Novel | ナノ

真っ黒に塗ったアヒルさんボートの頭を見せびらかしにきていた衣織さんに「あの、お尋ねしたいことがあるんです」と声をかけた私は、縁側へと衣織さんを案内した。天女様である衣織さんをお客様と呼んで良いのかは分からなかったけどお茶も用意して自分も隣に腰を下ろす。

「本当に乱太郎くんは絵が上手いんだねェ。もし良かったら今度銀ちゃん描いてくれる?部屋に飾っときたい」

医務室の縁側に腰を下ろした衣織さんは、私が描いた似顔絵を一枚一枚じっくり眺めながら感心したように言う。誉められて悪い気はしないけど視界にチラチラ入る真っ黒なアヒルさんボートの頭のせいで、どうにも素直に喜べない。今すぐ食満先輩に言いに行った方が良いかな…。

「あ、きり丸くんとしんべヱくんもいる。私この子らは覚えてるよ」

衣織さんは二人の似顔絵で手を止めると、得意気な表情を浮かべて筆を握り、何かをサラサラと書き始めた。さっき伊作先輩が『実際に喋ってみて感じたその人の特徴を書いておけば覚えやすいですよ』と助言していたから、きっと二人の特徴を書いているんだろう。いったいどんなことを書いてるのかな。気になった私は衣織さんの手元を覗き込んでみた。

『摂津のきり丸』
・ガッツ
・鉢屋三郎

『福富しんべヱ』
・目の前でこれ見よがしにお団子食べたい
・鉢屋三郎

………うん、見なかったことにしよう。私はそっと衣織さんの手元から視線をそらして思わず叫びそうになった台詞を飲み込んだ。言わない、絶対に言わない。それは特徴じゃなくてただの願望です、とか何で鉢屋三郎先輩の名前を書いてるんですか、なんて私はぜったいに言わない。

「それで?乱太郎くんは私と何を話したくて引き止めたの」

「あ、えっと、……この前のアルバイトできり丸が衣織さんに迷惑かけちゃってないかなって心配に思ったんです。きりちゃんドケチだし、」

「べつに?むしろバイトを紹介してもらったんだから感謝してるよ。そりゃ思ってたより紹介料持っていかれたり、もらえるとかタダとかいう単語を聞くたびに思考を飛ばすから何だコイツとは思ったりもしたけど」

「そ、そうですか」

いつものことだから予想はしてたけど、きりちゃんってば……。

「聞きたいことってそれだけ?そんなワケないよねェ。似顔絵もらった恩もあるし遠慮せず何でも聞いてごらん。べつに怒らないからさ」

そう言って朗らかに笑う衣織さんに私は思わず目を丸くしてしまった。だって、今の言葉はまるで私が肝心なことを聞けずにいたことを察知していたみたいだったから。すると衣織さんはやっぱり楽しそうにケラケラ笑いながら、あっさりとその理由を言う。

「私も子どもの頃よくやったんだよ。悪戯だとか物を壊しただとかの言いにくいことはどうでもいい話をしつつさり気なく打ち明けようとするの。ま、先生にはバレバレだったみたいなんだけど」

「な、なるほど…」

つまり私の態度も衣織さんにバレバレだったということで。思わず忍者のたまごとして反省すると同時に、天女様にも子どもの頃があったんだと妙に驚いた気持ちになってしまった。考えてみれば当たり前のことなのに、遠い世界から来た天女様である衣織さんが急に身近な存在に感じられてくる。

「で?乱太郎くんは何を壊しちゃったのー?」

「違います。私、何かを壊して相談しにきたわけじゃないです。私が衣織さんに聞きたいのは今までの天女様のことと、きり丸の、ことで…」

そこから、私の口はどうしてだか動くのを止めてしまった。あれ、おかしいな。なんだか急に思うように喋れなくなってきたや。衣織さんに失礼のないよう話さなくちゃいけないのに、上手く言葉が選べない。

どうしても、気になることがあるんだ。それは天女様に聞かなきゃ分からないことで、でも今までの天女様には怖くて聞けなかったこと。でも今回は、きり丸が初めて自分から天女様の話をしたんだ。「あの天女様は本当にアホだぜ。土井先生もめちゃくちゃ怒っててさぁ」なんて、ふと思い出したように笑いながら。

だけどもしも聞き方を間違えてしまって衣織さんの機嫌を損ねれば、きっと上級生の先輩方にすごく怒られてしまう。今回も先輩方は天女様のことを好いておられるみたいだから、だから衣織さんが私のことを失礼な奴だったと言えば、それだけできっと、私は。

