ポートマフィア五大幹部が一人、中原中也は、近頃人知れず悩んでいた。己の部下への接し方についてである。部下、と言っても、百人単位で抱える大勢の部下全員を指しているわけではない。ある特定の人物が、暇さえあれば中也の思考の大半を占めていた。
 その人物は、今まさに中也のデスクの前で、此度の任務の成果報告を読み上げている。
 みょうじなまえ。中也が率いる部隊の中でも、直属の班に所属する、唯一の女性構成員だ。

 つい先日のこと。中也は、ある男性構成員とふざけあって肩を組むなまえを、衝動に任せて引っぺがした。
 驚いた。唐突に割って入られ引きはがされた二人はもちろんのこと、中也自身も自分の行動に心底面食らった。
 腕を取られたままぽかんとして自分を見つめるなまえに、苦し紛れながらも思い出した彼女の残務を言いつけその場はなんとかしのいだが、以来、中也は己の心中に思い悩んでいる。


 なまえは、ちょうど二年程前に紅葉から中也へとその教育を任された人物だ。当時なまえは一八歳、中也より二つ年下で、中也が初めて受け持った女の部下だった。
 大恩ある紅葉から任されたのだ、女であろうと甘やかすつもりは毛頭なかった。ただ、心のどこかでは、若い身空で裏社会に足を踏み入れることとなったなまえに同情する部分もあった。
 一度入れば滅多なことでは引き返せないのがこの世界の鉄則。ならばせめてこれからの人生を女の身でもいっぱしにやっていけるよう、中也はなまえの教育に力を注いだ。
 なまえは中也の教えを受け、すぐにその頭角を表した。任務に赴き、実績を積むにつれ、周囲の構成員達もなまえの実力と存在を認めるようになった。引き受けた当初は中也の他に頼る者もなく、どこか心許ない様子もあったなまえが、いまや組織の一員としてとけこんでいる。その姿を見るに、中也は一抹の寂しさを覚えることもあったが、これが親心というものだろうと、どこか無理矢理に自分を納得させていた節があった。

 それが先に述べた事件によって、単なる誤魔化しであったと自らの内で発覚したのである。
 あの瞬間、中也の手を動かしたのは寂しさなどではなく、明らかな嫉妬心と独占欲だった。
 自分はなまえに、あろうことか自ら教え育て上げた部下に、恋慕の情を抱いている。その事実が、多大なる羞恥心と少なからぬ後ろめたさをもって、中也を攻め苛んでいた。

 そしてここでもう一つ、中也はあることに気がついた。それが冒頭で述べた、なまえへの接し方についてだ。今まではあくまで教え子として、なまえが功を上げれば肩を叩いて褒めたり、気軽にサシで食事に連れて行ったりなどもしていた。
 しかし、自分に下心があると自覚しながらそのようにすれば、それは所謂セクハラというものに当たるのではないか?
 自分のそういった行動に接して、過去なまえが嫌がるような素振りは見られなかった。しかし、上司と部下という関係は、特に上司が思う以上に繊細で難しいものだ。もしもなまえが態度には出さないだけで、本心ではいつまでも過干渉な自分を煩わしく思っていたら。これは下手をすれば立派なセクハラ案件として成り立つ。ハラスメントか否かは基本的に受け手が決めるものだと、何かの情報で読んだ気がする。

 なまえに接する際の態度を見直さなければ。目下そのことが、中也の中で最も重要な論点となっていた。


 「――このことについてですが……中也さん? 聞いてます?」
 「……あ? 応、聞いてる。続けろ」
 「……そうですか。では……」

 少し訝しげな表情を見せたが、なまえはすぐ切り替えて報告を続けた。危ない、と中也は思う。
 報告はもちろん聞いていた。伊達に幹部をやっていないのだ、余所事を考えながらでも部下の話くらい頭には入ってくる。しかし、それが顔に出ていたとなると問題だ。なまえにだけは悟られてはならない。
 中也は改めて、手元の資料に目を落とした。よくまとめられている。報告の内容にも一切無駄がない。たったの二年でよくぞここまで成長したと思う。任務の経過も上々なようで、今回も特段言うことはなかった。

