Novel | ナノ

「くそッ!」

ガツン、と頭を木にぶつけながら俺は呻いた。

今の俺には全てのことが腹立たしかった。あの新しい天女である烏丸衣織にいいように振り回されていることも、たかだか素人の女に顔を鍋に突っ込まれるほどに鈍ってしまった自分の体も、とにかく全てが腹立たしくて仕方がない。

天女に魅了される度に鍛錬を怠ってしまうことから、天女が忍術学園を去った後には体が鈍った状態になってしまうのはいつものことだ。普段ならば集中的な鍛錬をして体の調子を取り戻すところなのだが、いかんせん今回は新しい天女がやってくる時期が早すぎた。本調子の状態に比べて、まだ半分もの力を取り戻せていない。それに、刺された腹の傷も。

ずくりと傷む腹を押さえて俺はため息を吐く。伊作は傷口が閉じるまで鍛錬も止めておけと言っていたが、鈍った分だけ取り戻すための時間も長くなる。それを考えるとジッとしていることは出来なかった。算盤で筋トレするぐらいなら良いんじゃないだろうか。あぁそうだ伊作に見つからなきゃ良いんだ。

「文次郎」

ふいに自分の頭上から響いた声。聞き覚えのあるその声に、まさに算盤を持ち上げようとしていた俺は顔を上げた。

「そんな木陰で何をやっている?刺された腹の方は大丈夫なのか」

「……あぁ、もう問題のない程度にまでは回復している」

「嘘を吐くな文次郎。伊作が言っていたぞ?まだまだ安静にしていなければならない状態らしいじゃないか」

くそッ、知ってて聞いたのかコイツ。

屋根の上に座っている仙蔵を睨めば、クツクツと笑いながら「伊作には黙っておいてやるから心配するな」という言葉を返される。そりゃありがてぇな、と言い返してやれば仙蔵はまた面白がるように笑った。

「ところで仙蔵。お前はそんな所で一体何をしているんだ?」

すると仙蔵は何も答えずに視線だけをスッと屋根の反対側へと向ける。気になった俺は屋根の上まで跳躍し、仙蔵と同じ方向を見た。

「……今回の天女か」

屋根から見下ろした先には今回新しく現れた天女である烏丸衣織が箒を片手に、何やら騒いでいる姿があった。

「違うよ小松田くん、そんな隠れ方じゃあ敵に気付かれちゃうって!もっと石の気持ちになりきらないと!」

「そっか石の気持ちになりきるんだね!……石って何考えてるの?」

「えっ、さァ?」

どうやら天女は小松田さんの忍術の訓練に付き合っているらしく、ああでもないこうでもないと騒ぐ声が俺たちの方にまで聞こえてくる。相変わらず騒がしい女だ。っていうか石の気持ちって本当に何だよ。無機物に気持ちなんてあるか。

「今こそ石の仮面を被るんだよ北島マヤ!」

「うーん、とりあえず次は手裏剣を打つ練習をするから、衣織ちゃんはそこで見てて何か気付いたら教えてね?」

そう言って手裏剣を木に放った小松田さんを見て「私の世界の忍者はもっとカッコつけた感じで投げてたよ」などというよく分からないアドバイスをする天女。そしてそれを真面目に聞く小松田さん。この一幕を見ただけで吉野先生がいかに苦労しているのかが察せられる気がするな。

「……あの天女はいつも楽しそうだな。まさか自分が忍術学園全ての人間から疎まれている存在だとは露ほどにも思っていないのだろう」

「気にするな仙蔵。あの女が何も知らずに笑っていられるのも今だけだ。むしろ今は楽しませてやる時期なんだからこれは良い傾向じゃねぇか」

励ますように肩を叩きながら言えば、仙蔵はチラリと俺の方を見て「しかしあの天女はすでに自分の世界へ帰りたがっているらしいぞ」と呟くように言う。まさか、と俺は思わず信じられないといった声を上げた。

「そんなまさか。この時期の天女たちはまだ自分の世界に帰るかどうか迷っている者が大半だっただろう?」

「元の世界に好いた男がいるらしい。……まったくもって皮肉な話じゃないか。忍たまたちを魅了して散々引っ掻き回してくれた天女の帰りたい理由が、まさか惚れた男のためだとは」

「………仙蔵、」

「結局、天女にとって我々はお遊びの存在というわけだ。いざとなれば自分の世界に帰れば良いのだから好き勝手なこともできる。我々は、この世界で生きていくしかないというのに」

「……まだまだ時間はあるのだからそう思いつめるな仙蔵。きっと今回も変わらず上手くいくに決まっている」

自分で言っておきながらなんと月並みな慰めの言葉だろう、と俺は内心で自嘲した。確かに今までは上手くいっていた。ひたすら優しい言葉を吐いて甘やかすだけで次第に本性を露わにし、最後には俺たちの狙い通りこの世界に残りたいと希望する天女たち。

