文マヨから。怖くはないけど不思議系です。





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 「あれ?」

 なまえはそう声を上げ、足を止めた。隣を並んで歩いていた太宰もつられてその場に立ち止まり、なまえが顔を向ける方向を覗き込むように首を伸ばす。うだるように暑い、夏の日の午後。ほぼ天頂から真っ直ぐ照り付ける日光が、二人の影をアスファルトにじりじりと焼き付ける。

 なまえの目線は、閑静な住宅街の一角に忽然と現れた、古い神社に向けられていた。褪せた丹塗りの鳥居の向こうに、苔むした石段が十段程、なだらかに続いている。幟も何も立っていない、ただ生い茂る木々の枝葉が左右から被さるだけの、物寂しい参道だった。

 「こんなところに神社があったんだ……」

 視線を逸らさぬまま、なまえは呟いた。行き道では気が急いていたために、気づかなかったのだろうか。

 武装探偵社の事務員として勤める彼女は、本日、太宰の供として横浜郊外に位置する会社を訪問した、その帰りである。先方からの依頼を受け持ったのは調査員である太宰だが、その報告書作成にあたりいくらか作業の手伝いをした。そのため、資料説明の補助兼お目付け役として――後者は国木田からの要望だが――一緒に来るよう頼まれたのだ。
 ところが、社を出る直前になって、太宰が支度に手間取った。そのときのやきもきした気持ちを思い出し、なまえは心の中で密かにうんざりする。

 『ちょっと、太宰さん!? もう出ないと、列車乗り遅れますよ!?』
 『んん〜? ちょっと待ってね、書類が……あれ? どこにやったかな』

 とぼけた顔で書類を漁る太宰の、そのデスクの半開きになった抽斗の中に、仕事とは無関係な縄やら何やらの自殺道具が転がされているのをなまえは見逃さなかった。
 結局、予定していた列車は一、二本逃してしまったが、アポイントメントの時間にはなんとか間に合い、依頼主への報告は無事完了した。業務と暑さとで二重にへとへとになりながら元来た道を辿り、その途中でこの神社がふと目に留まったのだ。

 盛夏の蝉噪の中、物静かに佇む鳥居をしげしげと見上げるなまえに、太宰は寛げた襟元をぱたぱたとあおぎながら興味深げに問いかけた。

 「へえ。君、こういう場所に興味があるのかい?」

 なまえは首だけで振り返り、頷いた。

 「そうですね。まあ、人並みに」
 「それはそれは、若い割に渋くて良い趣味だ」

 感心したように首を頷かせる太宰に、なまえは曖昧に微笑みだけで返した。褒められているのかどうか、いまいちわからなかった。

 なまえは改めて、神社の方に目を向ける。自分の中の冒険心が、うずうずと湧き上がってくるのを感じていた。
 なまえは、夏の神社という場所が好きだった。それは、幼い頃に訪れた縁日や、夏休みの間じゅう夢中になって読みふけった児童書にも影響されているのだろう。確か、山の上のお社を守る狐の話だった。少年がその狐と出会い、社を頂く山裾の小さな町で、一夏の大冒険を繰り広げる。その物語の中で度々描かれる神社の様子がまた不思議な魅力に満ちており、こんな場所があるなら自分も行ってみたいと強く憧れたものだ。
 そういう思い出があるからか、なまえにとり、神社といえば夏にこそ訪れたくなる場所となっていた。初詣シーズンのしんと冷えた静謐な空気ももちろん良いが、夏のざわめきの中でこそ、どこか非日常の世界と繋がれる気がする。大人になった今でも、夏が来る度にそんな幼少時の憧憬が胸をくすぐる。