 「私からの報告は以上です」

 なまえが資料から目を上げて、そう締めくくった。中也は頷き返すと、席を立つ。この後首領へ内容を上達し、件の任務は一応の区切りとなる。
 よくやった。すれ違いざまにそうなまえの頭を撫でようとして、中也はまたハッとする。そういうところを見直そうと、つい今しがたまで考えていたというのに。
 中也は浮かせかけた片手で意味もなく帽子の位置を直し、なまえに言った。

 「そういや、今夜打ち上げらしいぞ。いつもんとこだ。お前も来れそうなら来い」
 「そうですか、わかりました。……」

 頷くなまえを確認して、中也は執務室を後にした。
 その後ろ姿をどこか物憂げな目つきで見送るなまえには、当然、気づくことはなかった。


 *


 その日の晩、予定どおり中也とその近しい部下たち十人程で打ち上げが開催された。此度の任務の区切りと日頃の労をねぎらうという名目ではあるが、店も面子も変わらない、定例会のようなものである。
 当然、そこにはなまえの姿もあった。日中様子を窺ったときには任務後の処理がまだいくらか残っているようだったが、なんとか切り上げて参加したようだ。今は中也から少し離れた向かいの席で、同僚と楽しげに酒を酌み交わしている。
 そんななまえの様子を、中也はお冷を口に当てながらぼんやりと眺めていた。この面子で集まるときは酒を控える。いつだったか部下に泣きつかれ、中也もまた記憶は朧気ながら散々な有様を晒した気がしたために、取り決めたルールだ。飲めないのはもちろん口惜しいが、後のことを考えれば多少の我慢はきく。それに、この瞬間を生きて笑いあう部下たちの姿を素面で眺めるのも、悪くはない時間だと中也は思っている。

 「あっ、おねえさん生二つ! あと、こっちにも梅酒ロックで!」

 通りがかった店員を呼び止め、なまえが元気よく追加の注文をする声がした。隣に座った同僚が若干戸惑いぎみに何か声をかけるが、なまえは笑って手をひらひらと振っている。夜が更けるにつれて店内は騒がしく、少し席を離れているだけで賑やかな笑い声が会話をかき消してしまう。
 何をこそこそと話しているんだか。胸につっかえる塊を押し込むように、中也は焼き鳥の串にかじりついた。


 数人の部下たちと先に店を出ると、湿気を含んだ初夏の夜気が中也の体を包んだ。月が出ているのだろうか。街のネオンの向こうに見える空は明るく、雲の塊が千切れては集まりながら流れていく。明日は降るかもしれない。そう思って店先に目を移すと、他の部下たちも一人また一人と店の暖簾をくぐって外に出てくる。支払いは幹事に預けて、後はとりあえずお開きの合図を待つだけだ。
 部下たちが談笑するのを聞きながらしばらくそうしているも、最後の二人、幹事となまえだけがなかなか姿を現さなかった。中也は眉を顰める。

 「遅えな」

 その呟きに、隣に立っていた部下も頷いた。

 「そうですね。何やってんだか。俺、見てきます」
 「いや、いい」

 戻ろうとする部下を制して、中也は自ら店の戸を引き開けた。会計の前を通り過ぎ、先ほどまで集まっていた奥の座敷に向けて一直線に歩いていく。

 「オイ、どうした」

 座敷を覗き込むと、幹事を任されていた部下が慌てた様子で顔を上げた。

 「あっ、すいません中也さん! どうもみょうじが飲み過ぎたようで……全然動こうとしねえんです」

 見ると、散らかった卓にへばりつくように、なまえが突っ伏している。黒いタイツに包まれた脚を横向きに投げ出して、右手は未練がましくジョッキに添えられたままだ。
 中也は痛むこめかみを抑えた。

