『僕・・・名前君の手が、一番好き』
そう言って笑った記憶の中の男の子に、僕も笑い返す。
遠い過去の記憶だ。
僕は昔、杜王町という街に住んでいた。小さな街だ。
それは幼い頃の記憶で、それでも・・・大人になった今でも、僕の中に印象強く残っている。
転勤が多かった父に連れられて、いろんな土地を渡り歩いた。
その中で仲の良い友達を作ることは難しかった。
けれど、当時隣に家に住んでいた同い年の男の子・・・その子は、僕の友達になってくれた。
隣の家に挨拶をした時、その子と出会った。
その子と握手をした時、その子は僕の手と僕の顔を見比べて・・・にっこりと微笑んでくれた。
物珍しい物を見るような目つきでもなく、ただただ微笑んでくれた。
それが幼い頃の僕の心をどれだけ救ったことか・・・
毎日のようにその子と手を繋いで歩いた。その子は不思議と、僕と手を繋ぐことを望んだから。
あの子は綺麗好きで、よく僕の手の手入れもしてくれたっけ・・・
世話好きなんだなぁっと僕は思っていた。
同時にあの子は甘えただった。
僕の手で頭を撫でられることが好きだった。
頭を撫でると嬉しそうに笑ってくれるから、僕は彼が大好きだった。
今思うと、あれは恋心だったのかもしれない。
かもしれない、というのは・・・僕はやっぱり、あの子と一緒にいることはできなかったということだ。
また転勤。
父からその話を聞いたとき、僕は初めて泣いた。
今までの転勤では全く泣かなかったのに。
あの子とお別れするのが悲しかったんだ。
次の日あの子に引っ越しの話をすると、その子も泣いてくれた。僕の手を握って、泣きじゃくってくれた。
毎日手紙を書くと言ってくれた。
引っ越しをして最初の頃は、二日にいっぺんは手紙が届いた。
前の転勤でも、その前の転勤でも、僕に手紙を書いてくれるという子は何人かいたけど・・・皆、一通か二通送られて来れば良い方だった。
けどあの子は違った。
まさか“今になっても”手紙を送り続けてくれるのは、やっぱり今も昔もあの子一人きり。
嬉しかった。何年経っても届くその手紙が。
今では一月に一通となってしまったその手紙も、僕にとってはそれで十分だった。
あの子は生まれ育ったその町でサラリーマンとして働いているそうだ。
時折、手紙に恋人の話題が出る。
随分と手を褒めていたから、きっとその人の手は凄く綺麗なのだろう。
でも手紙の締めくくりには、必ずこう書いてある。
――まぁ、君の手の方がずっと綺麗だがね。
まるで口説き文句みたいだと笑ってしまう僕。正直、満更でもなかった。
一月に一回の僕の楽しみ。
その手紙を読むと、自然と口元に笑みが浮かんで、幸せな気持ちになれる。
転勤族だった父は近年他界して、僕は父の最期の転勤先となった地で普通のサラリーマンとして働いている。
そこそこ充実した暮らしで、不自由はあまりない。
もう少し貯金が安定してきたら・・・あの子に会いに行こうとも考えている。
それを手紙に書いたら、あの子も喜んでくれたのが二か月前。
もし来るなら、二人っきりで再会を喜び合おうと約束した。
彼女さんは良いの?と手紙で聞いたら『君の方が大事だ』という返事が来て驚いた。
驚いたけど、やっぱり嬉しい。
「ぉっと、しまった。もうこんな時間だ」
流暢に昔の思い出に浸っている場合ではない。
時計の針は普段家を出る時間より数分過ぎた時間を示しており、僕は慌てて席を立った。
飲みかけの珈琲が入ったカップは流しに置き、上着と鞄を手に慌ただしく動く。
机の上に置きっぱなしの新聞をちらっと見た。
そういえば今朝の新聞で、救急車が人を撥ねるなんていう物騒な記事を見た。
丁度、あの子が住んでいる土地の事件だったみたいだけど、大変だなぁ。
平和な今日の世の中でよくそんなことが起きるものだ。
あぁ、それにしても・・・
「元気かなぁ・・・吉影君」
今月の手紙も、楽しみだ。