小説版文スト『STORM BRINGER』のネタバレ含みます。未読の方はご注意ください。





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 ポール・ヴェルレエヌ。私がその名を初めて耳にしたのは、この横浜で最も高く聳えるビル、その最上階に位置する警備堅固な部屋の内でのことである。そしてその人物こそが、先だって組織に甚大な被害をもたらした『暗殺王事件』の犯人、その人であると聞かされたとき、私は身の内に走る衝撃を極力顔に出さぬよう、口元を引き締めることで精一杯だった。
 しかしそんな私の努力も、かの人からすれば幼子の拙い嘘より見え透いたものだったろう。数歩先にある磨き上げられた執務机、その向こうで革張りの椅子に腰かける我らが長、ポートマフィア首領・森鴎外は、組んだ両手の上にゆったりとした笑みを乗せたまま言った。

 「驚いたかね?」
 「……は」

 私は瞬きも少なに頷くのみだ。
 このとき、任務で負った怪我の影響で既に前線を退き、組織の後進育成の任に徹していた私は、その事件と直接的な接触は持たない。それでも当然、その余波には容赦なく晒された。強風域の外にいる私にまで血飛沫が届く、そんな酷い嵐のような騒ぎだったのだから。
 幹部候補とも目される少年が立案した作戦には、マフィアの全戦力を投入するほどの人員が必要だった。それでも暗殺王はその人間と銃器の壁をいとも容易く薙ぎ払う。第二陣、第三陣まで壊滅的な打撃を受ける中、更に後方にはまだ私の手を離れない新参の構成員も配置された。そして生きて帰った者は少ない。そうした経緯で現在に至るまで、ポートマフィアは人手不足に悩み、不本意ながら私の仕事は休む間もなく繁盛しているわけだが。

 「……その暗殺王が、自ら後進育成に当たりたいと?」

 先に告げられた、俄かには納得できない話を私は繰り返す。首領は背もたれに身を預け、「いかにも」とゆるりと目を閉じ頷いた。

 「事件の後、彼は自ら地下施設に引き籠って静かに過ごしてくれていたんだけどね。どういうわけか、この度そう申し出があったんだよ。さすがに暇を持て余したのかな。まあ、こちらとしても、彼ほどの実力者がその技術を提供してくれるのであれば、願ったり叶ったりな話なのだけれど。しかし、その真意がわからない」

 私は考える。自ら地下に幽閉され、そこから動けないし動こうともしない男。彼はかつてたった一人で、首領の暗殺を企てた。そのような人物が、今度は組織の戦力拡大に協力したいと言う。その目的は?
 組織内部とはいえ、地下で行われることにまで首領が常に目を光らせるのは難しい。かと言って、今回の話は扱う人物が人物だ。そこの掃除を任されているような下級構成員にうっちゃるわけにもいかない。なるほど、それで。
 私が理解したことを察してか、首領は続ける。

 「そこで、君にはしばらくの間、彼の上司として監督を行ってもらいたい。そして、その様子を報告して欲しい。……またあんなのが、今度はお手製の部隊を引き連れてやってきたら、私もさすがに腕の一本は覚悟しないといけないからね」

 首領は笑った。私は笑えなかった。暗殺王の監視。この職に就いて、まさかそんな仕事に回される日が来るとは思ってもみなかった。どうして私なのだろう。なまじ階級を上げてきた自分の功績を初めて恨んだ。

 「まずは一ヶ月。頑張ってみよう」

 そうして私は胃の腑に鉛を突っ込まれたまま、執務室を後にした。

 *

 ヴェルレエヌという男を一言で表すと、わからない。それだけだった。それではお話にならないのだが、私の彼に抱く印象は最初から今に至るまで一貫している。そのくらい、読めない男だった。

 初めて、地下で彼が居室として利用する部屋を訪れたとき、彼は籐椅子に座って本を読んでいた。私が先に決定した事項を伝える間、彼はただ黙って私の話を聞き、最後に、「そうか」と静かに頷くだけだった。その鳶色の瞳には不満も猜疑も何もなく、ただあるがままの事実を受け入れる目をしていた。

 私は少なからず拍子抜けした。別に、何か報告すべきことを彼に期待していたわけではない。そんなものはない方がいいに決まっている。それでも私の想像としての彼は、『暗殺王事件』の中心人物である。もう少し、然るべき反応があってもおかしくないのではないか、とそのときの私は思った。

