これは私がまだ小さかった頃、それこそ、右と左の区別もつかないような、幼い頃の話。

 その日は確か、私が4つから6つになるまでの3年間を過ごした、幼稚園の初登園の日だった。
 初、と言っても、その場所へ行くこと自体は初めてではない。前日には入園式に参加したし、更にそれ以前には説明会や面接なんかでも訪れているわけだから、ある程度覚えのある場所ではあった。けれども当然、それら機会のどれもが母あるいは父に連れられてのことで、そのどちらとも離れ、ひとりで家の外へ出かけるという経験は実に生まれて初めてのことだった。幼い私は、鬼のように泣いた。泣いて暴れる私を母はどうにかこうにか抱え上げ、既に到着していた送迎バスに苦心しつつも乗りこませた。同乗していた園の先生が後を引き継ぎ、私はその先生に半ば押さえこむように抱きしめられながら、自らの泣き声の向こうでバスが扉を閉じる音を聞いた。
 車内には、私と同様に泣きじゃくる子が他に幾人かいた。反対に、けろりとして窓の外の景色に夢中になっている子もいれば、隣同士早くも意気投合しおしゃべりに興じる子たちもいた。むしろそういった子たちの方が多かったような気もするが、そのときの私の目はかえって都合良く、そんな楽しげな様子を選んで映りこませることをしなかった。
 私は私と同じ境遇に突き落とされたお友だちを眺めて思っていた。ああ、やっぱり幼稚園というところは、なんだかわからないけど怖いところなんだ。早くお家に帰りたい。帰ってママとおやつを食べたい。そう思うだにまた涙がこみ上げてきて、結局私はバスが園に到着するまでの間、ひとり座席の上でしきりにしゃくり上げていた。

 指定の乗降場所から園までは、確か10分もかからなかったはずだ。
 終始安全運転で緩やかなカーブを描きながら園の敷地内へ進入したバスは、園舎の正面、昇降口の前でエンジンを止めた。閉じるときと同じエアー音を立てながら扉が開いて、ピカピカの新園児たちが嬉々としながら、あるいはめそめそとしながら順々にノンステップバスを降りていく。前述のとおり私は後者の方で、最後のひとりになるまで車内でぐずり抵抗を続けていたが、気づいた先生に優しく肩を抱かれ、ようやく渋々、席を立った。
 バスを降りると、春本番の麗らかな空気と日光が、ふわりと身体を包んだ。それでもどうにも、私の気分が上向くことは一向になかった。背後で、車庫入れのためにまたバスが走り出す音がする。私に続いて下車した先生が、私より先に園の昇降口へ向かい、振り返りまた声をかけてくれる。私は子どもなりのユウウツを抱えたまま、のろのろと顔を上げた。

 そのとき、上げた目線の先、こちらを振り返る先生の足の向こうに、小さな男の子が佇んでいることに気がついた。今まさに昇降口で、通園帽子もカバンも身に着けたままでいるということは、私と同じバスに乗りこんできた子だろうか。黒い、少し癖のある前髪の隙間から覗く目は、泣いた後のように赤くなっていた。
 私とその子は、目が合った瞬間のその距離と姿勢のまま、しばらく無言で見つめ合っていた。私はこの次に取るべきリアクションがわからず、動けないでいた。対する男の子の方は、果たしてどうだったろうか。きゅっと引き結んだ口元と、斜めにかけたカバンの肩紐を握る両手は、かすかにもじもじとしているようにも見えた。
 やがて私の様子を不審に思った先生が、再度私の名を呼ぶ。その瞬間だった。男の子がパッと走り出し、猫のような俊敏さで先生の足元をすり抜けていった。驚いた先生が、今度はその子に向け手を差し伸ばす。

 「君っ、えっと……転弧くん!?」

 呼ばれた男の子は、しかし立ち止まらない。あっという間に園舎を回りこみ、横手の運動場へと姿を消した。先生が、慌ててその後を追いかける。
 私はいったい何が起きているのか、大いに戸惑って、けれどもひとり置いていかれる焦燥感に突き動かされ、2人に続きその場から駆け出した。

 運動場に出ると、瞬間的に足がすくんだ。まだ低く狭い視界を、一瞬で覆いつくしたのは桜色。その園では、運動場の外周を囲むように桜の木が植えられており、遅咲きのそれらはその日まさに満開の時を誇っていた。そよ風に踊り花びらを散らし、青空の下陽を透かし輝く桜は、くらくらとめまいを催すほどに壮麗だった。
 しかしほどなくして、私の注意はその花々の足元の方へと切り替わる。そこで繰り広げられていた光景は、今思い出しても少し笑ってしまうようなものだった。
 等間隔で立ち並ぶ桜の、うち1本の幹のすぐ傍に、先生と男の子はいた。当時の私は、だからどうだと考えもしなかったが、先生はごく年若い女性だった。おそらくはまだ着任して間もない、もしかすると私たちこそが初めて受け持つ子どもたちだったかもしれない。故に、どう対応するが正解か、ひとりでは判断がつきかねていたのだろう。おろおろしていた。
 そんなおろおろする先生の足元で、男の子は一心不乱に何か不思議な動きをしていた。小さな両手をめいっぱい広げて自分の前方にかざし、よたよたと2、3歩踏み出したかと思えば、突然勢いをつけて両手をパンッと合わせる。そして合わせたてのひらをそうっと開いて何かを確認し、最初に戻る。それを何度も繰り返している。
 先生は、困ったように声をかけ続けていた。

