私の上司は女の敵だ。

 ポートマフィアに加入したのは齢十五の頃らしい。そこからその抜きん出た知略と才覚を以って功績を積み上げ、歴代最年少にして幹部へと昇進。以降も組織の成長に絶大なる影響を及ぼし、敵対組織のみならず内部の人間でさえその名に慄き震え上がる。
 一方でその容貌、佇まいにはマフィアらしからぬ秀麗さがあり、年齢にそぐわぬ色香すら漂う。艶然と微笑めば大抵の女性はいちころで、加えて口も上手いと来れば騙された側を誰が責められよう。これまで泣かせた女は数知れず、部下の間では彼女らの涙で東京湾は出来上がっていると専らの噂だ。
 無論、そんな所業を繰り返していれば修羅場は避けられない。しかし、詰め寄られた彼はあっけらかんとして嘯くらしい。「女性は皆好きだよ?」と。これではもう誰の手にも負えない。

 怜悧にして放逸。そんな人物の下、今日も私は馬車馬のように働く。
 彼のペースについていくには一日が二十四時間では足りず、デスク上にエナジードリンクの壁を築き上げながら、電算筐体の画面にかじりつく。
 時刻は二十三時半を過ぎていた。

 「やあ、ご苦労様」

 軽やかな声が聞こえた。開け放してあった扉の向こうから、革靴が床を踏む音が響く。
 私は手を止めぬまま、目線だけを動かした。太宰幹部が、漆黒のコートをなびかせながら執務室へと入ってくるところだった。

 「お疲れ様です」

 返事をすると、彼は私のデスク前で一時足を止めた。

 「それを大量摂取する自殺方法でもあるのかい?」

 包帯に隠れていない方の目をくりんと丸めて、わざとらしく小首を傾げる。
 それ、というのは今日一日で私の空けた大量のエナジードリンクのことを言っているのだろう。いつからだろう、眠気覚ましに珈琲では効かなくなったのは。私はキーボードを叩く音に被せて答えた。

 「延命のためです。ここで意識を切らせたら確実に明日以降の私が死にます」
 「なあんだ。あるなら教えてもらおうと思ったのに」
 「それより、上がったデータは全て送ってあります。ご確認を」

 奥にある彼の席へちらと目を遣り促すと、彼は「はいはい」と言いつつそちらへ向かった。高級な革張りの執務椅子がほんの僅か軋む音が聞こえ、彼が着席したことを知る。

 「……うわ、もうこんなに仕上げたの? 全く、君は働き過ぎだよ」
 「誰のお陰でしょうか」
 「私だね」

 彼が肩を竦めつつ画面に目を走らせるのを見届け、私も作業に戻った。しばらくは静かな時間が続く。
 地上から遠く離れたビルの上階には、街の喧噪も届かない。私がキーボードを打つ音、太宰幹部が時折「あー」とか「うーん」とか唸る声、それからマウスのホイール音だけが広い部屋に反響していた。
 やがて太宰幹部が言った。

 「うん、いいんじゃない」

 いいんじゃない。その七文字だけで私の一日の奮闘が統括されてしまったわけだが、良しとしよう。リテイクされるよりは何倍もましだ。
 私は立ち上がった。控え目な起動音を上げながら動き出す印刷機に歩み寄り、排出された数枚の用紙を確認する。それを手に、太宰幹部の元へと向かう。これに判を頂ければ、今日の仕事はようやく上がりだ。日を跨ぐ前にどうにか山は越えられた。帰ってシャワーを浴びるくらいの時間はあるだろうと内心で息をつく。

 書類を手渡すと、彼は「ありがと」と軽く応えて目を通し始めた。裁決を待つ間の短い時間。その一瞬、私の気はほんの僅か緩んだ。

 ぼんやりと彼のデスク上に目を遣る。そこに見慣れぬデザインの、紙製の小さなショッパーが置かれていることにふと気がついてしまった。


 「気になるかい?」

 意識の外から向けられた言葉に、ハッとする。慌てて背筋を正し太宰幹部に向き直ると、彼はこちらを見上げ薄らと目を細めていた。口の端を僅か持ち上げるその笑みは、何か相手の嫌がることを思いついたときのものだ。