 「……また今度、来てみよっと」

 そう呟いて、なまえは再び現実に戻るため、止めていた歩を踏み出そうとした。頭の中のメモに、だいたいの所在地を書き置いておく。

 ところが、次に太宰が発した一言により、その足は引き留められてしまった。

 「今度と言わず、せっかくだし、寄って行こうよ」
 「……はい?」

 なまえは目を丸くし、頓狂な声を上げる。その間にも、太宰はなんとも軽い足取りで鳥居の方へと方向転換していた。

 「ちょっと、太宰さん? せっかくって……まだ仕事中ですよ!」
 「一区切りしたんだから、少しくらいいいじゃない。それに、境内は涼しそうだよ」

 呆れてその背中を見守るも、一段二段と石の階段を登り、やがて彼の姿は参道の向こうへ見えなくなった。

 なまえは途方に暮れた。どんな理由をつけたって、これは明らかなサボりだ。普段は一事務員としてデスクワークに励む彼女にとって、仕事中に横道へ逸れて散歩するなど、考えられもしないことだった。今この時間中にだって、お給金は出ているのだ。
 しかしこうなってはもう、太宰は自らの決定を曲げたりはしないだろう。彼は自由人だ。自分ごときが何を言ったって仕様がないのだから、いっそこのまま一人で帰ってしまおうか。
 そう思ったがしかし、今日のなまえは太宰のお目付け役でもあるということを思い出す。もしここで自分が役目を放棄し帰ってしまえば、今日この後、太宰は絶対に事務所へ戻ってこない。そうなれば、苦労人である国木田の血管がまた一本破裂してしまうだろう。

 かくなる上は彼の気が済むまで遊ばせて、頃合いを見計らいなんとか連れて帰るしかない。
 なまえは諦めて、一つ溜息をつきつつ、太宰を追って朱い鳥居の方へと向かった。


 太宰の言う通り、石段の上を数歩も進むと、外界とは打って変わって涼しい空気がなまえの二の腕を舐めた。参道の両脇は密集した木立で覆われ、広げた枝葉の隙間から僅かに陽光が差し込むだけで、あとは気持ちの良い木陰になっている。迫り来るような蝉の声に圧倒されながらも、一段一段、石の階段を登っていく。

 頂上へと辿り着くと、日頃の運動不足がたたってか、若干息切れを起こしていた。これしきのことでと、己が体力に情けなさを感じつつ、両膝に手をついてふうと息を整える。やがて落ち着いた頃にぐっと腰を伸ばし面を上げると、目の前には思い描いた通りの、清涼な神域の風景が広がっていた。

 「わあ……」

 覚えず、感嘆のため息が漏れる。吸い込んだ空気には、木々に囲まれた空間特有の香りが立ち込めている。

 周囲を囲む鎮守の森が開けた場所に、その神社の境内はあった。なまえの足元からは平たく大きな飛び石が敷かれた参道が伸び、正面に見える拝殿にまで続いている。その両脇には一メートル程の感覚で石灯篭が三列並び、拝殿手前で一対の狛犬に交代する。何かを威嚇するような、それでいて厳かな表情は、もうずっと昔からここを訪れる人々を見守ってきたのだろう。
 銅板葺きの拝殿の屋根は、しっかりと緑青で覆われていた。背後にも生い茂る植栽から透ける日光が、ちらちらと揺れながらその緑を照らしている。

 ざっと見渡したところ、境内にはなまえと太宰の他に人の姿はなかった。その太宰はと言うと、拝殿の脇に設けられた小さな社務所の前で、なぜかおみくじ筒を引っ繰り返し覗き込んでいる。神域でも自分の思う様振舞うところはさすがと言うべきか、呆れを通り越してなまえは感心すら覚えた。

 「……何してるんですか?」

 参道から逸れ、太宰のいる社務所の方へと足を向ける。近付きながら訝しげに声をかけると、太宰はきょとんとした顔で振り返り、筒を上下に振って見せた。

 「空のようだ」
 「それは残念でしたね」

 気のない返事をしつつ、太宰の肩越しに社務所の窓を覗き込む。中はさっぱりと片付けられてはいるが、どことなく埃っぽい空気が漂い、人の気配はなかった。留守か、それとも然程大きくはない神社であるから、常駐の管理者はいないのだろうか。

 「ちぇっ、みょうじさんに引いてもらおうと思ったのに」
 「何で私なんですか。自分で引いてくださいよ」
 「小銭持っていないもの」
 「あなた何しに神社に来たんですか……」

 唇を尖らせ筒を元の場所に戻す太宰に、なまえは痛むこめかみを抑えた。こうして二人で行動してみると、国木田の日頃の苦労が良くわかるというものだ。

 「じゃあ、お賽銭は出しますから、早くお参りだけして帰りましょう」

 腕時計を気にしつつそう訴えるも、太宰の耳には都合の悪い話は入らない。鼻歌のような相槌だけを返し、ふらふらと境内を散策し始める。

 なまえは肩をすくめ、また社務所の方に目を向けた。そのとき、ふと、その小さな建物の左脇に、細い道が続いているのを見つけた。ここからではその入口しか見えず、どうやら社務所の背中を回り込み、拝殿の裏手へと続くように思われる。

