家に辿り着くと、私の帰りが遅いことを心配した両親がやはり待ち構えていた。
 玄関先で問い詰められ、道々考えていた適当な理由をでっち上げる。遅くなったのは文化祭の準備に夢中になっていたため。服を着替えているのは、作業中汚れてしまったものを友人宅で取り替えてもらったため。靴まで替わっているのはさすがに不自然に思われそうだったので、見咎められる前に靴箱の下へ押し込んで隠した。
 玄関を抜け部屋へと続く階段を上がる私に、母は尚も小言を投げつけた。

 「全く、心配したのよ……大学の近くで火事もあったっていうし」
 「……ああ、うん」

 心臓が、嫌な感じに音を立てた。それに気づかれぬよう、疲れてあまり興味を持てないふうに装う。

 「ごめん、眠いから。今日はもう寝るわ」

 そう残して、私は階段を上り切った。引き留めようとする母の声を無視して、部屋の扉を閉める。

 真っ暗な部屋の中で、しばらく立ち尽くす。やがて扉に背をもたせ、ずるずるとその場に座り込んだ。先ほどまでの出来事の、その映像が、頭の中でとりとめもなく繰り返されている。
 転弧先輩。
 私は傍らに投げ出したトートバッグから、スマホを取り出した。電源ボタンを押すと、青白い光が手元を照らす。

 けれどもそれ以上、何もできなかった。無操作を判断した端末は徐々にその光を落とし、部屋は再び沈黙と暗がりの中に沈んだ。
 私はほとんど一晩中、そこから動けずにいた。

 *

 翌日、公園で起きた火災はメディアでも大きく取り上げられた。火の回りは相当な勢いだったようで、消防とヒーロー連携の元なんとか消し止められたが、広い公園一帯が無残な焼け野原と化した。
 鎮火後に行われた現場検証は難航。火の様相から個性による放火と断定されたものの、ほとんど全ての設備が焼失してしまったため、火元の特定にはなかなか至らない。犯人も動機も不明。それでも、死傷者がなかったことだけは不幸中の幸いだと、街の人々は慰め合った。

 事件を受け、大学では二日後に迫った文化祭を延期とした。周辺地域に警察やマスコミが押し寄せ、行事どころの騒ぎではなくなったからだ。
 私は火災の翌日、一日だけ講義をさぼった。その次からは、いつもどおりに通った。火災現場の横を過ぎる度に胸苦しい思いに駆られたが、それを措いても転弧先輩の様子が気になっていた。

 しかし先輩は、しばらく大学に姿を見せなかった。


 それから数日は、何事もなく過ぎていった。火災の方は捜査に進展がないのか、発生から二日ほどで報道も途絶えた。世間の関心は、またどこか別のところで新たに生み出される事件へと目移りしていく。

 学内で先輩の姿を見かけることは、やはりなかった。ゼミはもちろん、講義にもサークルにも顔を出していないらしい。
 仕方ないことだと思う。私もあれからというもの、ふとした瞬間、今目の前の日常が本当に現実のものなのか、信じられず不安に駆られるときがある。できることなら、どこか誰もいないところに身を隠してしまいたい。けれども、今日こそは転弧先輩も来ているかもしれない、会えるかもしれない。そんな期待を捨てられず、私は重い心をひた隠したまま、大学に通い続けていた。


 そんなある日の、講義中のことだった。
 その講義は学部を問わず履修できる共通科目で、学内でも一等広い講義室を使って毎週木曜の午後に行われる。受け持つ先生は、教え方が上手いと学生からの人気も高い。それ故か毎年受講生は多く、ほとんどいつも満席だった。
 講義室には、教壇から最後部席へかけて、その左右両端と中央に階段状の通路が続いている。そのうち右端の通路を上がり、私は後方の空いている席へ腰かけた。鞄からペンやノートを取り出し、賑わう室内を改めて見回す。
 転弧先輩も受講していたはず。それでもやはり、数多見える学生の中に、先輩の姿を見つけることはできなかった。

