Novel | ナノ

「見てみて伊作くん。私にもマスコットができたんだよ」

ある日そう言いながら医務室の縁側の向こうに現れたのは、真っ黒く塗られたアヒルさんボートの船首飾りを頭上にかかげた衣織さんだった。

「名前はねェ、カラスちゃん17号でいこうと思うんだけど。どう?」

メスなんですね。

そうやって自分から感想を聞いてきたにも関わらず、僕が何か答える前に「仙蔵くんにも見せびらかしてくる」と言って意気揚々と立ち去ろうとする衣織さん。その台詞でようやく今自分は見せびらかされていたのかと気付いた僕は、ここまで羨ましいと思えない自慢はなかなかないぞと感心しつつ「ちょっとお時間いただけませんか?」と衣織さんの背中に向かって呼びかけた。

「……伊作先輩、あれってどう見ても用具委員会のアヒルさんボートの船首飾りですよね?返すよう言った方が良いんじゃないでしょうか」

医務室の中で正座する衣織さんをチラチラ見ながら僕に小声で話しかけてきたのは、同じ保険委員会の後輩である三反田数馬だ。どうやら天女様である衣織さんにあえて自分からは近付きたくないらしい。

対して、普通に衣織さんの側に寄っていって「それ用具委員会が管理してるやつですよ〜?」と尋ねる伏木蔵。すると衣織さんはまったく悪びれた様子のない態度で「拾ったんだからもう私のモノだよ」と答えていた。用具委員会に返す気は一切なさそうだ。

「前々から私も万事屋の定春やヅラ君のエリー的な存在が欲しいと思ってたんだよねェ。このカラスくん23号なら世話しなくても死なないしエリーっぽくて可愛いし、まさに私にピッタリのマスコットだよ。誰が返してやるもんか」

オスになってる上に数字まで変わってしまった様子からして、きっとまだマスコットの設定はあまり固まっていないのだろう。それにしても最後の台詞から察するに、どうやら道徳的には返さなければならないという意識はあったらしい。僕の側で数馬が微妙な表情を浮かべていた。

「きっと今ごろ用具委員会はスリルとサスペンスぅ〜で探してますよ。でも真っ黒になってるから見つけにくそう」

「じゃあ後はショックを与えてあげれば恋が始まるね。私はねェ、前々からアヒルや白鳥のボートがあるのにカラスがないのは差別だと思ってたんだよ」

どうやら衣織さんと伏木蔵は気が合うらしく、楽しそうに談笑を続けている。どうしてショックを与えたら恋が始まるのかとか、カラスは水鳥じゃないから泳げないんですよとか、かみ合ってない会話の内容に色々と言いたいことはあるものの本人たちが楽しそうなのだからと僕は何も言わないことにした。数馬はやっぱり微妙な表情を浮かべてたけど。

そんな、温度差のある空気の医務室の中に入ってきたのは同じく保険委員会の後輩である猪名寺乱太郎だった。

「善法寺伊作先輩、頼まれてた似顔絵もってきましたよ〜」

「ああ、わざわざすまないね乱太郎」

乱太郎がわざわざ持ってきてくれたのは忍術学園の生徒たちの似顔絵が書かれた紙の束。新しく描いた物もあるけど大半は今まで描きためていた物を持ってきたようだ。つい先日頼んだばかりだというのに思っていたよりも早く準備することができて良かった。

僕に紙束を渡した乱太郎は「いいんですよ〜」と朗らかに笑って衣織さんの方をチラリと見る。そして僕に視線を戻してからバッ!と弾かれたように再び衣織さんの方へと視線を向けた。

「……伊作先輩、ひょっとしたらアレって用具委員会のアヒルさんボートの船首飾りじゃ、」

乱太郎の視線の先には真っ黒に塗られたアヒルさんボートの頭を正座した膝の上に乗せて、伏木蔵と楽しそうに談笑している衣織さんの姿。「何で真っ黒…?」と呟いた乱太郎に自分で塗ったらしいよ、と答えれば何とも言えないような表情を浮かべて僕を見る。そんな目で見ないで…。

「あの、返すように言った方が良いんじゃないでしょうか。さっき用具委員会が騒いでたのを見たんです。もしかしたらあれはアヒルさんボートの船首飾りを探して騒いでいたのかも」

「……うーん。言っても衣織さんは返さないんじゃないかなぁ」

だって衣織さん、今も船首飾りを膝の上に抱えてすごく満足げな顔してるし。まるで獲物を狩ったネコみたいだ。船首飾りを取り戻そうとした瞬間に威嚇されそう。シャーッ!ってされそう。田村三木ヱ門のことから考えても間違いなく衣織さんは一度気に入ったモノは離さないタイプだ。悪いけど留三郎には頑張って取り戻してねとしか言いようがない。

それでも気になって仕方なかったのか、談笑している衣織さんと伏木蔵の間に入っていって「それ返した方が良いと思います」と進言する数馬。すると衣織さんは相変わらずの堂々とした態度でカラスくん?いや、カラスちゃん?を数馬に見せてこう言った。

「残念でしたー。もう名前書いたから私の物なんですー」

「あの、全部真っ黒でどこに名前があるのか分からないんですが」

「私の名前は心の綺麗な人しか見ることができないからねェ。見えないんならさたんたたんた君は心が汚いんだよ」

何てこと言うんですか!