「本当に、遠慮とかしなくて良いんだよ?」

沈黙を破ったのは、衣織さんの気の抜けたような声だった。その声につられて顔を上げれば視界に入るのは普段と全く変わりない衣織さんの楽しそうな笑顔。その表情を見た瞬間、それまで緊張と恐怖で強張っていた私の肩からふっと力が抜けてラクになる。そして同時に、どうして私が天女様である衣織さんに話をしてみようと感じたのかを思い出した。

―――私は、笑顔以外の衣織さんの表情を、見たことがない。吉野先生に怒られても次の瞬間には何事もなかったかのように笑いながら喋りかけているし、土井先生に出席簿の角で殴られても恨んだりすることもなく平然としている。それはまるで、喜や楽といった正の感情しか知らないみたいに。

衣織さんはきっと“良い人”なんだと思う。だから私が今からする質問で衣織さんを怒らせちゃったとしても、しばらく経てば吉野先生や土井先生に怒られた後と同じように何事もなかったみたいに笑ってくれるに違いない。そう思ったから、私は衣織さんに声をかけたんだ。

……あ、そうだ。土井先生といえば。

「衣織さんって」

「んー?」

「土井先生のことが嫌いなんですか?」

「ぶふぉッ!」

湯飲みに口をつけていた衣織さんが、お茶を勢いよく吹き出した。

思わず縁側から飛び退いた私を、呆れたように見る衣織さん。「本当に君たちはオブラートに包んで話すってことを覚えるべきだよ……」という台詞が聞こえてきたけれど、オブラートっていったい何なんだろう?

「きり丸くんにも同じこと聞かれたけどね、本当に私は土井先生のことを嫌ってなんかないよ。まァだからって好きでもないんだけど」

「でも衣織さんって土井先生と話してる時、なんだかイライラしてませんか?私の気のせいかもしれないですけど」

「そりゃあ、」

私の問いかけに、湯飲みに口をつけていた衣織さんはあっけらかんとした態度で、答える。

「ドラマに出演してる俳優の演技が下手くそだったら、誰だって見ててイライラするに決まってるじゃないの」

「…………?」

その言葉の意味を私はちっとも理解することはできなかった。衣織さんは違う世界から来られた方だから会話のところどころに私たちの知らない単語が混じるのはよくあることで。でもそれを踏まえても今の台詞は分からない。誰だってイライラする?演技?衣織さんはいったい何を言ってるんだろう。

すっかり首を傾げてしまった私に対して衣織さんは言葉の意味を詳しく説明してくれる気はないようだった。「大したことじゃないから気にしなくて良いよ」と適当に話を終わらせて、またお茶を喉に流し込む衣織さん。その態度から、とりあえず衣織さんが土井先生のことを嫌いじゃないっていうのは本当なんだろうなぁと私は納得した。好き嫌い云々の前に根本的に興味がないみたい。

「乱太郎くんが私に聞きたかったことってそれだけ?それなら私はもう食堂に遊びに、あっ、仕事しに行くけど」

遊び……?

衣織さんの言葉に首を傾げつつも話をうながされた私は何度か大きく深呼吸をしてから口を開く。いつまでも言いよどんでいたって衣織さんに迷惑をかけちゃうだけだ。もういいや、聞いちゃえ。

腹をくくった私は衣織さんの目を真っ直ぐに見据えて、問いかけた。

「天女様にとって、きり丸って何ですか?」

「……うん?」

「だって、今までの天女様の中に沢山いたんです。きり丸のことが可哀想だって言った人。土井先生や一年は組のみんなだけじゃダメなんだって、それじゃ足りないんだって言う人が、何人も」

「あー、それってもしかしてアレ?きり丸くんにはどこぞの姉とか母が必要なんだってやつ?」

「そうです姉上とか母上とかがいないとダメだって今までの天女様が……って、ええっ!?知ってたんですか?」

予想外の展開に思わず顔を勢いよく上げる私。一方、衣織さんときたら私の反応など気にもせず空になった湯飲みに急須からどばどばと茶を注いでいる最中だった。あ、あれ?これはどう見ても人の話を真面目に聞くという態度じゃないような気がするぞ……。

「うん、ちょっと前に別の人から全く同じことを聞かれたからねェ。だから乱太郎くんが私に聞きたいことも、もう大体分かったよ」

「別の人?それって誰だったんですか?」

私がずっと天女様に聞くかどうか悩んでいたことを、もう既に衣織さんに聞いていた人がいたなんて。いったい誰なんだろう?一年は組の誰かか、中在家長次先輩かな。

だけど衣織さんはその答えを教えてはくれなかった。「誰だったかなァ。忘れちゃったや」なんて言って、お茶を飲みながら空を見上げる衣織さん。なんとなくその瞬間、私は衣織さんが嘘をついているんじゃないかと思った。根拠は何もなかったけれど、衣織さんの『忘れた』は何かをはぐらかしたい時に使っているような、そんな気がしたんだ。