 やけにひっそりとした小径の先が、なまえは妙に気になってしまった。もしかしたら、他にも小さなお社でもあるのかもしれない。自分の目で確かめてみたくなった。
 なまえは振り返り、参道の狛犬を具に眺める太宰とその小径とを見比べた。
 どうせ、もうしばらく太宰の休憩は続くのだろう。自分はそれをそわそわしながら見守るだけというのも、損な話だ。
 なまえはそっと足を踏み出す。下草が足首を掠めるその道を、一人奥へと進んで行った。


 道は思った通り、拝殿の裏手の方へ続いていた。右手を山茶花の生垣に、左手を鎮守の森から張り出した低木に囲まれ、先の見通しが悪い。それでも恐る恐る歩を進めていくと、途中で左方向に折れ曲がった。まだ続くのかと意外に思い、その先をまた数歩進む。しかしそこで突然視界は開け、なまえはあっと息を呑んだ。

 小径の終点は、その奥に小さな池のある広場へと繋がっていた。丸く切り開かれた土の地面に陽光が射し、まばらに生えた丈の低い雑草を力なく萎れさせている。池の水面は凪いで、波紋一つ立たない。日に照らされても尚水の色は暗く濃く、どの程度の深さなのか、生き物が棲むのかどうか、何もわからなかった。小さな神社の裏手にこんな空間が隠れているとは、外から見た様子では全く予想もできないことだった。

 しかし、なまえを一番に驚かせたのはそこではない。彼女の目線は、池の畔にある一角に集中していた。
 そこには、天狗が立っていた。正確に言うと、天狗のような生き物を模した木彫りの像だ。
 土台となるのは、一抱え程もある、伐り出したままの樹木。地面に突き立てられたそれはなまえの背丈とそれ程変わらず、その上部に大きな翼を持った異形の人物の胸像が象られている。
 いったいどのくらいの年月を、この場所で過ごしてきたのだろうか。風雨に曝され、元は樹木であるはずの表面は石のような灰色と化し、その上を細かな苔が暗い緑で覆っている。

 なまえは束の間、その像に見入っていた。仕事のことも太宰のことも忘れ、周囲を囲む木立から降り注ぐ蝉の声さえ、どこか遠くへ引いていくような心地がした。


 「みょうじさん?」

 不意に人の声が聞こえ、なまえは反射的に肩をびくつかせた。
 振り返ると、いつの間にここへやって来たのだろうか、太宰が目を丸くしてこちらを見下ろしている。

 「あ……太宰さん」
 「探したよ。急に一人でいなくなってしまうんだから」

 置いていかれたのかと思った。そう言って唇をへの字に曲げる太宰に、なまえは一瞬うろたえ、素直に一言謝罪した。どうしてか、まだ頭の中がぼうっとしていた。
 そんななまえの様子に太宰は軽く首を傾げたが、そのとき初めてなまえの背後にある天狗の像に気づいたらしく、ふと驚きの声を上げた。

 「おお。これはまた、タイムリーな代物だね」
 「タイムリー?」

 何の話を言っているのかわからず、なまえは太宰の言葉に疑問符をつけて返す。すると太宰は「いや、ね」と前置いて言った。

 「実は先日、調査員の間で、夏だし怪談話でもしようということになってねえ。それで私もネタを仕入れがてら、いくらか妖怪変化の類について勉強してみたのだよ。その中でも天狗の話が面白くて、印象に残っていたんだ」
 「へえ……そんなことが」

 なまえは、何だか面白そうなことをやっているなと、ぼんやり思った。
 なまえのデスクがある事務室と主に調査員達が使う事務室は、同じ建物内でも部屋が分かれている。そのため、調査員内で普段どのような雑談が交わされているのか、なまえが直接知る機会はあまり多くない。
 そんな面白そうなことをするなら、事務員も誘ってくれればいいのに、と一瞬仲間外れにされたような不満も覚えたが、しかしすぐ後にその考えは改めた。単に怪談話と言っても、あの個性際立つ探偵社員達が集めてくる話だ。仕事柄、巷間の噂話を耳にする機会も多かろうし、常人では処理し切れぬ事件に関わることもあるだろう。そんな人達が選りすぐった奇譚など、正にその常人であるところの自分が最後まで聴いていられるだろうか。なまえは胸の内で静かに頭を振った。

