オリキャラ(固定名)の登場あります。





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 太宰さんと一緒に川に落ちた日から、三ヶ月ほどが経った。あのときはまだ気温も暖かで、水の冷たさにもなんとか耐えられるくらいだったが、今やすっかり季節は冬。吐く息も白く立ち昇る、クリスマスを目前に控えた十二月初旬である。

 あれから私達は、度々のデートを重ねながらのんびりとした時間を過ごしていた。お付き合いを始める以前にもそうだったように、それぞれの仕事帰りに待ち合わせてはお茶をしたり、食事をしたり。勤務の日がまちまちな太宰さんと休日を合わせるのは難しかったが、それでもたまに都合が合えば一日一緒に過ごすことも。大半の時間は買い物や散歩など、レジャーには事欠かない街の中で過ごすことが多かったが、互いの自宅へ上がるようになることもまた自然な流れだった。
 初めのうちは、男性の部屋を訪れることも、また逆にお招きすることにも経験のなかった私は、ちょっとお茶してお話して解散することが関の山だった。太宰さんもまた、今住む社員寮に人を招くことはほぼないらしく、散らかってるけど……とどこか気まずそうにしながらも上げてくれた。彼の部屋は物が少なく、雑然とした印象は薄かったが、片隅に空の酒瓶が数本、所在なげに佇んでいた。思わず「お酒もほどほどに」と言ってしまったときの太宰さんの、叱られた子犬のような顔は今でも忘れがたい。

 そんな、どこかおっかなびっくりだった私達だけれど、近頃は少しずつ様子が違ってきた。そんなふうに思う。
 部屋で二人きりで過ごしていると、ふと太宰さんとの距離がとても近く感じる瞬間がある。それは物理的なものではなく、なんと言うか、心の距離とでも言うのだろうか。そうしたとき、私達はどちらからともなく唇を合わせる。触れるだけの、優しいキス。キスそのものはあの川に落ちたその日に経験しているはずなのに、こういうとき、私はなぜかどうしようもなく胸が切なくなる。この感覚が何なのか、私にはまだわからない。それでも心の奥底では確かに、もっと太宰さんに触れていたいと願う自分がいる。
 けれども、やがてそのキスが啄むようなものに変わり、彼の唇が耳朶や首筋に触れると、私はどうしていいかわからず不自然なほど身を強張らせてしまう。太宰さんはそれ以上、何もしない。優しく微笑んで、髪を撫でてくれる。

 わがままな女だと思われるかもしれないけど、このもどかしさは、きっと私も太宰さんも同じ。できることなら彼にも、そう伝えたい。
 そんなことを密かに思い始めた、冬の日のことだった。


 その日も、私は太宰さんと駅近くで待ち合わせをしていた。それぞれ首尾よく仕事を切り上げることができたので、どこかお店で軽い食事をしてから、私の部屋でゆっくりしようという予定だった。
 待ち合わせ場所までは太宰さんは徒歩で、私は職場から鉄道を利用して向かうため、私の方が少し遅れて到着することになる。乗り込んだ車両の昇降口付近に背をもたせながら、私は無意識に浮き立つ気分をこっそりと宥めていた。
 やがて自動音声のアナウンスと共に車両がゆっくりと停止し、私は人の流れに沿って、混み合うホームへと降り立った。待ち合わせ場所まで最短の出口を確認し、改札を通る。地下のアーケードを抜け、地上へと続く階段を登れば、目的地はすぐ目の前だった。

 つるべ落としの要領で夜に包まれた街の風景を、私はきょろきょろと見回す。出口からすぐに続く幅広の街路では、等間隔に並ぶ植樹にきらびやかなイルミネーションが施されている。一定のリズムで明滅を繰り返すその明かりの下、私は道の角に設置された植え込みの手前に太宰さんの姿を見つけた。
 駆け寄ろうとして、しかしすぐに足を止める。その瞬間の私の頭の中は、まさしく真っ白と表現するに相応しい呆けぶりだった。
 
