように笑った。まあ、そう上手くいくわけはないか。電話向こうで友人が疑問符を飛ばす気配がする。

 「よくわからんけど。じゃあまあ、そういうことで。続報を待つ!」

 その一言の後、通話は終了した。
 こちらも続報を待つこととしよう。

 静かになった室内で、私は座椅子に深く背をもたせため息をついた。天井を見上げると、シーリングライトの白い光が目を刺す。
 二週間ほど前。私はこの光を、覆いかぶさる太宰さんの背の向こうに見ていた。

 思い出して、私は自分の両頬を叩く。赤くなったり青くなったり、私の情緒は近頃本当に忙しい。それも全て、たった一人の存在に起因するものなのだから始末に負えない。
 私は呼吸を整え、脳内で改めて確認した。今日明日は、太宰さんの都合がつかないことがわかっている。それなら、明日だ。明日、改めて太宰さんに連絡を入れよう。そして今度こそ直接会って、謝るんだ。それから伝えよう。少し怖くはあるけれど、自分の思いを、正直に。
 きりきりと狭まる胸の奥を宥めるように、私は手中の端末を握りしめた。


 そして翌日の夜八時前。私は早坂君と二人、げっそりとやつれるような思いで訪問先の会社を後にしていた。

 事件は定時ぎりぎり前に起こった。私達が営業担当となる会社への、納品ミスが発覚したのだ。
 第一報を受け至急確認したところ、システム上に不具合が見つかり、慌てて先方へ連絡。在庫をかき集めればなんとか対応可能ではあったが、とにかく会って説明を、という話になり、二人大急ぎで先方へと向かった。担当の方は当然ご立腹ではあったが、謝罪と説明を重ねなんとか理解を得た。ここまでは良かった。しかし、そこから先が妙な流れになった。早坂君の世渡り力と、どうやらお喋り好きだった先方の波長とが、上手い具合に合致してしまったのだ。次々と咲いては終わりの見えない雑談を、非があるばかりに切り上げることもできない私達。結局たっぷり一時間半はお相手させていただき、社屋を出る頃にはすっかり夜も更けていた。

 「お疲れ様です……」
 「うん、お疲れ様……」

 ため息を白く濁らせながら、早坂君が言った。同じ言葉を私も吐き出す。
 最終的には納得以上に満足してもらえた様子だったので結果オーライとも言えるが、それにしても時間がかかり過ぎた。とてもじゃないが、今からまた社に戻る気にはなれない。

 「先輩、直帰しますよね?」

 早坂君もどうやら、同じことを考えていたらしい。私は頷く。

 「うん、できればそうしたいけど……」
 「課長からメール来てましたよ。とりあえず今日はもう帰れって」
 「あ、そうなの。良かった……。それじゃ、そうさせてもらおうか」

 「ういす」早坂君も頷く。そして続けて、首にマフラーを巻き直しながら何気ない調子で言った。

 「じゃあ、送りますよ」
 「え? え、いや、そんな。大丈夫だよ」

 うろたえて首を振る私を、彼は口元までマフラーに埋めたまま横目で見遣る。

 「いや、もう遅いし。俺だけじゃ頼りなかったから、先輩に来てもらったみたいなとこあるし。そんくらいさせてくださいよ」
 「ええ、でも……」
 「先輩、家どのへん?」

 問われて概ねの住所地を告げると、「すぐそこじゃないすか」と笑われた。確かに、ここから私の自宅まで実は歩いて行ける距離にあった。
 それでも渋る私に、早坂君は少しハッとした様子で言った。