 やがて友達が傍へやって来て、他愛ない話を交わすうちに講義が始まった。説明の合間に挟まれる先生のジョークに、学生達の間では度々さざめくような笑いが起きる。それを無感動に聞き流しながら、私はただぼんやりと時間が過ぎるのだけを感じていた。
 板書をするため、先生が黒板へと向かった。文字を書きつける小気味いい音、それを追ってノートを取り始める学生達。一瞬間、部屋の内は真剣な静寂で満たされる。

 そこに小さな穴を開けるように、背後から私の耳に届く声があった。

 「ねえこれ、見て」

 押し殺したような囁き。後方の席に座る学生が、その隣に座る友人へ向け何事か話しかけているようだ。
 講義に使われる部屋が広いと、こういうお喋りは良くある。何も珍しいことはない。私は遅れてノートを取ろうと、緩慢な動作でペンを持ち上げる。
 けれどもその手は、続いて聞こえた囁きによって凍り付いてしまった。

 「こないだの火事の続報。死体が見つかったんだって」

 心臓が軋む。肺が呼吸を忘れる。一拍置いて、私はてのひらに嫌な汗が滲むのを感じた。
 また別の学生の声が聞こえた。振り向くこともできないので想像するだけだが、恐らく最初の声の人とスマホの画面を共有しているのだろう。

 「えっ、まじで。ただの放火じゃなかったの? ……うわ、しかもバラバラ?」
 「うん、なんか川で見つかったらしいよ。ほら、あそこ水路作ってあったじゃん。あそこから繋がってる川の方で上がったんだってさ。なんかほとんど肉片? だったらしいけど、ちょっと燃えた痕があったからわかったって」
 「こっわー。てことは何? 殺人隠すのに火ぃつけたかもってこと?」

 ドラマみたいだね。冗談交じりの感想が、頭の中で変に反響して消えた。


 「……ごめん、ちょっと用事思い出したから。出るね」

 隣に座る友人に向け言いながら、私は机上を片付けた。ペンケースとノートを乱雑に鞄に押し込み、席を立つ。背後から、友人の困惑した声が追いかける。

 「えっ、ちょっとなまえ?」

 私は振り返らずに歩いた。通路を数段上り、講義室の後部出入口を押し開いて外に出る。

 扉のすぐ外には階段がある。数段のそこを下り切ると、目の前には棟と棟を繋ぐ狭い通路が続いている。私はそこで足を止め、立ち尽くす。天頂から傾き始めた日差しが、風景のいたるところに長い影を作っていた。俯けた視界は、極彩色に明滅しながらぐるぐると渦を巻くようだった。込み上げる眩暈と吐き気。私は回らない思考を必死で鞭打った。

 どうして? どうして死体が見つかったの? あのとき確かに、あれは燃やされた。尋常ならざる高熱の炎で、私達がその場に留まっている間にもほとんど消し炭のようになっていた。あの青年は言った。骨も残らないと。その通りになったと思っていたのに。嘘をつかれたのだろうか。わからない。わからないけれど。

 私は重い足を踏み出した。一歩、二歩、進めるごとに焦燥は増し、やがて走り出していた。
 走りながら、スマホを鞄から取り出す。揺れる視界にも構わず操作をし、通話のアイコンをタップする。
 お願い、出て。祈るような思いで、私は駅に向かう道を走った。

 *

 転弧は自宅の、部屋の中にいた。扉も窓も、カーテンすら閉め切ってある。遮光性の高い分厚い布の隙間から、僅か漏れ来る外の光だけが室内に一筋の道を作っていた。

 転弧はベッドの縁に腰かけ、自分のてのひらを眺めていた。ここ最近、気づけばいつもそうしている。どこにも行かず、何もせず。石のように身動ぎ一つなく、ただ黙ってあのときのことを思い返す。