 太宰さんの傍には、二人の女性がいた。こちらからはその背中しか見えなかったが、どちらも私の見知らぬ後ろ姿だ。その女性達と、太宰さんは何事か言葉を交わしている。
 柔和に細められた目、緩やかに笑みを作る口角。数メートルの距離があったので会話の内容までは聞き取れなかったが、それよりも当時の私は、太宰さんのその表情に釘付けになっていた。

 ふと、イルミネーションの光を柔らかに映すその目が、私の方へと向けられた。女性二人もこちらを振り返る。
 太宰さんは彼女らに何かを告げると、こちらへ向かい軽く手を振りながら歩き出した。その肩越しに、どこか落胆したような面持ちの女性達が道を去って行く。私はその間、ずっとその場で動けずにいた。

 「やあ。お仕事お疲れ様」
 「……おつかれさま、です」

 反射的に返した挨拶は、妙に乾いてカタコトしていた。私は自分のその声にハッとして、気を取り直す。

 「お待たせしました。すみません、寒かったですよね」
 「いいや、平気だよ。暑さ寒さにはそこそこ耐性があるんだ。それにほら、先日からようやく襟巻を取り出した」

 そう言って、どこか誇らしげに自分の首元を指し示す太宰さん。濃いチャコールのマフラーは、砂色のコートによく似合っていた。

 「それより、君こそ鼻の頭が赤いよ」
 「えっ……!? い、今鉄道降りたばかりなのに……」

 言われて、慌てててのひらで鼻先を隠す。赤鼻だなんて、トナカイでもあるまいし、太宰さんにそんな顔を見られるのは気恥ずかしい。
 しかし太宰さんはくすっと小さく笑って、顔を隠す私の右手を取った。

 「ほら、手も冷えてる」

 そのまま、そうすることが当然のように彼のコートのポケットへ導かれる。私はたちまち、寒さを噛みしめる余裕も無くなった。

 「店に入ろうか。どこか行きたいところはある?」
 「え……あ、えっと、そうですね。それじゃあ……」

 そうして、二人並んで歩き出す。砂色のポケットの内側では、しっかりと互いの指を絡めたまま。

 温かな幸せに震える胸の裏で、それでも私の気持ちはどこか燻っていた。
 さっきのひと達は、どうしたんですか?
 たったそれだけのことを、私はその場では聞けずじまいでいた。


 カフェで軽く食事を済ませると、私達は予定通り、私の自宅アパートへと向かった。

 「どうぞ。大したお構いもできませんが……」
 「いえいえ、お気遣いなく」

 笑い合いながらお決まりの挨拶を交わすと、二人部屋へと上がる。道すがら、コンビニで小さなカップスイーツを二つ購入した。それを食べながら、前回途中までとなっていた映画の続きを観ようという話だった。実は私は最近、定額の動画サービスを一つ契約したのだ。

 紅茶を淹れて席を整え、映画の続きをテレビにミラーリングする。昨年、米国で製作され世界的ヒットとなったミステリー映画で、私の好きな銀幕女優が主演をつとめている。造りこまれたトリックに緊迫した場面の数々、一方で時にはコミカルなシーンも挟まれるため、観ながらでもあれこれコメントを交わしやすい。
 私はトリックについてはからきしだが、さすがの太宰さんはどうやら先が読めているようだった。スイーツを掬ったスプーンを口に運びながら、何やらにやにやとした笑みをこちらに向けるので何事かと問うと、「唸ったり驚いたりしてる君を見ている方が楽しい」などとのたまう。これには私も憤慨した。切っちゃいますよ!? とリモコンを握っても笑っていなされるので、本当にこういうとき、敵わないなあと思う。