ただ、今回の天女は今までの女たちとはまるで勝手が違う。本当にこのままのやり方で適う相手なのか分からない。

「もしかすると、今回は手荒い真似をせざるを得ないかもしれん」

長い黒髪をゆらゆらと風に流しながら仙蔵は俺に向かって「文次郎、お前は私を軽蔑するか?」と静かに問う。俺はその問いに静かに首を横に振って答えた。誰がお前を軽蔑できるものか。できるわけが、ない。

脳裏に浮かぶのは、地べたに額を擦り付けて謝る仙蔵の姿。

「許してやってくれ」

今でも昨日のことのように鮮明に思い出してしまう。あれは二人目の天女の時だった。まだ天女の正体をよく分かっていなかったおかげで揃って天女の奇妙な術に翻弄されてしまった俺たち。二人目の天女の酷い性格も相俟って、その時の忍術学園は本当にめちゃくちゃな有様だった。

俺たちが自分をめぐって争う姿を見て楽しみ、わざと焚き付けるような言葉を吐いては俺たちが翻弄される様を手を叩いて喜ぶ天女。わざと一人の生徒を傷付けさせて、手当てをすれば嫌いになるからねと笑いながら伊作に言い放つような、そんな女だった。

それでも当時の俺たちは二人目の天女を心から好いていた。本当に愛していると思っていた。彼女の言うことが、行動が、まるで神様のように絶対的なモノであると信じていたのだ。

当然ながら俺たちは天女の気を引こうと様々な贈り物をしたし、この世界に残って自分と夫婦になって欲しいと何度も求婚した。そして、二人目の天女が選んだのは、仙蔵だった。

それでも俺たちは二人目の天女への想いを諦めることができず、いっそう互いを憎み傷付け合う日々が続いていく。

そんな日常が終わりを告げたのは、本当に突然のことだった。

まるで霧が晴れるかのように自身を取り戻した俺たちは呆然として、そして今までの自分の言動に絶望した。当然それから感じたのは天女に対する強い怒りだ。

俺たち上級生は天女の元へと向かった。もはやただの醜悪なだけの女だと頭で理解していても、武器を握らずにはいられなかった。下級生に人殺しをさせるワケにはいかない。自分たちが始末をつけなければ。くの一でも敵の忍でもない、ただの女を殺すために、俺たちは武器を握った。

そんな俺たちを止めたのが仙蔵だった。

「どうか、どうか許してやってくれ。どれだけ取り返しのつかないことをしたとて、こいつは私にとって一度は夫婦になると決めた女」

無様としか思えないほどなりふり構わず地面に頭を擦り付けて、涙を流しながらも歯を食いしばって嗚咽を堪え、俺たちに許しを請うて。

「妻の咎は夫が責任を持つもの。私のことは気の済むようにしてくれて構わない。だが、後生だから、こいつは」

天女に対する気持ちが消えてしまったのは仙蔵とて同じだったろうに、それでも一度は心から愛した女なのだからと責任を取ろうとしたのだ。なのに二人目の天女は、そんな仙蔵に向かってあんな言葉を吐いて。

そこまでしたというのに三人目の天女に惚れたことで自分の感情までもが偽りだったと判った時の仙蔵の虚しさは、どれほどのものだったのか。俺なら何もかも嫌になるだろう。本当に、やってらんねぇよな。

「………文次郎」

「ああ、気の済むようにすれば良いさ仙蔵。俺も天女に復讐するためなら何だってやるし、協力するからな」

「いや、その話はいいからアレを見ろ」

「ん?」

ようやく仙蔵がある一点を指差していることに気付いた俺は、何も深く考えないまま視線をそちらへ向けた。この方向は先程まで天女と小松田さんが忍術の訓練をしていた場所じゃなかったかとぼんやり考えながら視線を向けたのだ。

「アンタって人はまた三木ヱ門をーッ!!」

まず目に入ったのは出席簿を振り上げながら怒りの形相で走っていく土井先生だった。そしてその先では、天女である烏丸衣織が神妙な表情で小松田さんに「大丈夫だよこれは私の世界の忍術だから。よく見ておくんだよ小松田くん」と言いながら逃げていく。

そしてそんな二人に向かって笑顔で「頑張って衣織ちゃーん」と応援している小松田さんに、うつ伏せに倒れたまま指で地面に『犯人は烏丸』と書いて意識を失っている三木ヱ門。

おいちょっと待てほんの一瞬目を離した間に何があった。

慌てて屋根から飛び降りて駆け寄れば、三木ヱ門はうっすらと目を開いて俺を見る。良かった、息はあった…!

「大丈夫か?一体何があったというんだ!?」

「し、潮江せんぱ……」

アイドルを自称しているとは思えないような顔をした三木ヱ門は、ゆるゆると腕を上げて土井先生から逃げている烏丸衣織の方を指差す。そして途切れ途切れの声でこう言ってから、ガクリと意識を失った。

「あの、女を……、いつかぜったいに泣かして、くださ、」

「み、三木ヱ門ーッ!」

白目をむいた後輩の姿を見て、俺は改めて心に誓った。ぜったいに天女である烏丸衣織に復讐してみせると。



--------------------------------

(遠くの方では土井先生に殴られた天女が地面に崩れ落ちていた)(もっとやっちまってください先生)


×