 何と表現したら良いか。彼は、大多数の人間が持つこの世への未練というものを、粗方捨ててしまった。そんな寂寞とした印象を受けた。
 彼はそれ以上何も問わず、何も言わなかったので、私はそのまま部屋を後にした。


 それから、私と彼の奇妙なコンビによる仕事が始まった。
 結果から言うと、上司として、或いは指導者としての私は一切彼に不要のものだった。彼は偶にいる、何をさせても卒なくこなす男だった。そもそもがプロの暗殺者で、それ以前には某国の諜報員としての経験もあると言うから、それもわかり切ったことだったとも言えるが。
 暗殺についての知識や技術は私よりも遥か上、教育の方も申し分ないと来れば、私が彼に口出しすべきことは何もない。そうなると自然、仕事の方は分担制となっていった。彼は暗殺の本質、主に殺しの技術を教え子達に伝授し、私の方はそれだけでは実践レベルに足りぬ者達に向け、殺しまでの道筋を補助する細かなノウハウを伝えた。
 仕事を取られた、と言ってしまえばそれまでだろう。そのことについて悔しく思う気持ちもないではなかった。しかしそれよりも、当時の私の本題は彼の監視の方にあった。故にそういう感情は脇に置いて、仕事そのものは実に順調に進んでいった。

 一方で彼の様子だが、弟子を持つようになってからもほとんど変わらなかった。彼は相変わらず、わからない男だった。自ら教え授ける立場となれば、多少なりとも彼の感情を窺い知る場面もあるかに思われたが、彼は弟子にさえ、自らを語ることはしなかった。稀に好奇心が勝り尋ねる者もあったが、それにも明確な答えはない。彼はいつも、どこかここではない遠くを見つめている風情があった。

 その視線の先に何があるかはわからない。けれども共に仕事をしているうちに、私はふと思うことがあった。
 彼は何かをなぞっているのではないか。
 それは過去の記憶か、その記憶の中にある何か、或いは誰か。何も語らぬ彼からその正体を掴むことはできないが、時折、彼は何かを探すような目をする。それはいつも、弟子に教えを与えている最中の出来事だった。その素振りに、私は身に覚えがあった。
 誰しも、今日に至るまでには、誰かの何等かの影響を受けてそこにいる。その良し悪しに差はあれど、人は一人では成立し得ない、その事実だけはいつも根底に貫き通っている。私も例に漏れない。私は、私をこの世界に導いた人に倣い、前線を退いた後も組織のこの場所に留まっている。そして教えを与えるとき、自分が与えられたときのことを思い出す瞬間がある。

 もしかすると。本当に、気のせいにも満たないほどの微かな予感ではあるが。
 彼も同じく、誰かに倣ってこの行為を始めたのかもしれない。理由のないところに行動は起こり得ない。
 彼が後進の育成を始めた理由。それは私設部隊の創設などと言った謀の類ではなく、もっとシンプルな、感傷にも近い思いだったのかもしれない。
 それは飽くまで、私の想像の範疇を超えないものだったが。


 そして一ヶ月が過ぎ、更に二ヵ月、三ヶ月と時は進んでいった。私と彼との仕事は続いた。
 多くの弟子が私達の元を訪れ、そして去っていった。彼らは皆、組織の各所で戦闘員として、暗殺者としてその戦果を挙げていく。

 やがて一年が経とうとする頃。私はまた、首領執務室へと報告に上がっていた。
 私は結論を首領に伝えた。
 首領は満足げに微笑し、そうして私のヴェルレエヌ監視の任は解かれた。

 *

 数年後。私はある晩、地下施設の長い通廊を一人歩いていた。手には葡萄酒の瓶が、一本。紙で包みリボンをかけただけの簡易的な包装を施してある。その重みになんとなく落ち着かない気分を味わいつつ、一歩一歩、慣れた道を――最近では少し足が遠のいていたその道を、ゆっくりと進んでいく。
 白く頑丈な造りの壁面にはめ込まれたドアをいくつも見送り、やがて目的の扉の前に辿り着く。
 私は少しの間そこを見つめ、それから軽く息を吸い込んだ。そんな動向も、扉の向こうにいるであろう部屋の主には、全て筒抜けていると知りつつ。
 ドアをノックする。そして返事も待たずにノブを押した。