 やがて物語は終幕し、エンドロールが流れ始める。私達もそれぞれにスイーツを食べ終え、お茶をすすっていた。

 「面白かったです」
 「そうだね。筋はそれほど複雑でもなかったけど、場面の見せ方が良かったかな」
 「うーん、そうでしたか……」

 私は頭を捻る。せっかく動画サービスを契約したのだ。どこかに太宰さんでもあっと驚かせるようなお話はないものか。あれでもない、これでもないと脳内の映画に関するストレージを検索しているうちに、エンドロールの楽曲も止んだ。
 ふっ、と、部屋の内に静けさが訪れた。

 私は予感した。
 そっと太宰さんの方に視線を向ける。すると太宰さんもまた、こちらを見つめていた。小さなローテーブルの角を挟んで、二つの視線が絡まり合う。
 太宰さんが唇を開いた。

 「今日は……もう少し一緒にいても、いいかな」

 どこか慎重さを含むその声音に、私の鼓動はかえって大きく脈打った。
 やっとの思いで頷き、少し視線を落とす。救いを求めて目を遣ったマグカップの中身は既に空で、僅か残った紅茶の色が底に円を描くだけだ。

 視界の端で、太宰さんが動く気配がした。
 そっと頬に添えられた手で優しく顔を上向かされ、少しかさついた親指が目の下をなぞる。そのくすぐったさに思わず声を漏らすと、太宰さんもまた笑うような吐息をついた。もう片方の手が、床に突いていた私の手を上から覆う。そのまま視界が陰り、鼻先が触れ合う。夕陽を映した水面のような瞳が間近で瞬いて、私はゆっくりと目を閉じた。

 熱く柔らかな感触が、触れては離れを繰り返す。角度を変えるごとに深さを増す口づけに、私は次第に上がる呼吸を懸命に抑えつけた。頬を撫でていた太宰さんの手はいつしか髪を掻き分け項へと回されている。それに支えられるようにして、ゆっくりとラグの上へ身を横たえさせられた。
 名残を惜しむように、ようやく唇が離れていく。

 「っは、あ……だ、太宰さん、」

 どうしてか泣いてしまいそうになるのを、私は必死でこらえていた。
 太宰さんは片手を私の耳のすぐ横に突き、もう片方の手で私の指先を引き上げた。爪、指の関節、てのひら、手の付け根と、軽く食むように唇を押し付けられ、熱い吐息が手首の内側を嬲る。
 見上げた太宰さんの目は、少し茫洋としていた。熱に浮かされた人のように、切なげに眉根を寄せている。
 けれどもふと私の視線に気づくと、軽く微笑んでくれた。
 柔らかく細められた目、緩やかに弧を描く唇。

 どうしてだろう。それとは違うということは、理解しているはずなのに。
 そのとき私は、今日待ち合わせの場所で見た太宰さんの表情を思い出してしまった。


 「……あの、太宰さん」

 気づけば口を開いていた。
 太宰さんは、「ん?」と少し首を傾け、こちらを覗き込んでくれる。

 「一つ、お聞きしてもよいでしょうか」

 自分でも驚くほど、硬く平板な声音だった。自分もこんな声が出せるのかと、心のどこかで愕然とする。
 太宰さんが「どうぞ」と促してくれるのを待って、私は尋ねた。

 「太宰さんは、今までどのくらい、女性とのお付き合いの経験があるのでしょう」

 空気が凍り付く瞬間は、もちろん私にも感じられた。


 長い沈黙。いや、実際には数秒のことだったかもしれない。
 ようやく動きを取り戻した太宰さんが言った。

 「こ、この流れでそれを訊くのかい?」

 その返答に、私は些かむっとする。

 「駄目でしょうか……」
 「いや、駄目というわけではないけれど……」

 いつになく弱ったような太宰さんの声。彼は少しの間考えるように唸ると、ふと身を起こし私の身体も抱き起してくれた。
 そして私の両肩に手を置いたまま、正面で向かい合って座り言った。