 人を殺した。動揺のあまり嘔吐した。幼い頃の記憶が蘇り、頭にこだまする父の声に我を失った。
 きっとこの後、経験したこともないような恐慌がこの身を襲うだろうと、そのときの転弧は想像した。

 けれどもそれは来なかった。あれから数日、転弧の心は嘘のように静まり返っている。後悔も自責の念も何もない。ただあるがまま、人を殺したという事実だけが道端の石ころのように転がっている。淡々として無感動な心持だった。
 どうして自分がそうなのか、その理由をはっきりと言語化することはできない。けれども何となく、そうすることにあまり意味はないような気がしていた。それは然したる問題ではないというふうにも感じた。

 そんなことよりも、一つ気がかりなことがあった。
 死体の映像に被さって思い出される、青い炎。肌に叩きつけるような炎熱。それと同じ色をしているにもかかわらず、底知れない冷たさを持ったあの目。あの目を思い出す度に、気持ちがざわつき胸が悪くなる。
 あのとき奴は、何を考えていたのか。しかし改めてそれを問う術はない。
 もどかしさに、転弧はぎゅっとてのひらを握り込んだ。


 そのとき、階下で物音がした。玄関を開閉する音だった。
 志村家の邸宅は広い。造りもしっかりとしているため、一階の物音が二階にまで響くことはあまりない。それでもはっきり聞こえたということは、余程乱暴な動作でそれが行われたということだ。

 父だ、と転弧は直感した。この家で、そんなことをする人物と言えば他に思い当たらない。仕事に出ていたはずの父が帰ってきたのだろう。
 次いで、何か言い合うような声が聞こえてきた。その声はやはり父と、それから母だった。だんだんこちらへ向かって近づいてくる。

 大学へ行っていないことがばれたのだろうか。転弧はそう思った。転弧がしばらく外に出ていないことを、仕事で外出することの多い父は知らない。
 専業主婦である母はもちろん承知していたが、彼女は何かにつけ転弧に気を遣う。転弧が理由を言わない限り、父に告げ口することはないだろうと踏んでいたが。

 転弧はベッドから腰を上げた。暗い室内の真ん中で、扉の方にじっと目を向ける。父の声が、明確な言語となって耳に聞こえ始めた。

 「転弧、いるのか!?」

 扉が開けられた。廊下から流れ込んだ光が目を刺す。
 数度の瞬きの後、視界に映った父の顔は蒼白だった。目を見開き眉間に皺を寄せ、怒りとも絶望ともつかない感情に口元を歪めている。

 「転弧、お前……」

 喘ぐように声を発して、しかしそこで一度、言葉は途切れた。父を追いかけてきた母の戸惑った顔が、その背の向こうから覗く。全ての動きが緩慢に見えて、まるで現実味のない瞬間だった。
 父の口が開いた。

 「個性を……使ったのか……!?」

 *

 西の空から、暗い雲が垂れ込め始めていた。気象情報では夜から雨という予想だったが、それより早く降り出しそうな空模様に焦る気持ちが重なる。
 もう何度鳴らしたかも覚えていないコール音が、不意に途切れた。

 「転弧先輩!?」

 立ち止まり、耳に押し当てた端末の向こうへ呼びかける。電話口からは、沈黙が流れ出ていた。けれども、その後ろに微かに混じる環境音が通話の継続を伝えている。

 「先輩、今どこにいるの? ニュースは……」

 問いかけた言葉は、しかし低く震えた呟きによって遮られた。

 「家……壊しちまった」
 「え……?」

 咄嗟には意味がわからず、私は疑問の声を上げる。しかしそれも聞こえていないかのように、転弧先輩はうわ言みたく続けた。

 「あのこと……父さんに勘付かれた。それで、責められて……気がついたら、家を壊してた。どこを触ったか覚えてない。けど、全部瓦礫になった。母さんもいたけど……どうなったかわからない」

