Novel | ナノ

「何なんだあの天女」

俺の目の前には、頭を失ったことでただのボートになってしまった元アヒルさんボートが一隻。その哀れな姿に、俺は疲労感を抱きながらポツリと呟いた。本当に、何なんだあの天女。

それは委員会活動にて用具の点検をしようと、アヒルさんボートを並べたまま俺が場を離れた時のこと。用事を済ませて戻ってくると何故かアヒルさんボートの船首飾りが一個なくなっており、ワケが分からず首を傾げた俺はその場にいた後輩たちに尋ねてみた。

するとしばらく顔を見合わせた後で「衣織さんに変装した鉢屋三郎先輩が借りていきました」と答えたしんべヱ・喜三太・平太の三人。

あの鉢屋三郎がアヒルさんボートの船首飾りなんかを何に使うというんだ?と、ますますワケが分からなくなった俺は直接本人に尋ねに行くことにした。実はこの時点で、何となく嫌な予感はしていたのだ。

五年生の教室で鉢屋三郎を見つけた俺は、お前さっきアヒルさんボートの船首飾りを借りたそうだが何に使うんだ?と尋ねてみた。すると読んでいた本を机にバシッと叩き付けるなり「最近!身に覚えのない行動とか悪戯が!私のせいにされてるんですが!」と叫び始める鉢屋。「なんか、悪かったな」とだけ告げて俺は教室を出た。

つまりは、あの新しい天女である烏丸衣織が鉢屋三郎のフリをして船首飾りを持って行ったというワケだ。何が目的だ、と一瞬考えてから俺は首を横に振る。目的があるワケがない。あの烏丸衣織の行動に整合性や目的、意味を求めるのがいかに無駄な労力かを俺はすでに理解している。

アヒルさんボートの船首飾りのことだって、今にして思えば前兆はあったのだ。―――あの天女がこの世界に来たばかりの頃、池に並べて浮かべられたアヒルさんボートを熱心に眺めている姿を俺は目撃した。

当時ただ天女に取り入ることだけを考えていた俺は「一緒に乗りませんか?」と声をかけただけだった。あの時から天女は船首飾りに目をつけていたのだろう。警戒しておけば、と考えてももう後の祭りだ。ちなみに俺の誘いは「え、君誰?初対面なのに馴れ馴れしい子だね。なんか気味悪い」という言葉を返されて終わった。あの女が天女でさえなけりゃぶん殴ってたと思う。

取り入るといえば、今回の天女である烏丸衣織のままならなさはハッキリ言って異常だ。まず会話が成り立たない。例えば偶然会った時に「衣織さんは今日もお美しいですね」と言うと、カッコンカッコン薪割りしていた衣織さんは「えー?なんてー?聞こえないんだけど」と返してくる。

「衣織さんは!今日も!お美しい!ですね!」

「え?今日餅つき?」

アンタどんな耳してんだよっていうか聞こえないんならせめて薪割りする手を止めろよ、とイライラしつつ「今日もーッ!お美しいーッ!」と叫べば「うっせェェェ初対面の人間の耳元でいきなり叫ぶな!」と薪で殴られた。その瞬間そうか自分はまだ衣織さんに覚えられていなかったのか、と理解すると同時に俺はこの天女を絶対泣かすと心に決めた。

他にも色々ある。あれは吉野先生に怒られている衣織さんを見かけた時のこと。サツマイモを片手に「何で余計なことをするんですか貴女は!」と怒鳴っておられる吉野先生と、しょんぼりしている衣織さんの姿を見つけた俺は今こそ恩を売る絶好の機会だとばかりに間に入った。

「吉野先生、衣織さんはまだこの世界に来てから日が浅いのですから、どうかそう怒らないでやってください」

「しかしですね食満留三郎くん、彼女は」

「失敗なんて誰にでもあることですし、衣織さんもこんなに落ち込んでおられるのですよ?可哀想じゃな、」

「うっせェェェッ!!」

衣織さんの怒鳴り声が聞こえたと思った瞬間、俺の頭がガシッと掴まれ壁に叩き付けられた。あまりにも予想外の展開に俺は混乱した。何故だ。何故俺は庇っていた相手に怒鳴られながら攻撃されるんだ。

壁に頭を叩き付けられた衝撃によってぐわんぐわん揺れる視界の中、ぐすぐす泣いている衣織さんの姿が目に入る。「やめてよ、そういうことされたらなんか惨めになるじゃん!っていうか君は誰なの!?」泣きながら彼女は叫んだ。どうやら俺はまだ彼女に覚えられていなかったらしい。

「べつに吉野先生の説教とか何とも思ってなかったのにさァ、そんな風に可哀想な子扱いされたら本当に悲しくなるじゃん!分かんないかなァ!?教室で泣くの我慢してたらみんなに大丈夫?とか何があったの?とか聞かれてもっと悲しくなる気持ちが!君、人の気持ち考えなよ!」

今考えても、最後の台詞は納得がいかない。衣織さんが天女でさえなければ俺は『アンタにだけは言われたくねぇよ!』と叫んでぶん殴っていただろう。誰だ天女様には優しくして復讐しようとか言った奴。出てこい。