 「転弧くん。みんなが待ってるから、戻ろう。お花なら後で見られるよ」

 けれども男の子はふるふると首を横に振る。視線はどこか中空にさまよわせたまま、私はそこでようやく気がついたのだが、何か追いかける仕草を続ける。その表情は真剣そのもので、私はそんな彼の姿を遠巻きに、けれども食い入るように見つめていた。

 そこからもう少し、時間が過ぎた。横手の園舎からは、ピアノの音楽に乗せ園児たちのてんでばらばらな歌声や笑い声が聞こえ始め、そろそろ朝の会が始まっていることを知らせる。対して私たち3人きりの運動場は、静かなものだった。男の子が動く音と、桜の枝をかすかに風が揺らす音。先生はもう、気が気でなかっただろう。いい加減、他の先生も状況に気がついて、顔を出してもいいように思える頃合いだった。
 ふと、男の子の動きに変化が訪れた。開いたてのひらを確認したその顔に、パッと笑顔が点る。その表情のまま、くるりとことらへ視線が向けられ、私の心臓は大きく音を立てた。
 男の子が、パタパタと靴音を鳴らしてこちらへ近づいてくる。予想外のことに私はうろたえ、なんだかまた心細く泣きそうになってきた。くしゃりと表情が歪むのが、自分でも感じられた。
 けれども次の瞬間、目の前までやって来た男の子の開いた右手の上を見て、こみ上げていた涙ははたと引っこんだ。

 「あげる!」

 上気した頬で、男の子がにっこりと笑う。
 彼の手には、桜の花が1輪載っていた。小さな、おそらく掴み取ったときに少し形の崩れてしまった、けれどもしとやかで美しいその桜色。
 私はぽかんとして、その花を見つめた。そして何度か、花と、男の子の顔とを交互に見比べた。男の子は変わらず、にこにこしている。その顔はどこかワクワクしているようにも見えた。
 あげる、とこの子は言ったが、けれどもこの花は、彼が一生懸命つかまえようとしていたものではないのか。そんな大事なものをもらってもいいのだろうか。

 「え……えっと……」

 内心ではそう問いながらも言葉は上手く出て来ず、私は今度は恥ずかしくなってきてもじもじとした。そんな私の様子に、男の子はついにしびれを切らしたものか。ふと、その花を指に摘みなおし、俯く私の髪にそっと引っかけた。

 「かわいいね」

 そう言って笑う彼もまた、たんぽぽ色の帽子にひとひらの花びらを飾っていた。

 これが、私と転弧くんの出会い。この日をきっかけに私は生まれて初めての友だちができ、幼稚園を嫌がることはその日限りでなくなった。行ったときとは打って変わってご機嫌で帰ってきた私を見て母は拍子抜けし、かえって彼女の方が寂しさを覚えたくらいだった。
 転弧くんはその優しさから、瞬く間にクラスの人気者になった。どうやらヒーローに憧れているようで、正義感の強さからしばしばいじめっこと衝突することもあったけど、彼はめげなかった。むしろそういう経験をするほどに、思いを強めていっているようにも見えた。彼に助けられた子たちからは「てんちゃんはオールマイトだ」なんて言われて、みんな彼を頼りにし、心強く思っていた。

 けれども、そんな彼と私たちクラスのみんなが、一緒に卒園の日を迎えることはなかった。
 あれは年中クラスに上がった年の、じめじめと蒸し暑い夏の日のこと。幼稚園が臨時休園となり、当然、私も1日園をお休みすることとなった。そんな日に珍しく、昼から母がひとりで出かけると言うので、少し遠方に住む祖父母に来てもらい、その日は1日家で過ごした。そしてその翌日から、転弧くんは幼稚園に来なくなった。
 当時の私がいくら聞いても、誰も本当のことは教えてくれなかった。そのまま1年が過ぎ、また次の1年も過ぎ、卒園して小学校に上がって、更に数年が過ぎる頃。放課後のざわつく教室で、かつて同じ幼稚園に通っていた男子生徒がうわさする声が聞こえた。

 「あいつ、行方不明になったって、うちで母さんが言ってたぜ」

 それだけ。そのときの私は特別、その輪の中に入っていこうとも思わなかった。

 あれから10数年の時が経った。大きく歯車が狂い始めたこの国で、それでも桜は静かに厳かに、美しく立ちつくしている。散る花びらの向こうに、私はなぜか、幼い日の笑顔を垣間見た。
 あの子はいま、どうしているのだろう。

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