時計の針が、深夜の二時に差し掛かろうとする頃。柔らかなオレンジの間接照明で照らされた店内は、さざめくような酔客の声で未だ満たされていた。
 そろそろ引き上げるか、と腰を上げ始めた同僚達を背に、私は一人バーカウンターの方へと向かった。カウンター向こうのディスプレイには洋酒を中心に様々な銘柄のボトルが所狭しと並び、店主はそれを背にして静々とグラスの後片付けを初めている。後ろで一つに束ねたグレイヘアの似合うその人は、私が近づく気配にふと顔を上げると、優しげな眉尻を下げ微笑んだ。私も応じて苦笑をこぼす。彼の立つ場所のすぐ手前、並んだカウンター席の一つに、突っ伏す黒い背中が見えていた。
 私はその人の隣にそっと近寄る。入店時に帽子もコートも預けているため、常より軽装となったその背中はどこかあどけない。少し腰を屈めて、その背に向けて落とすように声をかけた。

 「中也さん。起きてください。そろそろ閉店の時間ですよ」

 しかし彼が動く気配はない。腕を枕に俯けた顔の下からは、よく耳を澄ますと規則的な呼吸が聞こえてくる。
 私は少し迷って、けれども仕方がないと判断してその肩に右手を触れた。

 「中也さん」

 もう一度声をかけつつ、控え目に肩を揺する。するとぴくりと、グラスにかけたままの彼の指先が反応を示した。
 俯いて見えなかった顔が、ゆっくりとこちらへ向けられる。照明の色に親和する獅子色の髪が、さらりとその頬に落ちかかった。
 中也さんは眠たげな目をしたまま、ぼんやりとこちらを見上げていた。私はまた自然と漏れる笑みを抑えつつ、先にもかけた言葉を繰り返した。

 「閉店の時間ですよ。帰りましょう」

 中也さんの目が数度瞬きした。そして何事か、唇を僅かに開き呟く仕草を見せるので、私は首を傾げつつその顔を覗き込んだ。

 「…………好きだ」

 小さな小さな声。
 日の名残りを惜しむ夕空のような瞳は少し潤んで、アルコールに浸された頬は熱をはらんで赤かった。


 そんなことがあったのが、先週のこと。

 翌週の半ば。夜半を過ぎた執務室で、私は一人うんと伸びをした。
 椅子の背を軋ませながら、また元の姿勢に戻る。マウスのホイールを転がし、つい今しがた出来上がった書類のデータに目を通す。

 「……こんなもんかな」

 一人呟く声は、口の内側にこもって消えていくようだった。誰もいない執務室の空気は、夜の静けさと親密に寄り添い溶け合っている。

 ふと息をついたとき、扉の向こう、通路の奥からこちらへ向いて歩く足音が聞こえた。硬質な靴底で床を踏む音。警備担当者だろうかと、なんとなしに扉へ目を向ける。
 足音はそこで止まった。次いで開かれた扉の向こうから顔を出した人物に、私は瞬間的に心臓が大きく脈打つのを感じた。

 「っ、中也さん」

 慌てて立ち上がり、姿勢を正す。
 そんな私に中也さんは少し目を丸くしたものの、「おう」と普段と変わらぬ声音で応じた。


 そう、あれから中也さんの様子は、至っていつも通りだった。
 バーではあの呟きの後、すぐに同僚が援助に駆け付けて彼は連れ出されていった。送迎車は既につけていたので、何か会話をする間もなくその場では別れた。
 二日程後、顔を合わせる機会があったがどうやら彼は何も覚えていないようだった。直接的に尋ねたわけではない。けれどもこちらの顔を見ても何の反応も示さなかったし、近過ぎず遠過ぎず、彼特有の心地良い距離の取り方は何ら変わりのないものだった。
 私の方はと言えば、最初こそ大いに混乱しどぎまぎしていたが、次第に納得していた。落ち着いて考えてみればすぐわかる。あれはきっと、寝言か何かだったのだろう。あのときも中也さんは相当酔っていた。グラス一杯ですぐ酔える人なのだ。こちらを見上げる目つきはとろんとしていたし、完全に寝起きだった。
 夢の続きでも口走ってしまったのか、あるいは誰かと間違えたのか。
 そこまで考えると、目に見えない棘がちくりと私の胸を刺した。だからそれ以来、私もこのことについては努めて忘れようとしていた。単純な思い過ごしだったのだと。


 「まだ残ってやがったのか」

 そう声をかけられ、私はハッと意識を引き戻される。中也さんは扉を閉め、自分のデスクへと足を向けるところだった。
 私はなんとなく居残りを見咎められたような恥ずかしさがあり、言い訳のように答えた。