「……じゃあ、衣織さんはその質問にどんな答えを返したんですか?」

「何も答えなかったよ」

「えー…」

「そうするのが正しいと思ったからねェ」

空っぽになった湯飲みを盆の上に戻して、衣織さんは縁側から立ち上がる。グッと腕を組んで伸びをしてから空へと視線を向ける衣織さん。さっきから思ってたけど、よく空を見る人だ。ひょっとして空が好きなのかなぁ。気になって私も見てみたけど、そこには青色と白色以外には何もない。天女様の世界にあるという空飛ぶ鉄の塊も何もなかった。

「まァ、乱太郎くんは子供だし似顔絵の恩もあるからちゃんと答えるよ。でも私なんかに聞かなくたって簡単に分かることだと思うけどねェ」

「そう思えるのは天女様が私たちのことを何でも知っていて、とても進んだ文明から来られたからですよ」

衣織さんは今までの天女様と違って私たちのことは何も知らないけど、でもやっぱり知識の差はあらゆる場面で感じられる。私たちが幽霊や妖怪の仕業じゃないかと恐れている事象についての原因を知っていたり、迷信や信仰を全く気にしなかったり、病気についての対処法や食べ物が持つ栄養素や効果といった知識を当然のように持っていたり。

だから、いくら私たちに関する知識がなくたって衣織さんは間違いなく“天女様”なんだ。

ここより遥かに文明の発達した世界から来られた、何でも知っている高貴で何者にも代えがたい存在。だから、そんな天女様がおっしゃられることが間違っているはずなんてないんだ。

「いんや簡単だよ。君たちの悩みを解決するのに進んだ文明や知識なんて全く必要ない。……それなのに何でどいつもこいつも私に聞こうとするのかねェ。まったく、この学園の奴らはまったく」

何やらブツブツ呟きながら呆れたようにため息を吐く衣織さん。その視線の先にあるのは、やっぱり青空だ。

「例えばさァ、ある日突然とても発展した技術を持つ別の星の奴らがやって来たとして。ソイツらが幕府に砲撃してこの国を明け渡せと迫ってきたとして。そして、その為に大切な人が犠牲になったとして。乱太郎くんは大切な人より異星人の方を信じるの?」

「………天女様は幕府に砲撃したり、国を明け渡せなんて言わないですよ?」

「そりゃそうか」

衣織さんはうふふと面白そうに笑うと、興味をなくしたように空から視線を外して歩き出してしまった。思わず「質問の答えってこれで終わりですか?」と縋るように尋ねれば「お客さん、これ以上は延長料金がかかりますよ」と茶化すように返される。衣織さんに話す気がないのなら私も諦めるしかなく。私は仕方なく残された湯飲みを片付けることにした。

……なんだか、裏切られたような気分だった。そりゃ衣織さんは普段からふざけてばかりいる方だけど、でも真面目な相談にはちゃんと応えてくれるだろうと期待していたのに。どうして何も教えてくれないんだろう。たくさんの国々の歴史や価値観の知識も持っている天女様なら、きっときり丸の気持ちだってちょっと考えれば分かるはずなのに。

「乱太郎くん」

その時、背後から私にかけられた声。

反射的に振り返れば、そこにはまだ立ち去っていなかったらしい衣織さんが静かに私を見つめて立っていた。その顔に浮かべられているのはどこか普段よりも温かさを感じさせる笑顔。―――どうしてだろう。その笑顔を見た瞬間、私はとても奇妙な感覚がした。

「最後に一つだけ大切なことを教えてあげようね」

衣織さんの笑顔は、町娘のような無邪気なものでもくのいちのような艶やかなものとも違う。そしてどこかの城のお姫様のようにたおやかなものでも、ましてやおとぎ話に出てくる天女様のように神々しいものでもない。

「信じるべき相手だけは間違えちゃダメだよ。知識だとか文明だとか、そんなことはどうでもいいんだよ。本当に大切なモノっていうのは世界が違ったって変わりゃしないんだから」

言うなれば、それは。

「だから、私よりも同じ釜の飯を食べた仲間のことを信じてあげな」

武士のように、強い意志を秘めた笑顔だった。



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(侍の国から来た天女様)


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