「……あの、どうしたんですか?衣織さん」
朝食を取るために食堂に来た僕が見たのは、ぐすぐす泣きながら朝食を取っている衣織さんの姿だった。そんな見るからに悲壮感が漂う衣織さんの様子にも関わらず、周りの下級生たちは「おい不用意に近付くなよ」「ぜったい罠だぜアレ」と囁き合っている。日々の行いの重要さがよく分かる光景だ。
僕が声をかけると、泣きながらも顔を上げて「おはよう伊作くん…」と弱々しい声で挨拶をする衣織さん。でも同時に卵をパカッとご飯の上で割っていたから、実は大して弱ってないのかもしれない。相変わらずよく分からない人だなぁと思いながらも僕は衣織さんの前の席に腰かけた。
「何か、悲しいことがあったんですか?」
「……うん。どうして半じゃなくて丁にしなかったのかなァっていう後悔と、自分のことが許せない苛立ちで涙が止まらなうわァァァッ!醤油入れすぎたもうダメだ私のバカぁぁぁッ!」
つらつら喋りながら卵かけご飯に醤油をたらしていた衣織さんが、いきなり泣き叫びながら机の上に突っ伏した。し、醤油の入れすぎって、そこまで悲しむようなことなのかな…。
とりあえず丁や半という単語から察するに賭事の話なんだろう。で、負けてしまったから泣いていると。よし、事情は大体分かったぞ。それにしてもこの世界に来てからまだ一週間ほどしか経ってないのに賭場に行こうと思えるなんて、度胸のある人だなぁ。
「元気出してください衣織さん。ほら、なにも全部使っちゃったとかじゃないんでしょう?だったら落としたとでも思って忘れれば、」
「全部使っちゃった…」
衣織さんには度胸があり過ぎたらしい。
「………ほら、なにも借金しちゃったとかじゃないんでしょう?だったらまだ大丈夫ですよ、またアルバイトなりすれば取り戻せますよ」
そう励ませば、いくらか元気を取り戻したらしい衣織さんは笑顔を浮かべながら「そうだよね、卵かけご飯もまた取り戻せるよね!」と言って僕と自分の茶碗を流れるような動作で取りかえる。あれ?僕、卵かけご飯については一言も励ましてないよね?交換しますとも言ってないよね?
けれど嬉しそうに新しい卵を割っている衣織さんの姿に今さら返せとも言えなくなってしまった僕は、目の前に置かれた卵かけご飯をただ黙ってひとすくい口に入れた。しょっぱい。
そんな早朝の一幕があった日の、昼前。
「あのねきり丸くん。よくよく思い出してみたら土井さんは人妻じゃなくて女教師って言ってたのかも。そこを私がちゃんと覚えてなかったから土井さんあんなに怒っちゃったんだねェ」
一年は組のきり丸に神妙な顔で話しかけている衣織さんを見つけたのは運動場を通りがかった時のことだった。話の内容はまったく分からないけれど、きり丸が呆れた表情を浮かべている様子からするに大した話ではないんだろう。それにしても衣織さん、また土井先生を怒らせたんだ。土井先生にはそろそろ胃薬を持って行ってあげた方が良いかもしれない。
すると、そこへ愛想の良い笑みを浮かべながら衣織さんに近付いていく人影が一つ。あれはきっと不破雷蔵じゃなくて鉢屋三郎の方かな。とんとんと肩を叩かれて振り返った衣織さんは、鉢屋三郎を見て不思議そうに首を傾げていた。
「すみません、いきなりの不躾な質問で恐縮なんですがちょっと衣織さんに確認させていただきますね。あのですね、衣織さんはもう、私の名前と顔を、覚えてくださいましたか?」
「うん?……うん。もちろん覚えてるよ。この前会ったよね。久しぶりだねェ元気だった?」
「じゃあ私の名前を言ってみてください」
「あー、悪いけど今忙しいからさァ、今度また会った時に言うね」
ぜったい覚えてない。
さもあえて言わないだけなんですよ、という態度を取り繕って「じゃ!」と笑顔で手を振りながら立ち去ろうとする衣織さん。ここまで会話を適当に済ませられるなんてある意味スゴい人だ。今までどうやって生きてきたんだろう。
「………あれ、おっかしいな前に進まないぞー?さながら原作のストックが足りなくて展開を引き伸ばしてばかりいるアニメのごとく前に進まないぞー?」
「ちょっと何を仰ってるのか分からないので反応できないですね」