 「そろそろ上がろうかと思っていたところです」
 「そうか」

 中也さんは頷きつつ、私の前を横切り部屋の奥へと向かう。見慣れないライダースジャケットを着込んだその背中に向け、今度は私の方から声をかけた。

 「中也さんは、今日は非番では」
 「ああ。ちょっと忘れもんだ」

 そう言って、中也さんはデスクの抽斗の中を探り始めた。私はその様子を少しの間窺って、そろそろと手元に視線を戻した。私も帰ろう。そう思い、デスク周りを片付け身支度を始める。

 とは言え上司を置いて先に帰るわけにもいかないので、支度はいつもよりゆっくりと進めた。椅子の背にかけっぱなしだったコートを取り袖を通すと、部屋の奥を振り返る。中也さんもちょうど、用が済んだところだったようだ。
 目が合うと、彼は言った。

 「帰るか」
 「はい」

 頷き、鞄を肩にかける。扉を開けて彼を先に通し、照明を落とした執務室を後にした。

 ビルから出るまでの間、通路やエレベーターの中では何気ない仕事の話をした。先日の荷揚げがどうの、新規の保護ビジネスがどうの。超高層ビルの中を下降していく距離は長いが、その分エレベーターの馬力は強い。
 やがて表示階がフロントに差し掛かる頃、中也さんが言った。

 「乗ってけ」
 「へっ?」

 思わず間抜けな声を上げ、隣に立つ中也さんを見返す。

 「手前、今から歩いて帰る心算だろ」
 「あ、はい、そうですけど……でもそんな、ご迷惑は」

 しどろもどろに首を振るも、中也さんはなんてことないふうに笑った。

 「気張ってやってる部下に、そんくらいはさせろよ」

 いつの間にかエレベーターはフロントで一時停止し、待ちぼうけるように扉を開けていた。そこを無理矢理くぐって彼の厚意を無下にすることもできず、私はおずおずと頭を下げた。

 「では、その……お願いします」

 中也さんはまた少し笑って、エレベーターの“閉”ボタンを押した。

 地下駐車場に着いて少し歩くと、遠目にも目立つ赤い立派なバイクが見えた。それが中也さんの愛車だということを、私はつい先日、人伝に聞いたところだった。
 思わず感嘆の声を上げると、中也さんは少しくすぐったそうにしていた。静かに主を待つ車体に近づくと、ミラーに引っ掛けてあったヘルメットを取り、当然のようにこちらに手渡す。

 「被っとけ」
 「え? あの、でも」
 「何だよ。……言っとくけど、洗ったばっかだからな」
 「いっ、いや、そこは気にしてませんから! そうでなくて、中也さんは?」

 渡されたヘルメットを掲げて尋ねると、中也さんは合点したように「ああ」と頷いた。

 「元々あって無いようなもんだからな。違反切られるのが面倒で着けてるだけだ」

 言いつつバイクに跨る背中に、私はなるほど、と納得した。確かに、彼の異能を前にすれば物理的な危険というものは無いに等しい。たとえ乗車中に崖から転落したって、彼もバイクも無傷のままけろりとして戻ってくるだろう。それでも一般的なルールに従いこれを着用しているあたりに、しみじみと彼らしさを感じた。

 「ほら。早くしろ」

 振り返って促され、私は慌ててヘルメットを被った。「し、失礼します」と言いつつ座席後ろに跨ると、「おう」となんとも気軽な声。またおずおずと私が腰に腕を回すのを確認すると、エンジンが吹かされた。広い駐車場に響く重低音。ライトの閃光が道行を開くように照らし、二人を乗せたバイクは滑らかに走り出した。


 夜の横浜の景色が、光の尾を引きながら次々と通り過ぎていく。コートの裾やヘルメットからはみ出た髪が風に煽られ音を立てて揺れ、しがみついた中也さんのそれも同様だった。

 「寒くねえか?」

 呼びかけるような声量で問われ、私も風とエンジン音に流されぬようはっきりとした声で応えた。

 「大丈夫です!」

 実際、全然寒くはなかった。直接風が当たるのはシールドで守られない顔周りくらいのもので、ほとんどは前方に跨る中也さんによって遮られているし、何より今、自分が腕を回し頼るのが彼の背中だという事実が私を平常心ではいられなくさせていた。つまりは、それどころではなかった。慣れないバイクに必死になっているからと、自分に言い聞かせるようなことも考えてみる。

 途中、前方に赤いパトランプが回るのが見えた。白と黒で塗り分けられた市警の車両が路肩に寄せられていて、更にその前方には黒い自動車の屋根らしきものも見える。こんな時間ではあるが、運悪く違反切符を切られている最中だろうか。
 車両後方に立っていた市警らしき人物が、ふとこちらに気づく素振りを見せた。私はひやりとして、思わず「あ」と小さく声を上げていた。
 しかし直後、もう一人いた警官が足を踏み出そうとした同僚の肩を叩いた。その口元が動き何か囁いて、ゆるゆると首を振っている。
 その横手を、バイクは速度を変えぬまま走り抜けていった。ミラーに映った二台の車は、あっという間に遠ざかり小さくなっていく。
 腕を回した中也さんの背中が、苦笑いするように僅かに震えた。