そんな衣織さんに向かって、吉野先生は、静かに言った。

「……烏丸さんは私のお説教を何とも思ってなかったんですか?」

「……………やべッ」

その瞬間、衣織さんは吉野先生の「こらーッ!烏丸!」という怒号を背中に受けながら女とは思えないような全力疾走で逃げて言った。

ちなみにどうして怒っておられたのか吉野先生に尋ねたところ、なんでも衣織さんに風呂掃除を任せたら「みんなに柚子湯を楽しんで欲しいけど柚子がないどうしよう」と言って大量のサツマイモを湯に浮かべていたらしい。俺はよくぞ彼女を止めてくれましたと心から礼を述べた。そしてその日の夕餉がサツマイモの天ぷらだったので、俺は何も言わず伊作に全部譲ってやった。

そんな女が相手であることから、他の級友たちも苦労しているらしい。でなければ衣織さんに何かをしてもらってお礼をする、という策を誰一人として成功することが出来なかったという事態になるはずがない。

「もう、とりあえずお礼をしようじゃないか」

死んだような目をしながら仙蔵は言った。その手にあるのは一目で高価と分かるような綺麗な紅色の簪だ。

「ああ。日々のお礼ということでいこう」

文次郎もその隣で静かに頷いていた。

伊作を除いた五人で、何かの包み紙を持って外を歩いていた衣織さんに声をかける俺たち。「いつも頑張っておられる衣織さんに贈り物をしたいと思いまして」と言いながら仙蔵は紙に包まれた簪を渡す。受け取った衣織さんが嬉しそうな表情を浮かべたのを見て、やはり今までの天女と同様にこういう贈り物が好きなのだなと俺たちは内心でほくそ笑んだ。

「うわァ、本当にもらっちゃっていいの?」

「もちろんです。僭越ながら私が衣織さんのために選ばせていただいたのですが気に入っていただけて幸いです」

「そっかそっか仙蔵くんは気が効くんだねェ。ありがとう、ちょうど爪楊枝的なモノを食堂にもらいに行こうとしてたところなんだよ」

…………ん?

爪楊枝?と首を傾げる俺たちの前で持っていた包み紙を開く衣織さん。中から出てきたのは一個の美味そうなぼた餅だ。すると衣織さんは、躊躇うことなく、簪で、そのぼた餅を突き刺した。

「食堂まで借りに行くの面倒くさいなァと思ってたから助かったよ」と言いながら嬉しそうに目の前でぼた餅を頬張る衣織さん。どうすることも出来ずにただ呆然と立ちすくむ俺たち。

あっという間に食べ終わり満足げな表情を浮かべた衣織さんは、餡まみれになった簪と包み紙をグシャグシャまとめて仙蔵に渡し「悪いけどゴミ捨てといてくれる?本当にありがとうね!」と言って笑顔で去る。

「……もう沢山だ!」

ゴミ、じゃなくて包み紙と簪を渡された仙蔵が悲痛な声で叫んだ。力が抜けたように地面へ崩れ落ちる文次郎。微妙な表情を浮かべる長次。そんな重苦しい空気の中で小平太だけが「ついにあの天女様を喜ばせることができたな!」と笑顔で叫んだので、俺は力なく「ああ俺たちの勝利だ」と頷いたのだった。

なんか、違う。



―――そんな、烏丸衣織という天女はいつも楽しそうに笑っていた。怒られても次の瞬間にはケロリとしているし、見知らぬ土地や人間関係の中に突然放り込まれたとは思えないほど、のらりくらりと過ごしている。

下級生をからかってケラケラ笑いながら、わざと捕まりそうな寸前の速度で走りながら逃げていく姿や、突拍子もないことをしては周りに悲鳴や怒号を上げさせている姿をもう何度見かけたか知れない。そんな天女の姿を見かけるたびに、俺は無性に腹が立った。

俺たちによって、もしくは他の上級生の策略によって笑っているのであればここまで気に障らなかっただろう。今までの天女だってそうやって楽しませてきたのだから。でも彼女は違う。自分で楽しんで、自分で笑っているのだ。

「何も知らない天女様は気楽でいいな」

追いかけてくる一年生から伸ばされた手をヒョイとかわして、やはり笑いながら逃げていく衣織さんの姿。その光景を眺めながら俺は呟いた。あの時から学園はどうしようもなく変わってしまったというのに、何も知らず彼女は楽しそうに笑う。俺だって変わってしまったというのに。

衣織さんの背中を睨みながら懐に忍ばせている苦無を握る。やはりすぐに指が震え始めたので、俺はパッと手を離した。なんて、情けねぇ。

本当に、情けない。

いまだに楽しそうに笑いながら走って行く衣織さんの姿を遠くから見送って、俺はその光景に背を向けた。

「………あ、どうやって船首飾りを取り返せば良いんだ?」



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(好き勝手にできる彼女が妬ましい)(それは自分たちが失ってしまったモノだから)


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