 「オイ、なまえ。起きろ」

 適当に靴を脱ぎ捨て座敷に上がると、なまえの肩を揺する。右手がビクリと動いた。

 「んう……? 中也さん」

 意識はある。完全に潰れたわけではなさそうで、中也は胸を撫でおろした。

 「あれ? みんなは? あ、二軒目? いきます?」
 「いや、お前はやめとけって。なに中也さんに迷惑かけてんだよ」

 呆れた様子で、部下が背中から声をかける。なまえは目をこすりこすり体を起こした。その拍子に肩からジャケットがずり落ち、白いシャツの地が露になる。

 「すいません、中也さん。払いは済ませてあるんですけど……こいつ、送っていきますわ」

 ため息まじりに荷物を拾い集める部下を振り返り、中也は言った。

 「いや、俺が送ってく」
 「え? や、でも、中也さんにそんな迷惑は……」

 戸惑う部下に、中也は財布から取り出した札を数枚握らせた。

 「心配すんな。手前らはこれで飲み直してこい」

 握らされた札と中也を交互に見比べて、しばらく部下はきょとんとしていた。
 しかし、やがてその顔をパッと明るくすると、

 「ありがとうございます! おーいお前ら、二軒目は中也さんの奢りだー!」

 そう言って嬉々として店を出ていった。
 いや、手前も実はけっこう酔ってるだろうと中也は胸中でツッコミを入れる。
 しかしまあ、これで良かった。下手に食い下がられていたらどう言い訳を並べようか、内心で肝を冷やしていたのだ。

 「中也さん、つぎ、どこ行きます?」

 体をふにゃりと傾けて、赤い顔のなまえが笑う。こんな状態のなまえを、他の男に任せてたまるか。

 「……行かねえよ、この莫迦」

 言いながら、ずり落ちたなまえのジャケットの肩を、ぎゅっと引っ張り正してやった。


  *


 なまえの足取りは覚束ないものの、一人で歩けないほどではなかった。店を後にし、他にも飲み屋が軒を連ねる通りを二人で歩いていく。
 此処からなまえの自宅までは、歩いて行けない距離ではなかった。酔いを醒ますにはちょうどいいだろうと、中也はあえてタクシーを拾わずに道を行った。途中、自動販売機でミネラルウォーターのボトルを買ってやる。なまえはそれを嬉しそうに受け取ると、額や頬にぺたぺたと当てながら鼻歌まじりに歩いた。その少し後ろを、いや飲めよと声をかけながら中也が行く。
 なまえは上機嫌だった。少し様子がおかしいくらいによく喋り、よく笑った。酒が入ればこんなものかとも思うが、それにしてもなまえはこんな酔い方をする女だったろうか。宴の最中、中也は努めてそちらに目を向けないようにしていた。そのためどのくらい飲んだのかは定かでないが、こうなるならば今後はもう少し目を光らせていた方がいいのだろうかとも思う。

 「中也さん、元気ですかー?」
 「元気だけど、訊いてどうすんだよ」

 今にもスキップし始めそうな背中に違和感を覚えつつ、中也はなまえのアパートに向かって歩を進めた。


 店が並ぶ通りを抜け、人もまばらな住宅街へと入り、やがてなまえの住むアパートの前に辿り着いた。見慣れた風景になまえは目をぱちぱちすると、「着いちゃった」と小さく零した。

 「じゃあな。その水ちゃんと飲んどけよ」
 「あ、待って」

 早々に立ち去ろうとする中也をなまえの手が引き留めた。コートの裾を掴まれ、中也は仕方なく足を止める。

 「何だよ」
 「上がっていきません?」

 今夜の中也にとっては、まさしく爆弾発言だった。しばらくは言葉もなく狼狽えていたが、やがて思考を取り戻しため息をつく。

 「いかねえよ。お前べろべろじゃねえか。明日も仕事あんだから、もう寝ろ」
 「何でですか。前、お茶してってくれたじゃないですか」
 「あン時はあン時、今日は今日だ。わかった、ここで見ててやるから。さっさと部屋入れ」