襟首を掴まれてもがいていた衣織さんは、鉢屋三郎の台詞を聞くとしょんぼりしながら「無茶振りしてゴメンね」と呟き大人しくなった。
「別にいいんです、衣織さんがまだ私を覚えてないことは予想がついてましたから。えぇ私は気にしていませんよ。麻婆豆腐の件だって気にしていませんよ」
「麻婆豆腐?何それ」
「もちろんその反応も予想通りです。私は気にしていませんよ」
そう言いつつも鉢屋三郎の目に涙が浮かんでいるのを僕は見た。ぜったい気にしてるよアレ。首傾げてないで早く思い出してあげて衣織さん。
「しかし名前と顔を覚えてもらわないことには色々と支障がある。そこで考えたのですが、私に対して強い印象を感じれば流石の衣織さんも私のことを覚えることができるのでは?という結論に至りまして」
「あー、確かに。瞳孔が開きっぱなしの目で何かあるとすぐに切腹させようとしてくる男とか、ゴリラと区別がつかない容姿で好きな女を四六時中つけ回して脱糞したりする男とかだと嫌でも覚えちゃうもんねェ」
「とてつもなく高いハードルを示すのは止めてもらえますか衣織さん。私には変装しかないんですから。それで勝負するしかないんですから」
鉢屋三郎がかつてないほど必死だ…。それにしても衣織さんの言うような男が果たしているものだろうか。瞳孔が開きっぱなしとか脱糞とか、ちょっと普通じゃ考えられない気がするけど。
「じゃあ君は今から何か強く印象に残ることをするの?」
「じつは私は変装名人と呼ばれてまして、」
次の瞬間、不破雷蔵の顔が五年い組の久々知兵助の顔に変わっていた。
「う、わァァァ…!」
「見知った者の顔になら誰でもなれますよ」
さらには、しんべヱの顔から竹谷八左ヱ門の姿へと一瞬で変わってみせる鉢屋三郎。うーん上級生の僕から見ても見事だとしか言いようのない変装だ。衣織さんも興奮した様子で拳を握りしめているし、とても気に入ったように見える。
「誰か変装して欲しい者はいますか?」
「それじゃ、ぜひとも土井さんの姿で伝子さんの物真似を……!」
「えッ」
えッ。
……その後の衣織さんの要望といったら色々と酷いモノだった。仕事ができる小松田さんとか安藤先生のようにオヤジギャグを言う仙蔵とか、見てる方も微妙な気分になるようなモノをぽんぽん口にする衣織さん。
そんな要望に全て応えてみせた鉢屋三郎は本当にスゴいと思う。僕なら途中で心が折れる。絶対やりたくない。生き恥を晒すのは嫌だ。それならまだ不運と呼ばれている方がマシだ。
「本当にスゴいね!変装名人の名前は伊達じゃないねッ!」
「覚えましたかッ!?言っときますけど変装名人が名前じゃないですからね、鉢屋三郎が本名ですからね!?」
「………え?あ、あァ、もちろん分かってるって!変装名人の鉢屋三郎くん、良いモノ見せてくれてありがとー!ブラボー!ブラボー!」
「あっぶねぇぇぇッ!やっぱり間違えて覚えかけてたこの天女!」
ピタリと動きを止めて考える素振りをした衣織さんを見た鉢屋三郎がサッと顔を青ざめた。近くで見ていた僕も一瞬ヒヤリとした。ここまでやって間違えた名前を覚えられたんじゃあ、流石に報われなさすぎる。
「いいですか、念のために確認しますよ。私の名前は?」
「変装名人の鉢屋三郎くーんッ!」
「もう一度!」
「変しょう名人の鉢屋三郎くーんッ!」
言えてない。
けれど鉢屋三郎は少しくらいの言い間違いは気にしないのか「見てろよ天女ここから巻き返してやるぁぁぁッ!」と、どこか嬉しそうに叫びながら走り去って行く。それを見送った衣織さんは何かを納得したような表情で頷いていた。
「なるほど、鉢屋三郎くんであって鉢屋三郎くんじゃないんだ」
なんか嫌な予感。
―――そして、午後。薬草園の手入れから医務室に戻る途中、箒を振り回して集めた木の葉を散らかしながら「木の葉隠れの術だってばよ!」と叫んでいる衣織さんの姿を見かけた。
相変わらず元気いっぱいだなぁと思いつつ声をかければ、クルリと振り返った衣織さんは満面の笑顔で、こう言った。
「あ、善法寺伊作くんに変装してる鉢屋三郎くんじゃないの」
えぇー。
慌てて「違いますよ、僕は本物の善法寺伊作ですよ」と言っても「またまたァ。私には君の変装なんてお見通しなんだからね」とニヤニヤ笑いながらわき腹を肘でつついてくる衣織さん。どうしよう、こんなに自信満々の衣織さんがなんだか可哀想に思えてきた。今度視力検査でもしてあげるべきだろうか。