「僕は三反田です」「さんたたたんだんです?」「違いますって、さんたんだ、です!」「サンタ殺ったんDEATH?」だんだんと会話がおかしな方向にいってる数馬と衣織さん。そしてその様子を面白そうに眺めている伏木蔵。僕はこの会話をいつ止めたものかと眺めていたものの、数馬がイライラし始めたのを見て割り込むことにした。

「衣織さんに差し上げたい物があるんです」

「何これ。似顔絵?」

僕が差し出した紙を受け取った衣織さんは首を傾げながらパラパラとめくって似顔絵を見る。けれどある一枚の紙に描かれた似顔絵と名前で手を止めると、隣で憤慨していた数馬とまじまじ見比べて「そっかぁ君は三反田っていう名前だったんだね」と呟いた。

「だから、僕はさっきからそう言ってたじゃないですか!」

「ごめんね数馬くん。そんな怒らないで」

「これだけ苦労したのに結局下の名前!?」

ずーんと落ち込む数馬を放置したまま僕に向かって「何で私に?」と問う衣織さん。その質問に僕はあらかじめ用意していた答えを返す。

「五年生の後輩が衣織さんになかなか名前と顔を覚えてもらえないと嘆いていたんです。それで僕が何とかするようにと頼まれまして」

五年生の五人組に頼まれた僕が考えた方法は、似顔絵で覚えさせるというモノだった。教科の勉強をするように何回も見て確認して、それをくり返せば実際の本人を見た時にもパッと思い出せるだろうと考えたのだ。

けれど衣織さんは僕の提案があまりお気に召さなかったようで、顔をしかめて紙の束を返そうと突き出してくる。

「いらないよ。生徒の顔や名前なんて覚える必要がない。どうせ私は数ヶ月後には帰る人間なんだから下手に深い関わりは持ちたくないし」

「えっ……」

その台詞に驚いたように振り返ったのは、衣織さんにお茶を出そうとしていた乱太郎だった。数馬も伏木蔵も驚いたように目を見開き、その場が一瞬だけ奇妙な空気で支配される。ただ一人、衣織さんだけが普段と変わらない気の抜けた表情で僕を見つめていた。

「……でも、覚えた方が吉野先生は喜ばれると思いますよ?事務では生徒に渡す物を管理する仕事もありますし」

「吉野先生が喜ぶんなら頑張ろうかな」

衣織さんはあっさりと意見を変えた。大丈夫かなこの人……。

急にやる気が出てきたらしい衣織さんはばっさばっさと張り切って紙の束をめくりながら、作者である乱太郎に「上手いねェ。今度銀ちゃん描いてみてよ」と楽しそうに話しかけている。その様子を眺めていた数馬が、ポツリと、僕に向かって呟くように言った。

「……伊作先輩。今までの天女様は、本当に自分の世界にお帰りになられたんですか?本当に、一人残らず」

集めた薬草を分けていた手を止めて数馬は僕をじっと見る。

「藤内が言ってました。立花先輩が土下座までしたって、」

「……数馬、僕は実際に天女様が帰るところを目にしたことはない。でも僕以外の六年生や他の上級生たちは天女様が帰る時には見送りをしているそうだよ。だから僕は、帰ったと思う」

「そう、ですか」

僕の雰囲気から、これ以上は詮索しても無駄だと察したのだろう。ぱったりと口を閉じてしまった数馬は、ひたすら気を紛らわせようとするかのように薬草を整理する手を動かしていた。

視線を上げれば、縁側で乱太郎と何かを話している衣織さんの背中が目に入る。まだ彼女が来てから二週間とすら経っていない。にも関わらずこんなに早い時期から自分は元の世界に帰ると明確に言い切った天女様は彼女が初めてだ。

……いや、一人目の天女様とは大した会話もしなかったから、本当に初めてかどうか正確には分からないけれど。

「………静かだなぁ」

整理した薬草を箱の中に投げ入れながら僕は小声で呟いた。

あの時から、学園はどうしようもなく変わってしまった。小平太も留三郎も文次郎も長次も、仙蔵も。もちろん、他の生徒たちも。

その変わってしまったモノはいつまで経っても元に戻る気配がない。小松田さんが問題を起こしても、学園長先生が何かを思い付いても、以前とは違う空気が蔓延していて元に戻らないのだ。みんなが互いに距離を取ろうとするからよそよそしくて、息苦しい。

この世界の知識を持っていない衣織さんは、そのことには全く気付いていないのだろう。これが忍術学園の日常だと思っているはずだ。

それなのに、あの時『ここは良い世界だね』と言って笑っていた衣織さんの姿を思い出すと、僕は腹立たしいような悲しいような、もうどうしようもない気持ちになってしまうのだった。



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(何も知らないからこそ笑っていられる貴女を憎らしいと思う)


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