 そこで言葉は途切れた。幽かな吐息だけが、電話口の向こうで震えている。
 私は一瞬間、頭が真っ白になった。跡形もなく崩れた家屋のイメージが、ノイズ混じりに脳裏を過る。
 けれどもすぐにそれを打ち消し、呼吸を整えた。

 「転弧先輩」

 動転した様子の先輩にも届くようにと、はっきりとした声で呼びかける。

 「今行くから。どこにいるか教えて」

 しばらくは返事がなかった。
 しかし、ややあってから小さく声が返ってくる。

 「……橋の下」

 続けて教えられた場所は、どうやら大学から二駅先にある先輩の住む街の一か所だった。
 私は通話を繋げたまま、来た電車に飛び乗った。車内だからと、端末を仕舞うこともしていられなかった。電車に揺られる間、会話はない。けれども、耳に押し当てた端末の熱さだけが、今の私と先輩を繋ぐ命綱のようにも思えた。

 *

 先輩から告げられた場所へ向かうと、そこは街の中心部を流れる川沿いの通りだった。五十メートルほど向こうに橋が渡っているのが見える。周囲を見回すと、堤防に作られた階段を見つけたので、そこを下りて橋の下を目指し歩いた。
 近づくと、積み重なった投棄物の影に人の姿が見えた。私は駆け出した。

 「先輩!」

 人影が、びくりと肩を揺らす。私は迷わずそちらへ走り寄り、膝を突いて先輩の顔を覗き込んだ。

 「大丈夫? 怪我してない?」

 訊きながら、座り込む彼の身体を確認する。黒い衣服が、砂埃でところどころ汚れ破けていた。家を壊したと言っていたから、そのときに被ったものだろうか。そこは目立つが、服の上から見た限り、大きな傷になっているところはなさそうだ。私はひとまずほっと息をついた。
 両肩を支えられながら、先輩はされるがままになっていた。けれども少しして私の片腕にそっと手の甲で触れると、やんわりとした力でそれを押し下げた。

 「……平気だ。なんもない」

 その声音は電話で聞いたときよりもいくらか落ち着いていて、私は未だ心配が拭い切れないながらも、促されるようにそっと手を離した。

 雨が降り始めていた。橋の陰になった外側で、雨粒がアスファルトを叩く音を聞きながら、私は恐る恐る口を開いた。

 「先輩、あのこと……」
 「ああ」

 先輩の返事は早かった。少し俯き加減で、前髪の隙間から覗く目はじっと前方に向けられていた。ここにはない何かを見つめているような、思案に沈んだ目だった。
 先輩は言った。

 「あいつだ」
 「あいつ……?」

 私は聞き返す。そのままの格好で、先輩は続けた。

 「あの継ぎ接ぎのやつ。あいつがやったんだ。全部燃やしたと思い込ませて、どこかに一部を隠してやがった」

 先輩の声は至って冷静だった。その予想が当たっているとすればこちらは騙された側になると言うのに、言葉にも表情にも怒りの色は見えなかった。それが逆に私の不安を煽った。

 「でも、どうしてそんなこと……」

 訝しむ私に、先輩はまたはっきりと答えた。

 「要求があるはずだ」
 「要求……」
 「これをネタに強請るつもりか知らねえけど、とにかく何かしらこっちにして欲しいことがあんだろ。でなきゃそもそも、あんなことしない」

 その言葉を胸中で反芻し、私は思わず俯いた。
 先輩の予想は、きっと正しい。無関係の人間が犯した罪の隠蔽だなんて、見返りを前提としなければするはずもない。そんな考えればすぐにわかることですら、あのときの私には見えていなかった。とにかくあの場を誰にも知られぬよう、それだけに必死だった。つまり、これは私の撒いた種。あの青年の思惑に勘付けなかった私のせいだ。それがために、また転弧先輩を危険に晒そうとしている。