 「今日だけ勘弁だな」

 私は彼から見えもしないのに、こっくりとただ頷いた。心臓がまだ少しだけどきどきしていた。顔パスで見逃してもらうだなんて、映画のワンシーンのようだ。とんでもない人の後ろに乗せてもらっているんだなあと、私は改めてそわそわと落ち着かない気持ちでいた。

 それからも景色はどんどん移ろって、あっという間に私の住む地区へと辿り着いた。右手に並んだ住宅の向こうに細い坂道の入口が見えてくる頃、私は言った。

 「この辺りで大丈夫です」

 中也さんは首肯だけで応じると、徐々にバイクのスピードを落としていく。やがて坂道の手前、電柱についた街路灯が白い光を投げかける辺りで、車体は停止した。一拍置いて、エンジンが落とされる。
 途端、夜の静けさがベールのように景色を包み込んだ。私は少し苦労してバイクから降り立ち、借りていたヘルメットを脱ぐ。風に当たっていた頬はかえって熱を持つように感じた。

 「ありがとうございました」

 ヘルメットを差し出しつつ、私は深々と頭を下げた。

 「おかげさまで、予定より随分早く帰宅できます」
 「そいつは良かった。つーか手前、この距離を歩いてって、健脚も大概にしろよ」
 「えへへ、まあ、健康のために……」
 「乗り心地、悪くなかったろ」
 「はい! 初めてバイクに乗せていただきましたけど、こんな感じなんですね。車とも歩くのとも景色が違って見えて、感動的でした」

 中也さんは微笑んで、ヘルメットをミラーに掛けながら言った。

 「また都合が良けりゃ乗せてやるよ」

 何気ないその一言に、私は浮き立ちかけた心を慌てて抑えた。そんな、幹部の愛車で二度も三度も二ケツだなんて、できるわけがない。私は苦笑しつつ、両手を横に振った。

 「いやいや、恐れ多いですよ」

 そして鞄を肩にかけ直すと、改めてお辞儀をした。

 「本当にありがとうございました。それではこれで、失礼します」

 おやすみなさい。そう付け加えようと、顔を上げたときだった。

 腕を引かれた。
 引き寄せられるままに、脚が一歩、前へとふらつく。中也さんが跨る車体の方へ。そのまま彼の手は掴んだ私の腕を伝って、項へと添えられた。軽く引き下げられる視界。こちらを向いて上向けた中也さんの顔が近づく。街灯の光によって陰影が映し出されたその表情は、見たことのない、憂いのようなものを帯びていた。

 唇が重なる、その寸前。

 そこで動きを止めた彼は、ただ黙って私の目を見つめていた。咄嗟に瞼を閉じることもできなかった私は、呼吸すら忘れて彼を見返す。

 「……抵抗しねえのかよ」

 間を置いてぽつりと呟かれた問いは、間違いなく私の耳に届けるためだけのものだった。

 抵抗はしない。できるわけもない。彼が上司だから、そんな馬鹿げた理由ではない。
 ただ、この夜を宝石に変えたような瞳に囚われてしまえば。そこから逃げることも視線を逸らすことも、私は一切望まなくなってしまうと、私はこのとき初めて自覚していた。


 どのくらいそうしていただろう。やがて中也さんの手が、私の項をそっと離れた。
 身の自由を取り戻した私は、屈めていた腰を元に戻す。
 中也さんは離した手をそのまま自分の後頭部に持っていき、ぐしゃぐしゃと髪を乱すように掻きむしった。

 「ああ、くそっ……」

 小さな舌打ちの後、その頬はほんのりと赤らんでいた。

 「あの夜言ったこと、撤回はしねえからな」

 私は呆然として呟く。

 「寝ぼけてたんじゃ、なかったんですか……?」
 「寝ぼけてたよ。けど、寝言じゃねえ。本気だ。……あんな形で言うつもり、無かったのによ」

 そうぼやく彼は、心底から悔しがって見えた。
 そのままミラーに掛けていたヘルメットを取ると、些か乱暴な手つきでそれを被る。留め具を閉める音がして、赤いバイクのエンジンが再び吹かされた。

 「考えとけよ」

 最後にそう残して、バイクを駆る彼の背中は夜の街へと消えていった。

 私はしばらくその場で佇んで、不意に両手で顔を覆った。体中の血液が頬へと集まって、どうしてか涙腺までも攻撃してくるようだった。震える唇を開いてみても、漏れるのは意味をなさない呻き声だけ。
 まるでゆでだこの妖怪みたいになって、私はよたよたと坂道を登り、家路を辿った。
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