 「君の心を変に煩わせたくはないから、正直に言うよ」
 「どうぞ」

 今度は私がてのひらを見せて促す。太宰さんはまた少し考えるように宙を仰いだが、しかし待てど暮らせど、その答えはなかなか出てこない。
 やがて太宰さんが、ぽつりと呟いた。

 「……お付き合いって、どの辺からを言うのかな」

 その質問に、私はやはり、と思うと同時に心臓の辺りがぐらぐらした。しかし太宰さんは直後素早く手をかざすと、「いや、ちょっと待って。今のはナシ」と首を横に振った。

 「ざっくりとでいいですよ」
 「そ、そうかい……ええと、それなら……けっこう、かな……」
 「けっこう……」

 その言葉を、私は胸の内で繰り返した。けっこう、けっこう。

 わかってはいたことだ。お付き合いを始める以前にも感じていたこと。本人に直接聞いたのはこれが初めてというだけで。
 私と太宰さんとの経験の差。埋めようにも埋められないそれは、海底を貫く広大な溝のようにも思える。
 当然のことだ、私達はそれぞれ別個の人間で、今まで全く違う人生を歩んで来たのだから。全てが等しく釣り合うわけがない。そもそも今大切なのはそこではないし、気にすべきことでもない。わかっている。ダメージというほどのものでもない。
 けれどもその事実は確実に、私の心に黒いモヤモヤとした陰を落としていった。


 結局、その日はそのままそこはかとなく気まずい雰囲気となり、太宰さんはそこそこの時間で引き上げた。
 非常に申し訳ない思いはあった。自分の口走ったことに後悔する気持ちもある。
 それでもこの重りを抱えたまま、太宰さんと正面から向き合う気概が、そのときの私には全く足りていなかった。

 *

 その夜のこともあり、それから数日の間、私と太宰さんはなんとなく顔を合わせるのを避けていた。単にお互いの都合が合わなかったということもある。けれども、そうでもなければ多少なりとも時間を作る努力はする。そこを怠っていた。少なくとも、私の側にはそういう節があった。

 そんな悩みを抱えていても、私を取り巻く日々は、社会は、素知らぬ顔で巡り過ぎていく。
 その日の夜、私の所属する部署では、少し早めの忘年会が開催されていた。いくつかの課をまたぎ合同で行われるので、参加者は二十人弱とそれなりの大所帯だ。広い宴会場のある店を予約し、その一間を貸し切っての宴が、宵の口から始められている。

 幹事による司会に続き部長からの挨拶、そして隣の課の課長が乾杯の音頭を取ると、皆それぞれの席で和やかに言葉を交わしつつ、箸やグラスを傾ける手を進める。そのうち、誰からともなくボトルを手に席を立ち始めると、場は一息に賑やかさを増した。
 あちこちで談笑の声が飛び交う中、私は自席の座椅子に正座したまま、ぼんやりと烏賊の酢味噌和えをつついていた。箸を口に運びながら、周囲を見回す。出遅れた。私も早く、挨拶に回らなければ。そう思うのに、どうにも一向、お尻が座椅子を離れてくれなかった。
 そんな私の隣の空席に、ふと腰を下ろす人があった。

 「ちょっと、何て顔してんの」

 苦笑交じりの声も艶やかなその人は、我が部署のエースにして高嶺の花。つい先日まで私がバディを組ませてもらっていた先輩だった。

 「美園先輩……」

 思わず名を呟くと、浮かせた箸から烏賊が滑り落ちそうになった。寸でのところで掴み直し、そっとお膳の上に戻す。

 「最近ぼーっとしてるの気になってたから。来ちゃった」

 白い歯を見せて笑うと、「ほら、飲んで飲んで」と言いつつボトルをこちらに傾ける。私は慌てて、「いただきます」と頭を下げつつグラスを差し出した。

 「で、どうしたの? 何か悩み事?」
 「すみません……私、そんなでしたか……」

 とくとくと音を立てながら注がれたそれを、私は少し口を湿す程度に含んだ。舌の上で泡が弾けて、冷たい液体が喉を通り過ぎていく。
 先輩は頷いた。彼女には、バディとなる以前、私が新入社員だった頃から何かとお世話になっている。人との間に壁を作らない性格で、仕事の合間にも度々連れ出してくれて、悩みを聞いてくれた。そんな彼女には、どうやら私の様子がおかしいことなどお見通しだったようだ。