 「お前はもう、帰れ」

 その言葉に、私はハッと顔を上げた。
 けれども想像に反して、先輩は宥めるような目でこちらを見つめていた。

 「お前は大丈夫だ。何もしてないから、あの場にいたことがバレることもない。……呼んどいて悪かったけど。もう帰れ」
 「そんなの……」

 私は一度言葉に詰まって、けれども、すがるように尋ねた。

 「先輩は……?」
 「俺はあいつに会いに行く」

 先輩は、平然としてそう答えた。
 
 「会って腹ん中聞かせてもらわねえと、たぶんこの嫌がらせも続く。あのバーから帰るとき、あいつが俺に言ったのはそういうことだったんだ。逃げ回ったってしょうがない」
 「だったら私も行く」

 間髪入れず発した私の答えに、先輩は目を見開いた。

 「お前……話聞いてたか? お前は心配しなくていい。俺が警察に言いでもしない限り大丈夫だ。だからもう帰って、」
 「そういうことじゃない」

 私は俯き首を振った。そして先輩の顔を正面から見据え問いかけた。

 「先輩は、何であのとき来てくれたの?」
 「あのとき……?」
 「私が襲われたとき」

 その言葉に、先輩は僅かに顔を顰めた。黙ってこちらを見返す目には戸惑いが浮かんでいる。
 あのときのことを直截に口に出すのはこれが初めてだ。できれば思い出したくない記憶。きっと先輩もそう考えてくれて、躊躇う様子を見せるのだろう。けれども私は構わず、先輩を見つめ返事を待った。
 やがて先輩は、少し目を伏せ口を開いた。

 「……お前、メッセージくれてただろ」

 学内を出る直前、先輩の姿を遠目に見かけたときの話だ。

 「割とすぐ気づいて、どっかにいんのかと思って探したけどいなくて。暗いし危ないと思ったから、追いかけたんだよ。……そしたらあそこで、見つけた」

 最後の言葉に、私は胸の奥が締めつけられる心地がした。先輩のことを考えるとき、いつも感じるもの。けれども今のこの感覚は、それよりずっと、痛くて苦しい。
 私は絞り出すように言った。

 「……やっぱり」

 声は震えて泣きそうなのに、どうしてか私は笑っていた。

 「転弧先輩は私のこと、救けてくれた」

 先輩の目が揺らいだように見えた。それは徐々に歪む私の視界のせいだったかもしれないけれど。

 「そんな人の傍を離れたくない。一緒に行かせてよ」

 言い切ると、涙がこぼれ落ちそうになった。私は慌てて目元を拭う。
 いつの間にか、私と先輩の距離は近づいていた。もう少しで額が触れ合いそうなほど近くで、目は合わせず、お互いの息遣いだけを感じていた。

 「……わかった」

 やがて先輩が小さく口を開いた。
 私は伏せていた目を上げる。少し遅れて、先輩の目線もそこに重なる。
 先輩はそれ以上、何も言わなかった。言わない代わりに、膝の上で握り込んだ私の手に、二本の指先だけで触れてくれた。それだけで私にはもう、十分だった。

 私は少し鼻をすすって、それから言った。

 「……あの人、探さなきゃ」

 先輩も僅かに頷く。

 けれどもそれとほぼ同時に、聞き覚えのある声が割って入った。

 「必要ねえぜ」

 私と先輩は声のした方に振り向く。驚きもあったけれど、なんとなく予想もできることだった。
 いつの間にそこに現れたのか。あの青い炎を操る青年が、黒髪を少し雨で濡らしながらこちらへ歩いてくるところだった。橋の陰に入ると、その姿はますます薄暗い色を濃くするように見えた。