 そう言って促すと、なまえは先程までの様子とは打って変わって、あからさまに不服な表情を見せた。
 何なんだ、と思う。もともと感情表現は豊かな方だが、こんなに子どもっぽく駄々をこねるなまえを見るのは初めてだった。
 少ししても動く気配がないので、中也は再度顎で促した。やがてなまえは唇をとがらせたまま、するりと中也のコートを掴んでいた手を離した。
 どこか浮かない足取りでアパートの外階段を上るなまえを、中也は黙って見守っていた。パンプスの踵が固い音を立てて、一段、二段と上がっていき、中程まで来たところだった。

 「ぎゃっ」

 潰れた悲鳴を上げて、なまえは階段の途中ですっ転んだ。
 慌てて中也が駆け寄る。ぐずぐずと鼻を鳴らしながら突っ伏すなまえをひっくり返すと、タイツの脛の部分が破け、うっすらと赤くなった肌が覗いていた。大した怪我ではなさそうだ。

 「うう……痛いぃ……」
 「仕様がねえな……ホラ、立て」

 一人で歩けていたとはいえ、支えもなしに階段を上らせた自分にも非はある。中也は尚もぐずるなまえに肩を貸すと、残りの階段を上り始めた。
 それ程大きくもないアパートだ。階段を上がって、その先に四つの扉が並び、一番奥の角部屋がなまえの部屋だった。なまえの片腕を肩にかついだまま、廊下を歩く途中で中也がぼやく。

 「ったく、これじゃ傍から見りゃ送り狼だ……」

 そのぼやきを、なまえは潤んだ目をしばたたかせて聞いていた。ドアの前には、すぐ辿り着いた。

 「じゃあな。ほんとにもう寝ろよ」

 肩を離し、念を押すように中也が言う。その目を見つめ返して、なまえがふと口を開いた。

 「……送り狼でも、なんでもいいです」
 「……は?」

 聞き間違いかと、中也は目を見開く。
 しかし、そんな中也から視線を逸らさず、なまえははっきりとした声で言った。

 「中也さんなら、何でもいいです」


 その言葉の後に、いくらか間があっただろうか。よく覚えてはいないが、気づけば二人はなまえの部屋になだれ込んでいた。
 なまえの体を壁に押し付け、唇を塞ぐ。その拍子にずれた中也の帽子が、軽い音を立てて玄関先に落ちた。

 「ん、あ……中也さん、帽子」

 キスの合間に、なまえが訴える。

 「いい」
 「でも……」
 「いいから。集中しろ」

 中也がこの帽子を特別大切に扱っていることを、知っているからこその気遣いだ。中也にはその姿がなんともいじらしく、しかし今ばかりは煩わしくも思えた。
 口づけながら、片手でなまえの襟元をくつろげる。頬、耳、首筋へと唇を滑らせ、シャツの襟でぎりぎり隠れるところに強く吸い付いた。

 「ひゃ、ぁっ……」

 なまえが高い声を上げ、肩を震わせた。
 首筋が弱いのか。吸い上げた部分にまた舌を這わせ、気を良くする中也だったが、ふとその肩をなまえが弱々しく押し返した。

 「……どうした?」

 まさか、ここに来て怖気づいてしまったのだろうか。内心で慄きながら、中也は努めて静かな声でなまえの顔を覗き込んだ。
 なまえは濡れた唇をはくはくさせながら目線を泳がせていたが、やがて意を決したように、中也の服の裾を握りしめ言った。

 「あ、あの。うち、けっこう壁薄くて、声とか……響いたら、あれなんで」

 玄関先は暗かった。しかし、奥の部屋から差し込むわずかな窓明かりが、なまえの潤む瞳をきらめかせる。

 「その……お手柔らかに、お願いします……」

 羞恥心の反動か、なまえは今にも泣きそうな目をしながら、へにゃりと笑った。

 死ぬほど啼かせて、死ぬほど大事にする。
 中也は固く心に誓った。
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