 「あ。あー……もしかして、彼氏さん的にNG?」

 言われて、私は考える。

 「うん……? いやまあ、そのくらいは、いいんじゃないかな……?」
 「良かった〜。じゃあ決まりで。近くまでにしときますんで」

 そう言って、足取りも軽やかに進む彼に若さを感じた。二つしか違わないのに。どうやら今日の私は随分と疲れているようだ。

 半歩先を行く彼を眺めつつ、私はコートのポケットにそっと手を差し入れた。固く冷たい感触が指に触れる。結局、まだ太宰さんへ連絡できていない。どうするべきか、迷った挙句、私は端末をポケットに残し手だけを取り出した。街明りで煌々と明るい、道の先へと視線を戻す。
 ひとまず帰って、落ち着いてからにしよう。疲労のままに、おかしなことを言ってしまうのもまずいし。
 そうやって自分を納得させながら、私は早坂君に付き添われ家路を急いだ。


 人と話をしながら歩く道というのは、普段よりいくらか短く感じる。今日あった出来事を振り返りつつ、早坂君とあれこれ意見を交わしているうちに、気づけば家までの道のりは後数十メートルほどとなっていた。
 私は隣を歩く彼を見上げ、言った。

 「そろそろ着くから、ここまでで大丈夫だよ。今日は本当にお疲れ様でした」

 そうして足を止め頭を下げると、彼もまた向かい合いぴしっと同じ動作をした。

 「うす。お疲れ様でした。それじゃ、俺はこれで」

 別れの挨拶に顔を上げ、見送る。
 しかしふと早坂君は、引き返しかけた足を止めると、何やら私の背中の向こうにじっと目を凝らした。

 「? どうかした?」
 「あ、いや……誰か来るなあと思って」

 その呟きに促されるように、私もまた振り返った。それは特に何の意識もしない、何気ない動きだった。
 通行人だろうか、と思っていた。別に何もおかしなことはない。夜も更けた住宅街の一角ではあるが、ここだって都会の真ん中だ。人くらい通るだろう。そんなことを考えるともなしに考えていた。

 けれども首を後ろに向け、その人の姿を視界に捉えた瞬間、私は冗談抜きに心臓が止まるかと思った。

 「…………太宰さん」

 名を呼んだまま、ぽかんと開いた口が塞がらない。

 彼はこちらに向かい、ゆっくりと歩いて来ていた。砂色のコートを羽織り、以前会ったときに見せてくれたマフラーを今日も巻いている。足を踏み出す度に、頭上に白い息が揺れ、底冷えする冬の夜へと流され消えていく。
 私から数歩の距離を取ったところで、太宰さんは立ち止まった。

 「やあ。こんばんは」

 その口元には、見たこともないごく薄い笑みが浮かんでいる。

 「…………太宰さん、あれ、今日はご用事があったのでは」
 「あったけど、早いところ切り上げてきたんだ。君に会いたくて」

 「一応連絡は入れたのだけど、見ていないようだね」その言葉に、私は反射的にコートのポケットへ手を遣る。ミスの発覚からは慌ただしく、通知を確認する暇もなかった。先方を出たとき、見るだけでもしておけば。後悔先に立たずとはこのことだ。私は完全に馬鹿になった頭で頷いた。

 「ところで、そちらは?」

 そんな私の背後を覗き込むように、太宰さんが身体を横に傾ける。背中の向こうで、早坂君が身じろぐ気配がした。

 「あ……初めまして。早坂って言います。みょうじさんと同じ会社で、お世話になってます」
 「それはそれは、初めまして。私も個人的に、彼女の世話になっている者だよ。見たところお若いようだけど、立派な企業人だねえ。すると先日言っていた後輩というのは、もしかして彼のことかな?」

 最後の質問は、私へと向けられていた。私はまた頷く。
 太宰さんの目が、一段と細くなった。

 「へえ」

 その声は、私の身を包む外気と同じ温度をしていた。

 「それじゃあ、今日はどうしてまた一緒なの?」

 ここでようやく、私は我を取り戻した。

 「し、仕事の出先で遅くなって……送ってもらっただけです!」

 力を込めてそう訴えると、太宰さんは少しの間、じっと私の目を見据えていた。
 そして、にこりと笑って言った。

 「そう」


 凍り付いたような時間は、やがて発せられた早坂君の声でまた流れ出した。

 「あー……じゃあ、その、俺はこれで。失礼します……先輩、また」

 私はちょっとだけ振り返った。片手を挙げながら、そそくさと帰っていく早坂君の姿が見えた。その背中へ向け、巻き込んでしまったことについて心の中で謝罪する。

 けれども、もう少しだけでいいので、待っていてほしかった。この空気がもう少しだけ融解するまで、せめて。しかし、そんな虫のいい願いは叶えられるはずもない。
 太宰さんの声がした。