 しかし、太宰の選んだ話題は意外にも古典的だった。霊的で生々しい話はともかく、妖怪など、時にはコミカルにも描かれる存在についてなら、なまえもいくらか興味がある。
 なまえは、再び木彫りの像へ目を向けた。

 「これってやっぱり、天狗なんですよね」
 「そうだと思うよ。嘴がついているようだから、烏天狗かな」

 天狗にも種類があると、なまえはそのとき初めて知った。確かに目の前で佇む像は、人の形をした顔の、その鼻から先が鋭い嘴に変わっている。

 「……天狗のお話って、どんなものがあるんですか?」

 なまえは続けて問いかけた。

 「そうだねえ。時代や地域によっていろいろだね。まあ、多くは山の怪異を天狗の仕業として伝えた話かな。夜の山道でどこからともなく笑い声が聞こえたり、人の姿はないのにそこここで明かりが灯ったり、風のない日に樹木や山小屋が揺すぶられたり。そう言った、人智では説明のつかない現象を天狗の仕業とすることが多かったそうだよ」
 「なるほど……。それは確かに不思議な話ですね」
 「あとは、人が忽然と消えてしまうこととか」
 「人が……神隠しってやつですか?」

 なまえの問に、太宰は軽く頷いた。

 「そ。まあ、昔の話だからね。山に限らず、里でも人攫いが横行することはあっただろう。特に、子供が突然いなくなる現象を天狗攫いと呼んだそうだ」
 「子供ですか」
 「何でも、天狗ってのは教えたがりな一面があったようでね。子供を連れ去って、お山の上で自らの術を教授してやるんだってさ。それからまた元の場所に返すんだ」
 「それはなんだか、面白い話ですね」
 「だよねえ。魔道に通じて、時には神として崇められることもあるっていうのに、妙に人間臭い一面があるというか。私だったら先生の真似事なんて面倒くさいことはしないな。それに、どうせ攫ってしまうなら心中してくれそうな美女がいい」

 なんとも彼らしい感想に、なまえは思わず笑ってしまった。

 「あはは……でも、太宰さんみたいな天狗なら、騙されて攫われる女性もいるかもしれませんね」

 冗談のつもりでそう返したが、その言葉を聞いた太宰は、ふと黙ってなまえを見返した。

 その様子に、なまえは心の中でしまった、と思う。暗に、顔だけは佳いのだからと、揶揄しているように思われてしまったかもしれない。それで概ね間違いではないのだが、特別な仲でもない、一同僚に向ける言葉としては些か失礼が過ぎただろうか。
 なまえは謝ろうとして、言葉を探した。

 「ええっと、その、太宰さん。すみませ……」
 「ふうん」

 しかしそれより先に、黙っていた太宰がふと口を開いた。

 「それじゃ、君も私に攫われてくれる?」

 その言葉に、なまえは一瞬呆気に取られた。しかしすぐに、心配して損した気分と、少しばかり安堵する気持ちとが同時に湧いてきた。
 どうやら太宰はなまえの発言に、それ程気分を害したわけでもなさそうだ。また冗談のような問で返され、なまえは今度こそ呆れた気分で太宰を見上げた。

 「太宰さん……同僚にそういうことはあんまり……」

 そこまで言いかけて、しかしはたと口を噤んだ。

 なまえは何か、目の前でこちらを見つめる太宰に違和感のようなものを覚えた。すぐにはその正体がわからず、目を凝らすようにしてその顔を見返す。そして気づいた。
 自分を見つめる太宰の目。彼の瞳の色は、こんなに赤みがかった色をしていただろうか。
 なまえの記憶にある太宰は、その髪色によく似合った、深く穏やかな鳶色の目をしている。光の加減で多少茶けて見えることもあるが、赤く見えたことは一度もない。夕陽の色を受けたりしたならばそれもあるかもしれないが、今は太陽も天高く輝く昼日中だ。そんな明るい空の下で、彼の虹彩がこんなにも、暗く赤く閃くことなどあるのだろうか。

