雄英襲撃前のことだった。俺は所用で街へ出た。当時はまだ世間に顔も何も知られてはいなかったが、露出は極力控えるよう先生にも黒霧にも言い含められていたから、なるべく人目のない所を渡り歩く形で移動していた。それでも時たますれ違う人影はあって、そしてわざわざそんな場所を選んで歩く奴にろくなのはいない。
帰る途中、道の真ん中で俺に肩をぶつける奴がいた。俺は無視しようとした。ここで騒ぎを起こしてヒーローに嗅ぎ付けられても面倒なだけだし、何より近々ラスボス戦が控えてるってときに無意味な雑魚狩りをする気にもならなかったからだ。しかしぶつかってきた相手はどうもそれでは気が済まないようだった。馬鹿丸出しの怒号をあげて、俺につっかかってきた。
もちろん殺した。ところが、そもそもやる気のなかった俺は不意打ちの一撃を避け損ね、そいつを腕に食らってしまった。よく見ていなかったが、斬撃を繰り出す感じの個性だったようで、右の上腕が衣服もろともぱっくりと裂けていた。少なくはない出血が服に染みて、アスファルトの路面に滴り落ちる。
首周りにまた痒みが湧き上がってきた。俺は舌打ちして、傷を抑え歩き出した。帰って黒霧にでも手当させよう。そう思いながら。そのときだった。
「あの、大丈夫ですか?」
声が聞こえて、俺はぴたりと脚を止めた。振り向くと、連なるビルの裏口の一角から、女がこちらに向かって顔を覗かせていた。
俺は警戒した。見られたか。通報されても面倒だ、こいつもついでに殺してしまおうか。そんな考えが瞬間的に頭を過ったが、しかし女はなぜか気遣わしげな目でこちらを見つめるばかりだった。
「大きな声が聞こえたから、気になって来てみたんですけど……」
そういうことなら、現場を目撃するには間に合わなかっただろう。どうやら、自分のすぐ足元できれいに塵になった男の死体にも、気づいていないようだ。その様子がなんだか滑稽で、俺は少し様子を見ることにした。
返事がないことに痺れを切らしたのか、女が一歩前に出る。と、そこで初めて俺の腕に気が付いたのか、その細面が色を失くした。
逃げるか。逃げるなら、殺そう。俺は傷のない左腕に力を込めたが、そんな俺の予想に反して、女はこちらに向かい小走りで駆け寄ってきた。
「血が……! 大丈夫? 怪我してるんですか?」
なぜか俺は動けなかった。俺の傷を確認しようとして、けれどもどう触れていいかわからずにおたおたする女の間抜けな面を、呆気に取られて見つめていた。
「これ、けっこう深いですよね……救急車呼びましょうか?」
「は? ……いや、いい」
「でも……」
「……知り合いに、医者がいる。そいつに診てもらうから、いい」
そう言うと、女は尚も眉を八の字に下げたままではあるが、「そうですか……」と頷いた。そして直後に、何か思い出したように声を上げると、片腕に下げていたハンドバッグからハンカチを取り出した。
「これ、おろしたばかりで、まだ使ってませんから。良かったら持ってってください。気休め程度ですけど……」
そう言って、四角く折り畳まれたその布を俺に差し出す。
俺はその女の手元と顔とを見比べて、ふと胸中に沸いた疑問を確認せずにはいられなかった。
「……なんで?」
「え?」
「何で構うんだ? こんなの、明らかに厄介事だろ」
「それは……ほら、困ったときはお互い様って言うじゃないですか」
違う。俺が聞きたいのはそんなことじゃない。
そういう意を込め黙って女を見返していると、女は少し躊躇う様子を見せながらも、ゆっくりと口を開いた。
「つまらない身の上話になるんですけど……」
女は一呼吸置いてこちらを見たが、俺が黙っているのを確認して続けた。
「私、小さい頃、けっこう大きい事故に遭ったことがあって。そのときにヒーローが助けてくれて……今思い返しても、あのとき来てもらえなかったら、ほんとに死んじゃってたなあって。だからそれからは、誰か困ってる人がいたら私もできる限り手助けしようって思ってるんです」
なんて、私はただの一般人なんですけど。そう付け足して、女は気恥ずかしいのを誤魔化すように笑った。
「あの、本当に大丈夫ですか。お医者さん、ついていったりしなくても」
「……ああ」
「……わかりました。じゃあ、そのハンカチ持っていってください。どうかお大事に」
女はそう言い置くと、元いた建物の中に姿を消した。
*
舞い上がる土埃が風に流され、徐々に開けていく視界。その向こうに、青く晴れ渡る空が見えた。
何でこんなこと思い出したんだっけ。
千切れる雲を眺めながら、俺は考える。
足元には、瓦礫の山。俺を中心に壊れて抉れた街だった場所で、今回の喧嘩をふっかけてきた張本人が、両足を失くした無様な格好で頭を垂れている。それを遠巻きに見守る人、人、人。随分壊した気がしたけど、まだこんなにいんのかと辟易する。
俺はまた考えた。何で今、あんなことを思い出したのかはわからない。この場に何かそれを想起させるものがあったのか、あるいは、ようやく明瞭に蘇った記憶に引きずられてきたのか。
いずれにしろ。俺は思う。
もしもあのときのあんたがこの光景を、あるいはこれから起きる崩壊をどこかで見ていてくれたら。
そしてその顔を悲痛と恐怖に歪めていてくれたら、俺は、
胸のすく思いがするよ。