 私は迷ったけれど、ぽつぽつと事情を語り始めた。数ヶ月前からお付き合いをしている男性がいること、その人は私には勿体ないほどの人物で、見目麗しいためどうやら女性の目を惹きやすいということ。そしてこれまでの経験の差をこちらが意識するあまり、今現在関係が少しぎくしゃくしてしまっているということ。
 一通り話を聞くと、先輩は開口一番「惚気じゃん……」と呟いた。私は目の前のお膳に頭から突っ込みたい気分になる。
 しかしすぐ後に「うーん」と首を捻って腕を組み、難しい表情を作って言った。

 「しかしまあ、なんか大変な人を捕まえちゃったわけね。確かにそれはいろいろと心配だわ」
 「心配……」

 その言葉に、私は改めて自分の内側を顧みる。そして少しずつ、考え、言葉を選びながら言った。

 「私はたぶん、その人の心変わりを心配しているわけではないんです。信じたいし、信じる気持ちは確かにあります。けど、それとは別に……なんというか、やっぱり私とその人では釣り合いが取れないんじゃないかって、不安に思う部分があって、けどそれをその人に理解してもらうのも難しいだろうなって……」
 「うんうん、それでそれで?」
 「だからその、どうにかこの気持ちを消化できたら、少しは落ち着いて…………って、え?」

 そこまで言って、私は勢い首を振り向けた。相槌を打つ声が聞こえた方向。先輩が座る席とは反対の、私の右隣。
 先ほどまで空だったその席に、胡坐をかいて片肘を卓に突き、にこにことこちらへ笑みを向ける人物がいた。
 私の左隣から、先輩の呆れ返った声が聞こえる。

 「ちょっと早坂、女子の会話に首突っ込まないでくれる?」
 「ええ〜、いいじゃないすかちょっとだけ。俺も恋バナ聞きたい!」

 そんな軽口にもどこか憎めない雰囲気を持つ彼。後輩の早坂君。今年の夏頃、中途採用で入社した新人で、確か私より二つ年下。研修後同じ係に配属され、先月から度々私と共に営業先を回っている。
 そんな彼に、さっきまでの話を聞かれていた。私はみるみる頬に血液が集中していくのがわかった。

 「早坂君……! い、今聞いたこと、忘れて!」
 「ええ? 何で? 美園先輩はいいのに?」
 「先輩だから話したの! もう、職場でこんな話……いいから忘れて!」

 言いながら、自分の記憶も抹消しようとグラスをあおる。それを横から眺めながら、「ここ職場じゃないすよ」と早坂君は笑う。何をそんな、屁理屈を。

 「つーか、みょうじ先輩彼氏いたんすね。うわショックー」
 「何言って……」
 「しかもモテ男て。先輩も意外と隅に置けないなあ」

 好き勝手言い続ける彼に呆れて、私はいっそ無視を決め込むことにした。先ほどからつつくばかりでなかなか進まなかったお膳を、この際一気に片付けてしまおうと意気込む。隣で先輩も、やれやれと言うように半笑いでグラスを傾けた。
 しかし、それすら気にせず続ける彼の言葉に、私は覚えず、箸を動かす手を止めてしまった。