 そのとき、突然の風が、二人のいる広場に吹き降ろした。
 空を切る高い音を立て、地面に散らばる小石や枯草が巻き上げられていく。

 「わっ……何、急に風が、強……」

 足元を掬われそうな強風に、なまえは思わず身を縮めて顔を俯けた。細かな石が吹き飛ばされついでにふくらはぎを叩き、その微かな痛みに顔を顰める。
 つい先ほどまで、雲も流れず蒸し暑いばかりの上天気だったというのに。出勤前にテレビで確認した予報でも、午後から風が強まるなどということは言わなかった。

 よろけそうになるのを必死で耐えるなまえをよそに、太宰はただそこに立っていた。
 揺れる蓬髪の隙間から天に目を向け、呟く。

 「天狗風だね。君を気に入って、迎えにきたのかも」

 その平坦な声音に、なまえはなぜだかぞっとした。

 「ちょっと、変なこと言わないで――」

 風から守るため薄目になっていた瞳を開き、抗議しようと顔を上げる。そのとき、気づいた。
 足元に黒く並ぶ影。一つはもちろん、なまえのものだ。風に耐える自分の姿をそのまま写し、足の裏から地面に短く伸びている。
 その隣に佇む影法師に、なまえの目線は釘で打たれたように動かなくなった。
 それは、太宰の影であるはずだった。彼の足元から伸びているのだから当然だ。背丈の分だけなまえのものより長く、先の地面にまで続いている。
 しかしその中程から、おかしなものの影が突き出ていた。人にはあるはずのないもの。風を切り、大空を駆ることを許された生き物にだけ与えられたもの。
 翼だった。人であるはずの太宰の影から、怪鳥のごとき大きな両翼が生えていた。

 それはきっと、背後にある天狗の像が被さっただけのものだっただろう。彼の影が光の直線上で太宰と並び、あたかも二つの影が一体となって地に映し出されただけのことだ。
 頭の片隅ではそう理解していても、なまえの体は凍り付いたように動かなかった。
 紅い瞳。耳に吹き付ける強い風。黒く大きな翼の影。
 その影が不意に、ゆらりと蠢いて見えた。生え揃う羽根の先が人の手指のように目一杯広がり、なまえの影にそろりと触れる。

 木立の向こうの暗がりで、鋭い羽ばたきの音が聞こえた。


 なまえはハッと顔を背けた。

 「っ、帰りましょう」

 短く一言そう言うと、踵を返して広場の出口へと足を向ける。

 「えっ、もう? まだお参りもしていないじゃないか」

 呼び止める太宰の言葉には返事もせず、元来た道を大股で、ほとんど走るような速さで引き返していく。
 小径を抜け、境内に戻り、拝殿に背を向け石段を駆け下りた。

 最後の一段から足を下ろした瞬間、けたたましいベルの音が鳴り響いた。
 間髪入れず、その場で足を止めたなまえの目の前を、向かって左手からやって来た自転車が猛然としたスピードで横切って行った。なまえは驚き、反応が遅れ、一二歩ふらつきながら後退した。
 その肩を支える手があった。

 「おっと……危ないなあ。ちゃんと前を見て歩き給えよ」
 「あ……」

 振り返ると、太宰がいた。
 両手をなまえの肩に置き、こちらを見下ろしている。
 静かに瞬きするその瞳は、いつもと変わらぬ穏やかな鳶色だった。

 「仕方がないなあ。大方、国木田君あたりから頼まれているんだろう? 帰ろうか」

 そう言うと、降参するようにパッと両手を上げる。それをそのまま、つまらなそうに頭の後ろにやり、ぼつぼつと駅の方へ向かい歩き出した。
 その背中を、なまえはしばしの間呆然と見つめていた。

 「? どうしかした?」

 そんななまえを不審に思ってか、少し行ったところで、振り返り声をかける。
 その足元から伸びる影には当然、翼など生えてはいなかった。

 「あ……すみません、今、行きます」

 なまえは応えて、鳥居から離れ元来た道を歩き出した。
 眩暈を催すような陽光が、二人の背中を陽炎の中に揺らめかせていた。


 *

 その晩、天狗の姿をした太宰に追い回される夢にうなされたなまえは、それから数日の間、彼と目を合わせることもできなかった。
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