 「上がっていってもいいかな」

 私はまた太宰さんに向き直る。その表情から、先ほどまでの薄い笑みは消えていた。
 
 「もちろんです……」

 私は小さな声と共に頷き、歩き出した。太宰さんもその後に続く。
 家に辿り着くまでの間、私達は無言だった。私はただ黙って、道路脇の街灯に照らされたアスファルトを見つめ、それなので太宰さんの方はどこを見ていたのか、私には知りようがなかった。

 *

 家に上がると、私はひとまず手を洗いお茶を淹れた。果たしてそれが必要なのかはわからない。けれども、何もないというのもこの重苦しい空気を助長するような気がしてならなかったからだ。こんなに苦々しい思いでお茶を用意するのも、生まれて初めての出来事だった。

 やがて湯気の立つカップが二人分出来上がると、私はそれを持ってリビングへと向かった。ローテーブルの傍ら、いつもの位置に太宰さんが座っている。

 「どうぞ……」

 小さな声で言いながらカップを置くと、太宰さんもまた同様に「ありがとう」と返してくれた。クッションを引き寄せ、テーブルの角を挟んだ隣に座る。

 そこから少しの間、沈黙が場を満たした。暖房をつけていても尚薄ら寒い、部屋の空気によく似合う沈黙だった。

 それでも私は、決意を固めていた。昨日の夜にも、何度も心の内で顧みた思い。私はこれを、太宰さんに伝えなければならない。
 私は小さく息を吸い込んだ。

 「あの……ごめんなさい!」

 思いの外大きな声が出て、私はハッとして太宰さんを見た。太宰さんもまた、ほんの少し目を丸くしてこちらを向いている。鳶色の瞳が、しばらく見ていなかったその柔らかな色が、懐かしさを伴って胸に沁み入る。私は咄嗟に目を伏せた。鼻の奥がつんと痛み始めるのを、どうにかやり過ごす。まだもう少し、我慢しなければ。
 私は少し俯いたまま、続けた。

 「……しばらく、会えなくて。それから、さっきのこと。彼、本当にただの会社の後輩で、今日は一緒に営業先へ向かったんですけど、それが長引いてしまって。そうしたら、もう遅いからって送ってもらうことになって。……先日も、妹さんへのプレゼント選びに同行しただけなんです。太宰さんからのお誘いより先に約束してしまったので、断るのも申し訳なくて」

 そこからが本題だった。私はテーブルの下で、ぎゅっと手を握り込む。

 「……けど、本当は、それを口実にして、太宰さんのこと避けていました。会っても上手くお話できるか、自信がなくて。……私また、考えすぎてしまったんです。最後に太宰さんと会った日に、聞かせてもらったことについて。やっぱり、私と太宰さんとの経験の差、大きいなって。それでなんだか……モヤモヤしてしまいました。それは嫉妬だってひとに指摘されて、かなり恥ずかしくて、なかなか言い出せなくて……」

 言いながら、自分の身がますます小さくなっていくような心地がした。それでもこれだけはと思い、力を振り絞る。

 「それだけだったんです。それだけのことで、いろいろ心配をかけてしまいましたよね。私がもっと素直に、その場で解決していられたら……本当に、すみませんでした」

 そう括って、頭を下げた。テーブルに額をぶつける、ぎりぎりのところだった。
 太宰さんは、黙って話を聞いていてくれた。張り詰めたような沈黙が、再び二人の間に落ちる。