 「いいえ。何も」

 私は努めて平静に、きっぱりと答えた。

 「そうかい。そんなに気になるのなら、教えてあげよう」

 しかし彼はにっこりとした顔を作って応じた。
 私の言ったことが聞こえていただろうか。私は胸中でひっそりと項垂れる。

 「実は先程まで会っていた女性がね、今日が誕生日だったらしくて」

 太宰幹部は話し始めた。

 「それでプレゼントが欲しいと言うものだから、二人で宝飾店に行ったんだ。で、その帰りにまた別な女性と鉢合わせて、しかも驚いたことに彼女も今日が誕生日だったのだよ。すごい偶然だよね」
 「…………はあ」
 「そうしたらそのまま二人が喧嘩になってしまって、止めに入ろうとしたものの火に油でね。結局、そのプレゼントだけが虚しく私の手元に残ったというわけだよ」

 「せっかく店主に無理を言って、営業時間外に開けてもらったというのにねえ」そして眉尻を下げ、物憂げなため息を一つ吐いた。
 いや、全てあなたが撒いた種でしょうと、言いたいが言えない。

 私は軽く目を瞑って、側頭部がじわじわと痛み出すのを抑えた。

 「それは、はあ。お疲れ様でした」
 「全くだよ。誕生日の一つや二つがいったい何だと言うのだろうね」
 「いや、問題はそこではないと思うのですが……」

 意見する私に、太宰幹部はガラス玉のような左目をぱちぱちと瞬いた。そして次の瞬間、「そうだ」と出し抜けに手を打った。

 「せっかくだから、これは君に贈呈しよう」
 「……はい?」
 「いやなに、遠慮することはない。私が持っていても仕様がないものだからね」

 言いつつ、手元のショッパーを引き寄せ中身を取り出し始める。包帯を巻いた手が箱にかかったリボンをするすると解いていく様に、私は思わず後退った。

 「い、いいえ、結構です。ていうか要りませんよそんな、縁起でもないもの」
 「まあそう言わずに」

 そして現れたのは、シルバーゴールドのチェーンがきらめく、華奢なネックレスだった。垂れ下がった輪の先には、小粒ながらも華やかな存在感を放つ輝石。彼の財布から出たものだと考えれば、それは当然のごとくダイヤモンドなのだろう。
 太宰幹部はそのネックレスを片手に立ち上がった。弓なりに細くなる目は、いつ見てもこちらの冷や汗を催す。

 「いや、本当に、勘弁してください……」

 言いつつ、私は右足を更に後ろへと引いた。パンプスの踵が、何か硬いものにぶつかる。どの道詰みだった。私はいつの間にか、背後にある同僚のデスク際まで追い詰められていた。

 目の前にまで迫った彼の両手が私の肩を掴んだ。次の瞬間、私の視界はくるりと裏返る。よろけそうになるのを、デスク上に両手指の先をつき凌いだ。

 「じっとして」

 俯けた首の後ろから、太宰幹部の囁きが耳をくすぐる。首元に、白い手が回り込む。
 喉元を軽く叩く、冷たい石の感触。項を掠めるように触れる、ぬるい指先。嘘のように静かな室内では、すぐ後ろにいる彼の息遣いまで聞こえてきそうで。

 私の心臓は、自らの鼓動で破裂寸前だった。


 「……出来た」

 永遠に続くかとも思われた時間は、唐突に終わった。
 また身体をくるりと半回転させられて、私は太宰幹部に向き直る。
 彼は私の首元を眺めつつ、どこか満足げに頷いた。

 「うん、やっぱりだ」

 回らない思考でがちがちになりつつ、私は尋ねた。

 「な、何がですか」
 「これを選んでいるときにね、ふと思ったんだ」

 太宰幹部は微笑んだ。

 「君に似合うだろうなって。思った通りだったよ」


 私の上司は女の敵だ。
 そして女の敵ということは私の敵でもあるということを、このとき私は改めて思い知らされたのだった。
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