残暑の厳しさもようやくやわらぎ始めた、十月某日。ビルの四階に間借りする、ここ武装探偵社では、夏の疲れを慰労する名目で宴が催されていた。
 我が社では、宴会と言えば専ら事務所を会場として利用する。単純に経費節減のためと、社員全員を収容するにはここが一番手っ取り早いからである。人数に合わせていちいち店を探し予約するなど、幹事の手間も省ける。もちろん、ビルの貸主にも了承を得ている。というか、取扱い業務上、ともすれば敵対組織から襲撃も受ける我が社だ。それを許容する貸主側としてはもう、建物が壊れること以外なら何にでも使ってくれといったスタンスなのだろう。申し訳ないことこの上ないが、ありがたい限りでもある。

 宵の口の薄闇に、温かな街明りがきらきらと踊る横浜の夜。その景色を窓の外に眺めながら、未だ照明で明るく照らされた社内は、ますますの盛り上がりを見せていた。賑やかな話し声に笑い声。オードブルを中心とした立食形式なので、皆あちらこちらで数人単位のグループを作り、会話や食事に興じている。
 その中を私は、酒瓶片手に行ったり来たりと渡り歩いていた。もちろん、もう片方の手には自分のためのグラスも携えて。

 元来、私は人見知りである。それは人に言わせれば、他人と適度な距離を保ち接する態度に見えるようだが、私自身としては二十数年来のコンプレックスに他ならない。とはいえ、こうして職についている以上、私も立派な社会の一員。気恥ずかしいだの何だの言って、人との接触を避け続けるわけにはいかないのだ。
 そういうわけもあり、入社した当初、私はこうした宴会に少なからぬ緊張を覚えていた。しかし、回を重ねる毎に少しずつわかってきたことがある。それは、酒の力を借りれば割といけるということ。酒が入れば、大抵の人は常より陽気になる。私もそうだった。加えてアルコールには人並み以上の耐性があるということもわかったので、以来、私はこうして宴の間じゅう、いろいろな人の元を訪れては酒を勧めたり勧められたり、そうすることで楽しい気分を盛り上げるよう努めている。もちろん、中には未成年もいるので、そこは弁えているつもりだが。

 「みょうじ、やってるかい?」
 「あっ、与謝野先生! おかげさまで! 先生はどうですか?」
 「ん〜、なンか今日はなかなか調子が上がってこなくてねえ。おや、敦、あんたジュースなんて飲んでるのかい? 一寸こっちおいでな」
 「え゛っ!? いやあの、僕未成年なので……!」
 「ダメですよ先生、敦君は。あ、鏡花ちゃん! あっちにケーキあったよ。もう食べた?」
 「ケーキ……! まだ」
 「敦君と取っておいでよ。早く行かなきゃなくなっちゃうよ? ……あれ、春野さん、それ何ですか? おいしそう」
 「あっちのオードブルにあったわよ。ふふ、みょうじさん、今日もお顔真っ赤ね」
 「え? そうですか?」

 言われて照れ笑いしつつ、私は窓の方へ顔を向けた。夜の色を透かしたガラスには自分の顔こそ映るが、その色までは判然としない。

 ふと、そこに映り込む景色の中に、私はある人の姿を見つけた。数人の事務員と共に和やかに杯を傾ける、太宰さんの姿だ。

 心臓に、アルコールの所為ではない動悸が走った。
 人には決して言えないそれを抑えながら、私は目の前の卓に目を戻す。

 「……あ、春野さん、飲み物空ですね。何か持ってきましょうか?」
 「あら、いいの? それじゃ、緑茶にしようかな」
 「はーい、ちょっと待っててください」

 そう言って、私は飲み物を並べてあるテーブルの元へと向かった。

 歩きながら、思う。彼のところにも突撃するには、まだもう少しお酒が足りない。

 並んだ二リットルペットボトルの中から緑茶が入ったそれを手に取り、少し考えてから、新しい酒瓶も掴んだ。そうしてまた小走りに、宴の輪の中へと戻る。春野さんや、他の事務員の同僚達にも飲み物を勧めて、私もまた同様にグラスをあおった。
 金色の泡が次々と弾けるように、賑やかで平穏な夜は更けていく。