 壁掛時計の針の音だけが、静かな部屋にこだましていた。それが数秒ほどの時を刻んだ頃だった。
 ふと、温かな感触が私の頬に触れた。

 「そんなに謝らないでよ」

 導かれるように顔を上げる。再び正視した太宰さんは、少しだけ眉尻を下げ、困ったように微笑んでいた。

 「まず、私は君に怒っていないよ」
 「え、でも……」
 「まあ、さっきの光景には妬いたけど。それで少し意地悪した」

 思わず「ひえ」と息を飲むのを、私は寸でのところでこらえた。

 「でも、君が嘘をついていないことくらいわかる。疑ってなんかいないよ。……けど、そうだな。強いて言うなら、この状況を作ってしまった自分には怒っているかな」
 「え……?」

 私は首を傾げた。すると太宰さんは、微笑を崩さぬままに言った。

 「駅近くで待ち合わせたとき。あのときのことが切っ掛けだろう?」
 「!」

 私が反応を示すと、太宰さんはやっぱり、と言うように息をついた。

 「私こそ、その場でフォローすべきだった。訊かれなかったら言わないというのも、私の悪癖だね」
 「……じゃ、じゃあ。今、訊いてもいいですか」
 「うん。向こうから声をかけられたんだよ。君が到着するほんの少し前だったかな。あまり長引くようなら切り上げようと思っていたのだけど、それより早く君に目撃されてしまった」

 言いながら、太宰さんは笑った。「本当に、仕様がないね」どこか自嘲するような響きだった。

 「私も、どこか後ろめたさがあったから言い出せなかった。その所為で君を嫌な気持ちにさせた。……済まなかったね」
 「……っ、いいえ」

 私はぶんぶんと首を振った。揺れる視界に振り払われるように、頭の中にずっと居座っていた靄が少しずつ晴れていくようだった。

 「……なんだか私達、お互い様だったんですね」

 ようやく見えてきた事実を、確かめるように呟く。すると太宰さんもまた頷いてくれた。

 「そのようだね」

 先ほどより幾分解けた空気が、私達の周りをふわりと包んだ。


 「しかし、まあ」

 ややあってから、太宰さんが少し背を反らすように宙を仰いだ。

 「君は度々こうやって、私との関係を不安がるけど。私だって似たようなものだよ」
 「え? それはどういう」
 「何せ私は、一度君に振られた身だからね」

 その言葉に、私は驚愕した。覚えのない話に、慌てて身を乗り出す。

 「ふ、振ってなんかいませんよ!?」
 「告白の後、しばらく返事をいただけなかったじゃないか。あの時間は私にとって振られたも同然のものだったよ……」
 「そう、だったんですか……!?」
 「そうだよ。だからまたいつ愛想を尽かされるか、正直ひやひやしている」

 恨めしげなその告白は、私の胸をちくちくと刺した。そうだったのか。あのとき、観覧車での出来事の後の空白期間。太宰さんはそんなふうに思っていたのか。
 初めて聞く話に私はいたたまれず、テーブルの上にあった太宰さんの両手を無意識に掴み取っていた。

 「私、太宰さんに愛想を尽かしたことなんてありません! いつだって、大好きです!」

 思ったままにそう伝えると、目の前で太宰さんは数度瞬きした。照明の光を受けたその瞳が、私の目にはちかちかと光って見えて、ハッと我に返る。

 恥ずかしさからそのまま黙り込んだ私に、少しして太宰さんはふっと微笑んだ。そして、私に握り込まれた両手をそっと解くと、片手で指を絡め直した。もう片方の手が、再び私の頬に伸びる。

 私は一瞬だけ、ぎゅっと唇を噛むと、言った。

 「あっ、あの、太宰さん。今日は、その……」

 一旦そこで言葉を切って、少し俯いた。緊張で、手の内がじんわりと汗ばむのを感じる。その提案を述べるには、あまりにも大きな勇気が必要だった。
 けれども、前に進みたい。もう一歩、太宰さんに近づきたい。その願いが私の背を押した。