 ヴェルレエヌは、籐椅子に腰かけて本を読んでいた。しかし、目線は既にその紙面を離れ、こちらを向いている。軽く見開かれた、鳶色の目。どうやら、そこに私が来たこと自体はわかっていても、なぜ私が来たのかまではわからない、そんな顔つきをしていた。私はますます募る落ち着かない思いを誤魔化すため、一つ咳払いする。

 「こんばんは。少しいい?」

 そう尋ねると、彼はやや間を開けて、傍らのサイドテーブルに本を置いた。立ち上がると、その背が欧州人らしくすらりと縦に長いことに、私はしばしばたじろぐ。彼は私から数歩距離を取ったところで立ち止まり、言った。

 「どうした?」

 その声音は、彼にしては珍しくもわかりやすく当惑していた。本当に、今日私がここを訪れた理由に心当たりが見つからないのだろう。私は急激に鼻白んで、さっさと用だけ済ませてしまおうと葡萄酒の瓶を差し出した。

 「幹部昇進おめでとう。一応これ、お祝いに」

 そう言うと、彼は数度目を瞬いた。少し離れていても尚打点の高いところから、私の手中にある瓶を眺めている。
 そこからでは受け取れまい。そんな嫌味も込めて、私は手に持った瓶を更に突き出した。すると彼はようやく、あと数歩だった距離を詰め、私の手からそれを受け取った。

 「……ありがとう」

 何と言えば良いのかわからないが、とりあえず物を受け取ったならそう言うべきだ。そんな、どこか実感のこもらない“ありがとう”だった。それをきっかけに、私の口はつるつると滑り出す。

 「まあ、一応ね。少しだけど一緒に仕事してた時期もあったし、祝わないのも変かと思って。あなたとしては淡々と仕事こなしてたら結果こうなったってだけなんだろうけど、幹部昇進なんてとんでもない出世だからね。あ、別に悔しいとか、妬んだりとかはしてないから。むしろ納得するしかないっていうか、あなた相手にそんな感情、随分昔に捨てちゃったし。だからその葡萄酒に何か仕込んだりとかもしてないから安心して。ていうか、私の給料でぎりぎりなんとか買えるけっこういいものだから、捨てずにちゃんと飲んでよね」

 ほとんど一息に言いたいことだけを言い切ると、私は呼吸を整えた。彼からの反応を、あまり待つつもりもなかった。だいたいがそうなのだ。彼とは雑談というものがほとんど成り立った[[rb:例 > ためし]]がない。彼が語るべきことをあまりにも持たな過ぎるから。いつも私が一方的に喋り、彼は静かに相槌を打つのみだ。
 だから今日も、そんなふうに終わるのだろうと思っていた。そのことについて、何か期待も落胆も持ち合わせてはいなかった。

 ところが、彼はしばし考えるような素振りを見せた。その目が、あの何かを探すような目に似ていることに気づいたとき、私は少なからず驚愕した。

 彼は最初に、「捨てはしないさ」と前置いた。

 「これでも君には……感謝している。最初に君が俺の監視についてくれなければ、俺はこの仕事を始めることもできなかった。今でもこの部屋で貝のように黙しているだけか、或いは早々に処分されていたかもな」

 訥々と語る彼に、今度は私が数度目を瞬いた。目の前で起きていることに理解が追いつかない。大袈裟に言えば、そんな心境だった。

 「……気づいてたの」

 なんとかそれだけ返すと、彼はそこで、ほんの少し笑った。

 「気づいてたさ」

 軽く傾けた頬に、淡い亜麻色の髪がさらりと落ちかかる。

 ややあって、私はくるりと半身を返した。

 「……それじゃ、まあ、そういうことだから。改めておめでとう。大変だろうけど、頑張ってね」

 「おやすみ」そう言うと、軽く手を上げ部屋から引き返そうとした。
 しかしそんな私を、引き留める声があった。

 「待ってくれ」

 私は振り返る。仰天するような、信じられないような心持で。
 振り返った先でヴェルレエヌは、何かを言いあぐねているようだった。それも初めて見る彼の姿で、私はもうこの先、今夜のこと以上に驚くべき出来事には遭遇し得ないのではないだろうかと思った。

 少しして、ヴェルレエヌは言った。
 私からのプレゼントを、胸に掲げて。

 「……一緒に、開けていかないか」



 月の光も届かぬ、横浜の地下世界の一角。
 グラスを合わせる小さな音は、そんな夜の底にも澄んだ響きを持って聞こえた。
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