 それからしばらくして、私は賢治君の故郷について盛り上がっていた輪からふらりと抜け出した。少し小腹が空いてきたので、何かつまむものをと思ったからだ。オードブルの置かれたテーブルを目指し歩きながら、ふと会場の端の方に目が行った。思わず一旦その場で立ち止まる。
 目線の先には、国木田さんと太宰さんがいた。二人壁に背を預け、グラス片手に何事か言葉を交わしている。業務中に比べると気軽なその雰囲気に、私は今なら、と直感した。いい感じにアルコールも効いてきている。行けそうだ。
 私は新しいお皿を取ると、オードブルやカットフルーツから適当なものをいくらか選び取り、それとグラスを手にそちらへ近づいていった。

 「国木田さん、太宰さん、お疲れ様です。おつまみいかがですか?」

 そう声をかけると、こちらに気づいた国木田さんが「ああ」と声を上げながら壁から背を離した。

 「悪いな、みょうじ。一ついただこう」
 「どうぞどうぞ遠慮なく。太宰さんも」
 「ありがとう。……」
 「お二人とも、今日は大変でしたね。例の連続金庫破りに罠かけに行ったって聞きましたけど」
 「ああ、大変だったのは俺だけだ。こいつは捕り物の直前に犬に吠えられて逃げた」
 「あれは仕方がなかったって、何度も謝ったろう国木田君。すごく大きな犬だったんだもの」

 「嘘をつけ、悲鳴に喜色が混じっていたぞ」と悪態をつく国木田さんに、私は苦笑した。いつもどおりのやり取りには安心感すら覚える。
 ふと、その彼の手にあるグラスが、空になりつつあるのに気づいた。私はお皿と自分のグラスを傍らのテーブルに預ける。

 「国木田さん、飲み物もお持ちしましょうか?」
 「ん、ああ。いい、自分で行こう」
 「いえいえ、お疲れでしょうからゆっくりしてください。私もついでに何か取ってきますから」
 「そうか……それなら頼もうか。そうだな、俺はそろそろ茶でも、」

 と、国木田さんが言いかけたときだった。

 「国木田ァ、こんな処に隠れていたのかい! いつものやるよ!」

 高らかな宣言と共に現れた与謝野先生が、がっしと彼の首に腕を回した。その片手にはずっしりとした深緑の一升瓶。つい先ほどまで調子が、などと言っていたが、どうやら完璧に仕上げてこられたようだ。
 気道に圧をかけられた国木田さんの喉から、空気を絞り出すような悲鳴が上がる。

 「いっ、いや、与謝野先生。俺はそろそろ茶を、」
 「何言ってンだいこの口はァ? 夜はまだまだこれからだろう?」
 「の、飲み比べなら俺よりそこの唐変木が強かろう!」
 「はァ? ああ、太宰かい。こいつは駄目だ。どンだけ飲ませても一向潰れないから面白くない」
 「潰すためにやっているのか!?」

 いやああああ。そんな悲痛な叫びを上げながら、国木田さんは連れられていった。向かうは、いつの間にかセッティングが整った飲み比べ会場。数名の社員達から、応援と憐憫の入り混じった拍手が起こる。私は胸の内でそっと手を合わせた。私でなくて良かったと、密かな安堵も添えて。

 そうして彼を見送った後、私は改めて状況に向き直りハッとした。
 会場の端っこ。向かいには太宰さん。他のグループからは少し離れており、傍には誰もいない。
 何ということだろう。期せずして彼と一対一で向かい合う格好になってしまった。

 酒で緩み切っていた意識が、彼の方に集約して途端にきゅっと引き締まる。ついでに喉や胸にかけても引き絞られていくようだ。緊張を訴えて騒ぐ心臓がうるさい。
 それでもこれは、折角の機会だ。今まで太宰さんと、勤務時間外に二人きりで話した経験は数えるほどしかない。いつも誰か他の人を交えて、数人でお喋りするばかりだった。それはひとえに、二人きりだと私はろくに彼の顔も見上げられないから。緊張で首がぎしぎし言うだなんて、私はこの会社で彼と出会って初めて知った。