 ところが、勢い口を開こうとした私を制するように、太宰さんが声を発した。

 「そうだね、もうそろそろいい時間だ。お互いわだかまりも解けたことだし、お暇するとしようか」

 そうしてさりげなく解かれた手に、私はしばし頭が真っ白になった。

 立ち上がり、コートを吊るしたハンガーラックへと向かう太宰さん。その背中がコートに腕を通そうとしたとき、私は弾かれるように彼を追いかけ取りついた。

 「と、泊まっていかないんですか……?」

 ようやく言うことのできたその提案は、今や懇願へと変わっていた。恥ずかしさで頭がいっぱいだったが、それ以上に泣いてしまいそうだった。
 見上げた太宰さんは、こちらを振り向いた格好でしばし固まっていた。けれども、やがてその表情を隠すように口元へ手を遣ると、なぜか部屋の壁に視線を固定したまま言った。

 「……今日は、やめた方がいい」

 その言葉の意図が掴めず、ますます不安を煽られながら私は問い返した。

 「どうしてですか?」

 太宰さんは一瞬、黙り込んだ。けれどもその後そっと白状するように呟かれた言葉を、私は理解するのにしばし時間を要した。

 「今日、そういうことになったら……手加減できそうにない」

 私は彼の発言を、脳内で反芻した。そういうこと。手加減。この二つのワードが少しの間頭の中をくるくると回って、やがて顔が発火せんばかりに熱くなった。
 唇をぱくぱくと開閉する私を、太宰さんは口元を覆い隠したまま細めた目で見下ろした。大方、こちらの反応は予想済だったのだろう、その目は「やっぱり」とでも言いたげな色をしていた。

 わかっている。私だってもういい大人だ。泊まっていくとはつまりそういうことだと理解しているし、そのつもりでの申し出だった。けれども改めてそんな忠告めいたことを言われると、そこから先どう応えていいのか思考が完全に迷子になる。
 太宰さんは付け加えた。

 「君は、その……恐らく初めてだろう? 怖がらせたくはないんだ」

 そして、そのことについてもバレている。いつか、そのときが来れば言わねばと思っていたことだったが、逆に指摘されることになるとは。彼からしてみれば聞かずともわかることだったのだろうが。

 眩暈すら起こしそうな羞恥の中、それでも私は掴んだ彼の手を離せなかった。離してはいけないと思った。優しい太宰さんの言葉の裏に、時折見え隠れする怯えのようなもの。それは違うということを、今こそ伝えなくてどうすると言うのだろう。

 「怖くないです」

 私は視線を逸らさぬよう、真っ直ぐ太宰さんを見上げて言った。

 「き、緊張はしますけど。でも、私だって、もっと太宰さんと一緒にいたいです。知りたいです。近づきたいです。……ふ、触れたいです。もう逃げません。太宰さんとのことで、怖いことなんて何もないんです」

 心臓がばくばくと脈打っていた。ようやく伝えられた気持ち。どうか彼に届くようにと、祈るような思いで見つめる。

 太宰さんは目を見開いたまま、しばらくこちらを見返していた。やがて詰めていた息を吐き出すようにため息をつくと、正面から私の肩を引き寄せ、こつんと額を置いた。肩口で、少しくぐもった彼の声が聞こえる。

 「君って……こうと決めると途端に、大胆になるよね」
 「え……そ、そうでしょうか」
 「わかったよ」

 そう言って、太宰さんは顔を上げた。その目元がほんの少し赤い。すぐ近くで、はにかむような笑顔が咲く。嬉しげなのに泣きそうなその表情は、私の心臓を掴んでやまないものだった。

 「それなら私も安心して、君を捕まえるとしよう」

 そうして、唇が重なった。


 久方ぶりのキス。甘く溶かすように繰り返されるそれに夢中になっていると、ふと背中に回った太宰さんの手が、指先だけで私の背筋を撫で下ろした。シャツ越しでも痺れるようなその感覚に、私は目を見開く。