 「よお、久しぶりだな。あれからなかなか遊びにこねえから、迎えに来ちまった」

 継ぎ接ぎを裂くように口角が持ち上がり、暗色の中で青の瞳だけが爛々と輝く。

 「サプライズは気に入ってもらえたか?」

 その言葉に、隣にいる転孤先輩の身体から警戒心が膨れ上がるのを感じた。後で思えば、それは殺気にも近いものだったかもしれない。
 唸るように低い声で、先輩が応じた。

 「何でここがわかった。監視でもつけてたか?」

 しかしそれもいなすように、青年は軽く肩をすくめる。

 「いろいろ便利なもんがあんだよ。それより、あんたに話があって来た」
 「何が望みだ」
 「へえ、理解が早くて助かるな。……けど、その前に」

 そこでつと、青年の視線が私へと向けられた。瞬時に零下まで温度の下がったその目に、私は知らず呼吸を止めていた。

 「余計なモンがついてるなあ。何であんたはわざわざ巻き込まれに来てんだ?」
 「あ……」

 思わず漏らした喘ぎに、私は呼吸を取り戻す。震える手を必死で抑えつけ、青年から視線を逸らさぬよう注意しながら応えた。

 「巻き込まれたわけじゃ、ないです。私は私の意志で、ここにいます」
 「どういう意味だよ」
 「彼と一緒に、いたいんです」

 その言葉に、青年は鼻面に皺を寄せ、頭を掻き、腕を組みながら唸った。

 「あー……」

 そしてふと、思いついたように言った。

 「燃やしとくか」

 私は青年から視線を逸らさなかった。けれども次の瞬間、視界からその姿が消えていた。
 戸惑ったのも束の間。すぐ傍に現れた青年の手が、視界を覆うように眼前に迫った。

 私はその場で、へたりと尻もちをついた。
 青年の手は、指を目一杯広げた形で未だ私の鼻先に突き出されている。けれどもその爛れた前腕部を、先輩の四本指が捉えていた。

 一瞬の出来事だった。青年が私に手を伸ばすのとほぼ同時に、転弧先輩は彼の首めがけて片手で掴みかかろうとした。それに素早く反応した青年が反対の手でそれを抑えた。彼がそちらに気を取られている隙に、先輩は私に向け伸ばされた腕に触れていた。四本の指で、脅すように。
 青年は転弧先輩の個性を詳しくは知らない。けれども備わった勘のようなもので、自分に触れるその指の意味を理解した様子だった。
 裂けた口端が、凄絶に持ち上がって僅かに血を滲ませた。

 「……最高だな」

 愉悦を含んだ呟きの後、私に向けられた手はゆっくりと引っ込められた。青年が身を引くと、先輩も応じて掴んでいた指を離した。私はまた、先輩の背に庇われる。

 青年は一つ溜息を吐いた。

 「まあ、オマケがついてきたとでも思うか……」

 それは明らかに私を指して言われた言葉だったが、何か反応を示すことは私には敵わなかった。


 あのときと同じ、黒い靄の形をしたゲートが青年の背の向こうに現れた。

 「来いよ。その女も一緒でいい。選択肢はねえけど、わかってんな?」

 そう言って、青年はゲートを顎で指す。転孤先輩が答えないのを見ると、まるで呆れたとでも言うように鼻を鳴らし先に靄の向こうへ消えていった。
 彼の言う通り、もう私達には選択肢がないのだということを、私も先輩も理解していた。
 逃げる道も、引き返す道も、あの瞬間から全て燃えて失われてしまった。

 私達はゲートをくぐった。


 ゲートの向こうに繋がっていたのは、やはり先日と同じ、狭苦しいバーの室内だった。
 カウンター前に佇みこちらを待ち構えていた人物が、身を覆う黒い靄をゆらりと揺らす。