 けれども、今なら。急なアクシデントで取り残されてしまったという形の今なら、二人で話をすることに些かの不自然もない。何より、国木田さんの犠牲を無駄にはできまい。
 私は決意を固めた。

 「……国木田さん、行っちゃいましたね」
 「そうだね」
 「明日出勤できるでしょうか」
 「どうだろう」
 「一応、お水用意しておきましょうか」
 「それがいいね」

 太宰さんが頷き、会話はそこで途切れた。
 駄目だ。ちっとも盛り上がらない。二人になった途端に、こんなに上手くいかないだなんて。
 私は愕然とし、それから大いに焦った。

 「……えと、太宰さんも、もう少し何か飲みますか? 取ってきますよ」
 「私はいいよ」

 私の苦渋の申し出にも太宰さんは静かに首を振る。それからふと、私の顔に目を留めて言った。

 「……顔が赤いね」
 「え? ああ、みたいですね、春野さんにも言われました。いや、これでも赤くなるだけで、全然きつくはないんですけど」
 「……前から思っていたのだけど」

 その何事かを言い始めようとする呟きに、私はぴっと背筋を正した。ようやく話の取っ掛かりが掴めただろうか。そんな期待感があった。
 けれども、続く言葉とそのトーンは、私を戸惑わせるものだった。

 「君、こういう場ではやたらに飲むよね。普段そういう柄でもないのに。どうして?」
 「え……その、お酒好きなので」
 「本当にそれだけ? 無理しているふうに見える」
 「無理なんてしてないです! ほんとに、楽しいだけで」
 「そう。それなら、はしゃぐ姿を誰かに見せたいのかな。注目されるため?」
 「え……」
 「あまりやり過ぎない方がいいと思うけど」

 冷ややかな、それこそ氷をたっぷり浮かべた水のように冷ややかな声音だった。少なくとも、私にはそう感じた。それを頭からかぶせられたような心地に、呆然と瞬きする。

 こんなに素っ気ない顔をする太宰さんを、私は見たことがなかった。彼はいつだって社の中心でおどけて、賑やかで、たまに真剣で、親切で。そう、彼はいつも優しい。

 私がまだ入社したての頃。私が担当した事前の調査に誤りがあり、標的の確保に遅れを生じさせてしまったことがある。私はそれが悔しくて情けなくて、連日こっそり社に残って勉強を続けていた。そこで、事務所に忘れ物を取りに来たと言う太宰さんと鉢合わせた。事情を話すと、彼は少しだけ、私の勉強に付き合ってくれた。彼からのアドバイスは簡潔で的確で、その当時でとても入社一年目とは思えない考えの深さが窺えた。そのおかげもあって、私の仕事の質は向上した。次に担当した事案では、名誉挽回の機会にも恵まれた。後日お礼に伺うと、彼は少しだけ目を丸くして、それから微笑んでくれた。私はそのときの彼の表情を、たぶん一生忘れることはできない。
 そう思っていたのだけれど。

 目の前でグラスに口をつける彼の姿が、LEDの照明の元、白くその色を飛ばしていくように見える。
 私は慌てて、なんとか気を持ち直そうとした。

 「えっと……すみません。あの、失礼ですけど、太宰さん、酔ってます?」

 彼は私をちらりと見て、続けた。

 「私は飲んでも酔わないよ。人と違って」

 そうのたまう声は、私とは対照的にどこまでも平静だった。

 「そう、ですか……」

 私は頷くしかなかった。
 それでも、大人としての矜持が、ぎりぎりの心を決壊させることだけは防いだ。
 私は何か勘違いをしていたようだと、妙に冷えた頭の一部で思う。今まで優しくされてきたのは、きっとそう特別なことではない。太宰さんはいつだって親切だ。けれども、彼だってまた物を感じる人間でもある。どうやら私の振る舞いは、そんな彼の目に軽率に映ったようだ。しぼむ気分と共に、目線が下を向く。