 「あっ、あの、太宰さん……? その、今から……?」

 思わず唇を離し、胸に手を突き距離を取ろうとする私に、彼は見たこともないようなうっそりとした笑みを向けた。そして両手で私の腕をそれぞれ掴むと、やんわりと壁へと追い詰める。
 見上げた彼の表情は、照明の陰になって凄絶なまでの美しさだった。けれどもそれに見惚れている場合ではない。私は慌てて言った。

 「あの、ちょっと待ってください、せめてその、準備を……!」
 「済まないけど、それはできない相談だ」
 「なぜ!?」

 せめて口だけでもと抵抗する私に、太宰さんの影が覆いかぶさる。ほとんどゼロ距離にまで近づいた身体の間で、彼の吐息が首筋を掠める。

 「君は知らないだろうから、教えてあげよう」

 鼓膜を直接震わすほど近くで、彼の声が低く響く。

 「二週間、恋人の顔を見ることも敵わなかった男が、ようやくそのひとに触れたらどうなるのか」

 そして向けられた微笑みに、私は優しいばかりではない夜の訪れを悟った。

 *

 その商社の事務室内は、気だるい午後の空気に包まれていた。
 なまえが座るデスクは、本日朝から空席である。年末年始に与えられた特別休暇を消化するため、終日休みを取っているからだ。
 そのデスクの横を、マグカップ片手に通り過ぎる人があった。パンプスの踵を軽く鳴らしながら、ゆったりとした足取りで事務室の一角にある給湯室へと向かう。
 開け放してある扉をくぐると、そこには先客がいた。振り向いたその青年が、「うす」と若者らしい挨拶と共に頭を下げる。

 「お疲れ様」

 それに応えて、彼女もまたそこへと足を踏み入れた。シンク脇に二つ並んだポットのうち、青年が使っていない方の注ぎ口にカップを合わせて置く。横手の戸棚から、共有のドリップ珈琲を適当に摘まみ出した。
 青年もまた、同様のものを淹れていた。少しずつ湯を注いでは、待つ。それを繰り返す間の、静かな時間。ふと、女性の方が口を開いた。

 「そういえばあんた、もう諦めたの?」
 「へ?」

 青年が、隣で珈琲を淹れる女性を振り向く。しれっとした顔でポットの給湯ボタンを押す彼女に、彼はしばし瞬きをして、それから頭を掻いた。

 「あー……まあ、そっすね」
 「あんまちょっかいかけるもんじゃないわよ」
 「や、これでもそんな、遊び半分とかじゃなかったんすよ」

 女性が、ちらりと青年の方を見遣る。青年は些かばつが悪そうな顔をして、ぽつりと呟いた。

 「会ったんすよ」

 その言葉に、女性が矢庭に食いつく。

 「うっそ、まじで? 彼氏さんに?」
 「はい」
 「どんな人だった?」
 「めっちゃイケメンでしたよ。俺より十センチは背高いし」
 「うわああ何それ、見たい……! 今度写真ないか聞いてみよ」
 「あと、なんか……」

 言い足そうとして、しかし青年は言葉を切った。女性が首を傾げる。

 「……いや、何でもないっす」

 青年は静かに首を横に振った。

 「……まあ、残念だったね。ちょっとタイミングが遅かった」
 「ほんとそれっすよ……いつの間にできてたんだろ」
 「私も気づかなかったからねえ」
 「けど、こないだの話でワンチャンあると思ったんすよ」
 「浅はか」

 それなりに落ち込む青年を気遣ってか、女性は返ってけらけらと笑った。出来上がった珈琲に口をつけながら、青年もまた自嘲ぎみに笑う。

 「けど、まあ」

 一つ息をついて、思い返すように宙を仰いだ。
 冷たい冬の空気のように、自分の全身を刺した視線。それとは逆に燃え盛るような熱を向けられていたことに、当の彼女は気づいていないようだったが。

 「あんだけ愛されてたら、不安なんて言ってる場合じゃないすよ」

 ため息混じりの呟きは当然、その場にいないなまえの耳に入ることはなかった。
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