 「おや、そちらの女性もご一緒でしたか」

 隣に立つ青年が、もうその話題はうんざりだと言うように首を振る。
 転孤先輩が前に進み出て尋ねた。

 「で、俺らに何をして欲しいんだよ」

 その問いかけに、だるそうに首を上向けていた青年がニタリと笑んだ。

 「“俺ら”っつーか、用があんのはあんただけなんだけどな」

 そう前置いて、青年はくるりと身を返し室内を歩き始めた。

 「あんた、ステインは知ってるか?」
 「ステイン?」

 先輩が訝しげに繰り返す。
 ステイン。その名前なら私にも覚えがある。確か今年の夏頃、“ヒーロー殺し”の異名を取り世間を騒がせた敵の名だ。英雄回帰論なる思想を掲げ、それに基づき偽物と断じたヒーローを見せしめ的に殺し回った。その行いは紛うことなき犯罪ではあるが、主張そのものには現行社会に問を投げかける向きもあり、ネットなど一部界隈では大きな反響を呼んだ。
 関東のとある街で事件を起こし、加勢に来たヒーローと交戦の末、逮捕されたと記憶しているが。その人物が、いったい何に関わってくると言うのだろう。
 青年は続けた。

 「まあ、興味ねえならそれでもいい。ブームも一時的なもんだったしな」
 「……名前なら知ってる」
 「そりゃいい。要は今この社会にはびこってるヒーローってのはほとんど偽物、こんな間違った社会を正してやろうって動いたやつだ」

 青年はそこまで言って足を止め、先輩を振り返った。

 「俺はその思想に痺れちまってさ!」

 そのとき感じた違和感は、転孤先輩も受け取っただろうか。わからないけれど、満面の笑みで瞳を輝かせる彼を、私はどうしてか舞台上で踊る役者のように思えた。

 「残念ながら本人は捕まっちまったが、俺は是非ともその意志を全うしたくなった。だってそうだろ、ステインの言う通りだ。今この世の中に本物のヒーローなんざありはしねえ」

 語り続ける彼に、先輩は少々苛立たしげに問いかけた。

 「つまりお前が二代目ステインになるっつー話か」
 「いや、そうじゃない。ステインの主張は正しい。ただ、その信念にこだわり過ぎてやることが地道過ぎたんだよ。それで志半ばに退場しちまった」
 「回りくどいな。じゃあお前は何がしたいんだ」

 その問いを待っていたと言うように、青年は爛れた両腕を広げた。

 「ヒーローの殲滅」

 彼の口にした言葉を、瞬時に理解することは難しかった。転孤先輩も同じ様子で、「は……?」と開けた口から声を漏らす。

 「俺達は一つ一つ死体を積み重ねて訴えたりしない。やるなら一遍だ。それで現行制度を引っくり返す」

 つまり、彼はこう言っているのだろうか。
 偽物達を社会から一掃し、ヒーローの制度そのものを壊す。社会へ変容を訴えるのでなく、強制する。

 「夢物語だ」

 先輩が発した指摘に、青年は然して堪えたふうもなく返した。

 「容赦ねえなあ。けどまあ、その通りだよ。それを実行するにはまず、手勢が足りない。俺も方々走り回って同士を募ってんだが、敵ってのは思想も何もねえ頭空っぽのやつが多くてな。……そこで、あんただ」

 青年の蛇のような目が、先輩の手に向けられた。

 「あんたみたいなやつを探してたんだ。組織の指標になり得るやつ。あんたのその、壊すためだけにあるような個性。そいつがあれば、俺達の計画を理解するやつも現れる」
 「……俺は一般人だ。んなこと期待されても困るぜ」
 「どうかな。もうそうじゃないってのは、あんたが一番よくわかってんだろ?」

 その言葉に、先輩は黙り込んだ。見上げた横顔が強張ったように見えたのは、私の気のせいだろうか。

 「まァ、恨むならそんないい個性持って生まれた自分を恨めよ」

 せせら笑って、青年はカウンターの前に戻った。黒い靄の人の隣に立ち、合わせて四つの目が、私達の方へと向けられる。

 「改めましてだ。俺は荼毘」
 「黒霧と申します」
 「俺達の夢物語に付き合ってくれよ。志村転弧君?」

 そうして二人は、静かに嗤った。
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