 「でも、そういうモヤモヤ、ほっとくの良くないすよ」
 「……それは、」

 そうなんだろうな、とは思う。今でこそ、自分自身でも上手く説明できかねるぼんやりとしたモヤモヤだ。けれども、それを溜め込むうちに肥大化して、やがて太宰さんへの不信感にまで変わることがあれば。
 きっと彼を傷つけてしまう。それだけはしたくない。
 けど、だからと言ってどうすればいいのだろう。正面切って伝えたとして、上手く理解してもらえるだろうか。太宰さんはとても頭のいい人だけど、こればかりは少し勝手が違うような気もする。もしかしたら、気分を害してしまうかもしれない。それに、こういうことをあえて口に出すというのもなかなかに恐ろしいことだ。自分の卑屈な部分を、恋い慕う相手に見せるということは。

 そんなふうに悩む私の思考を読んだかのように、早坂君は言った。

 「口で伝えるのが難しいなら、彼氏さんにも、ちょっとばかり同じ気分になってもらえばいいんじゃないすか?」
 「……え?」

 どういうこと? 思わず聞き返そうとして、しかしその話はそこで打ち止めとなった。

 「はい、えー皆さん、宴もたけなわではございますが、しばしご注目ください。恒例のビンゴ大会始めまーす」

 マイクを握る幹事の声が響いて、広い座敷のあちこちからわっと拍手が起こる。私も慌てて合わせるようにぱちぱちと手を叩き、その隣で早坂君が「また話しましょーよ、先輩」と囁きを残し席を立っていった。
 彼は何を言おうとしていたのだろう。私は予め配られていたビンゴカードを手に取りつつ、首を傾けた。

 *

 それから二日経った日の、定時後。夜の七時を過ぎたところ。今日一日の雑務を片付けた私は、家路へと着くべく身の回りを整えていた。
 デスクの上に取り出していたマイボトルや手帳等を鞄に収めていると、ふと隣に近づく人の気配がした。

 「みょうじ先輩、ちょっといいすか?」

 顔を向けると、そこには早坂君がいた。彼もまた、ダウンジャケットにマフラーを身に着け、帰り支度を既に済ませた様子である。
 何の用だろう。何か仕事で聞きたいことがあった、というわけでもなさそうだ。私は首を傾げた。

 「どうかした?」

 問いかけると、彼は少し言いづらそうに頬を掻いた。

 「えーと、もし良ければなんすけど。先輩にちょっとお願いしたいことがあって」
 「ん? なに?」
 「実は、今度俺の妹の誕生日なんすけど。プレゼント選びに妙に手間取っちゃって。で、ほんともし良ければなんすけど、一緒に選ぶの手伝ってくれません?」
 「えっ」

 私は思わず、驚きの声を上げた。その反応を早坂君は否と取ったのか、「やっぱ無理すよね」と首の裏に手を遣る。

 「あ、いや、そういうわけではないんだけど。でも、私でいいの? そんな、妹さんへのプレゼントなんて」
 「や、先輩だからいいんすよ。たぶんだけど、うちの妹と趣味近そうなんで。ちょっと年離れてるんすけど、最近妙に背伸びし始めて、持ち物にもうるさくなって」

 「昔はとりあえず可愛いもんあげときゃ良かったんすけどねー」いつにも増してお喋りになる早坂君を見て、私は心の中で感心していた。彼は普段から口がよく回るが、こんなふうにどこか照れた様子で話をする姿は珍しい。世渡り上手な少しお調子者とばかり思っていたけれど、妹さんのことを思い出しているのだろうか、緩む目元に兄としての彼が垣間見えた。
 私はあまり気取られぬよう、ほんの少し微笑んだ。