 そのとき、向こうから私を呼ぶ声がした。たぶん、乱歩さんだったと思う。聴覚までどこかに遠のいていくようで、はっきりとは聞き分けがつかなかったけれど。何か私に用事があるようだった。
 私はその呼びかけに振り返って応えて、それからまたどうにか、太宰さんに向き直った。その顔を直視することは、もう敵わなかったけれど。

 「あの、不快な思いをさせてしまったようで、すみませんでした。今後は気をつけます。……失礼します」

 深く頭を下げて、踵を返す。思い出して、傍らのテーブルに置いてあったグラスを回収しようと手を伸ばした、そのときだった。
 もう片方の腕を、誰かが掴んだ。

 時間が止まる。会場のざわめきが遠くなる。去ろうとする私の腕を、後ろから引き留める人。
 どういうことだろう。そんな人は、今この場に、一人しかいないはずなのに。

 私は振り返った。視線の先には、やはり太宰さんがいた。私の腕を掴む手は、妙に力強くて熱っぽい。
 彼は、いつも涼しげなその目元をほんの少し赤く染めていた。そして呟いた。その声はごく小さく、周囲の賑やかさに吹き飛ばされてしまいそうなものなのに、やけにはっきりと私の耳まで届いた。

 「……もう少し、ここにいなよ」

 呆気に取られるとはこういうことなのだなと、私は人生で初めて、その言葉の意味を深く理解した。


 しばらく、沈黙が続いた。私の耳には、私の心臓の音だけがはっきりと響いていた。
 私達は見つめ合っていた。いや、傍から見れば睨み合っているように思われたかもしれない。どうしてか、そんな剣幕に近いものすら漂っていた。

 「……太宰さん、顔、赤いですよ」

 ようやく私が捻り出した言葉はそれだった。太宰さんは、私の目をじっと見据えたまま続ける。

 「……酔ったんだよ」
 「さっき、酔わないって言いました」
 「人は飲んだら酔うものだよ」
 「言ってること逆ですよ」

 そう言ってやると、彼はぐっと眉根を寄せた。怒らせたかな。そう感じて少し身構えたけど、続く言葉に私はただ打ち負かされるだけだった。
 赤い頬のまま、どこか不機嫌そうに太宰さんは言った。

 「それじゃ、君の所為にしようか?」

 その瞬間、今度は私の顔が真っ赤になったことだろう。そう思ったけれど、しかし今日の私はそうでなくても真っ赤だったことを思い出し、心底ほっとした。それでも、勝手に震え始める唇は押さえることができない。
 何か。何か返す言葉を探して、私がその震える唇を開きかけた、そのときだった。


 「ねえみょうじさん、まーだー!?」
 「はーいただいま!!」

 再び私を呼ぶ声がして、私は太宰さんに顔を向けたまま大音声で応えた。
 出し抜けな大声に太宰さんは耳がきーんと来たのか、咄嗟に身体が後ろへのけぞる。その拍子に、私の腕を掴んでいた左手が少しだけ緩んだ。

 その隙を私は逃さなかった。するりと拘束をすり抜けると、脱兎のごとくその場から逃げ出した。

 声のした方へ駆けつけると、やはり呼んでいたのは乱歩さんだった。ケーキのくずを口の端にくっつけて、椅子に座ったまま私を見上げる。

 「ねえ、こないだ作ってくれたクリームソーダ、また飲みたいんだけど。今作れる?」
 「あっ、はい、できますよ! 確か材料残ってるので! 見てきます!」

 ありがと〜という声を背に、私は給湯室へと向かった。つい速足になる足元を落ち着かせることもできない。
 ふわふわする。それから、ドキドキする。頭の整理がまるで追いつかない。
 熱を上げる一方の頬を、少しでも冷まそうと両手で覆う。

 この眩暈のような感覚は、酒が抜け切ってもこの先数日、消えることはないだろう。
 私はそう確信した。


 同じとき、会場の隅で一人頭を抱える太宰さんにも気づかずに。
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