 「そういうことなら、いいよ。今日は予定もないし。これから行く?」
 「えっ、まじすか? ありがとうございます! はい、今から! あっ、じゃあ俺カバン、」

 と、早坂君が言いかけたときだった。
 デスクの上に置いた私の携帯端末が、メッセージの受信を知らせる画面を浮かび上がらせた。

 「っ、ちょっと待って」

 私は素早くそれを手に取ると、食い入るようにして画面を確認する。
 そこには、今日これから会えないかと、太宰さんからのお誘いを示す文章が表示されていた。

 私は端末をそっと胸に押し当て画面を隠すと、少し言葉に迷いつつ言った。

 「えっと、ごめん……今日はちょっと、たった今、用事が……」

 言いつつ早坂君に目を向けると、彼は自席へと向かいかけた身体をこちらに戻し、数度瞬きして小首を傾げた。

 「もしかして、彼氏さんですか?」
 「えっ……えと……そうだね……」

 私は気まずい思いを味わいつつ、正直に首を頷かせた。
 すると早坂君は、奇妙に感情の読みづらい真顔をして、こう言った。

 「じゃあ、ちょうどいいじゃないすか。こないだ言ってた話、今試しましょうよ」
 「え……?」

 すぐには何のことかわからず、私はまたも首を傾げる。そんな私に彼は、いつもの人懐こい笑みを取り戻し両手を広げた。

 「ほら、こないだ忘年会で言ったじゃないすか。彼氏さんにもちょっとだけ、嫉妬してもらおうって話」
 「嫉妬……!?」

 私はその単語にひどく動揺した。そんな話だったっけ? 彼の言うこないだ、が何のことかは理解した。けれどもまさか、それがこんな話に繋がってくるとは予想だにしていなかった。
 彼は続ける。

 「こないだの先輩の話、要は彼氏さんがモテるんで先輩は嫉妬しちゃって不安感じちゃって、けどそれを面と向かっては言いづらいけどモヤモヤしてしょうがない。そういうことだったじゃないすか」
 「な、なるほど……!?」

 私は衝撃を受けた。なんだか身も蓋も無い話にされてしまった感はあるけど、きれにまとめられている。
 そうか、嫉妬。この不安とモヤモヤは嫉妬から来るものだったのか。納得すると同時に、私は改めてショックを受けた。やっぱり私って、小さい。
 しかしそんなこちらの様子を気にするでもなく、早坂君は更に続けた。

 「だから、今日の彼氏さんからのお誘い、試しに断ってみましょうよ。後輩との用事がある、とか言って。大丈夫すよ、嘘つくわけじゃないし。そしたら彼氏さんも、ほんのり気にしてくれるかも」
 「え、でも……出来ないよ、そんな」

 嘘をつくわけではない。確かにそうだ。けれどもそんな、彼の気持ちを試すような真似をしてもいいものだろうか。
 それに、今日のこの太宰さんからのメッセージは数日ぶりのものでもある。更に言えば、最後に顔を合わせたのは実に一週間ほども前。もしこのお誘いを蹴ってしまったら、太宰さんはいよいよ私の顔も忘れてしまうのではないか。それは言い過ぎかもしれないけれど。
 渋る私に、そこで早坂君は少し唇を尖らせた。

 「でも、今のは俺が先約ですよね」
 「え……いや、確かに、それはそうだけど」
 「はあー……まあ、そうですよね。順番とか関係ないすよね。職場の後輩なんぞより彼氏の方が優先順位上ですよね」

 心底残念だとでも言うように首を振る。
 私はいよいよ弱り果てた。確かに、私の今まで培ってきた良識からすると、人との約束というものは先に入れてしまった方を優先すべきだ。家族然り、友達然り。円滑な人間関係を維持するには、自分の都合で順序を入れ替えるなどしない方がいい。
 けれども、そこに恋人が絡む場合は? 恋人を優先すべきではないのか? わからない。経験が乏しい。こういうときどうすることが正しいのか、できれば今すぐにでも友人に助言を仰ぎたい。

 ただ冷や汗を流すだけになってしまった私に、早坂君はとどめを打った。

 「ちなみに、妹の誕生日って明日なんすよ」

 私はへなへなと自席に腰を下ろした。
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