その後も衣織さんはすれ違う人みんなに得意気な顔で「君は鉢屋三郎くんの変装でしょう?」と声をかけていた。鉢屋三郎は分身の術なんて使えないにも関わらず、みんなに声をかけていた。
土井先生は無視した。吉野先生は「私も努力しましたが、もうアナタは手遅れなのかもしれませんね」と悲しそうな顔をした。山本シナ先生は綺麗な笑顔を浮かべたまま立ち去った。伊賀崎孫兵は「ごらんジュンコ。今度の天女はよっぽどの阿呆だよ」と言って愛蛇に微笑んだあと、衣織さんを見て鼻で笑った。
そして衣織さんは、本物の鉢屋三郎にまで同じ台詞を吐いた。
「何やってるんですか衣織さん、本物の鉢屋三郎は私だけですってば」
「ほらやっぱり。私に変装なんて通用しないんだからね」
「いや、確かに私は今も不破雷蔵の顔に変装してますけれども、これはそういう意味での変装ではなくてですね、」
「ほらやっぱり。変装してるんじゃん」
「おかしい、何かがおかしい。こんなの思ってたのと違う」
頭を抱える鉢屋三郎の肩にポンと手を置いたのは久々知兵助だ。
「もしかしてこの人、名前だけが記憶に残って顔の記憶は飛んじゃってるんじゃないのか?」
……あぁ、なるほど。要するに衣織さんは変装名人の鉢屋三郎という単語だけを覚えて、それを本人と結びつける作業を忘れてしまったらしい。例えば学園長先生本人と喋っているのに『そういえば、この前学園長先生がこんなことしてたんですよ』と話すような、ちぐはぐな感じになってしまっているのだ。
これが演技じゃなく本気なのだからスゴい。むしろ演技の方が良かったとすら思う。本当に、衣織さんは今まで自分の世界でどんな風に生きてきたんだろう。
「…………あ」
どうやら鉢屋三郎も気付いたらしく、しまったという表情を浮かべてみせる。そういえばさっき沢山の変装を衣織さんに見せていたっけ。目を小銭にした戸部先生とか。あれで衣織さんの記憶がごちゃごちゃになってしまったに違いない。
「……もういい。もう諦める。変装という武器すら失った私なんて何の価値もないんだ。どうせ私の人生なんて天女に翻弄されて終わるんだ」
そう言ってトボトボ歩いて去って行く鉢屋三郎を慌てて追いかける五年生の仲間たち。仲が良いなぁと思ったものの、彼らの台詞をよく聞いてみると「諦めるなよ三郎!お前にはまだ不敗神話があるじゃないか!」「そうだタソガレドキ忍軍の組頭に負けるまでは不敗だった!」「そうだ、あの時までは不敗だった!」と、ちょっと微妙な内容だった。やっぱり本当は仲悪いのかも。
けれどそれから医務室に戻ってみれば、なんとその五年生たちがズラリと並んで正座してるじゃないか。え、何これ。
「善法寺先輩、じつは折り入ってお願いが」
そう静かに話を切り出してきた不破雷蔵の話を要約すれば、つまり彼らは衣織さんに自分たちのことを覚えさせて欲しいらしい。今のところ生徒たちの中では僕が一等衣織さんと親しいから出来るだろうと。いや、親しくても記憶力はどうにも出来ないって。
きり丸に駄賃を渡せばやってくれるだろうと言ってみたものの、それは不破雷蔵がさせたくないようだ。そして名前を間違えるのは誰でもあることだから気にしなくてもと言ったら鉢屋三郎にキレられた。これは自分でも失言だったと思う。僕が先輩だってこと分かってる?と言ったら静かになったけど。
そんな、渋る僕を決断させたのは、久々知兵助の言葉だった。
「………善法寺先輩が天女様の件を穏便に済まそうとしていることは知っています。ですが衣織さんのことを知る為の協力ぐらいなら、良いじゃないですか」
「それは、」
「このまま衣織さんに対する判断が付かないようでは逆に危険ですよ。学園内には天女様を恨んでいる人間なんていくらでもいますから」
「………………」
僕の脳裏に、あの時の記憶がよぎる。血塗れになった手。泣き顔。土下座までしたのに報われなかった悲しい結末。
「それに衣織さんが良い人だと分かれば我々だって何もせずに済むのですから、お互いの為にもなりますし」
「………そうだね」
あの時の記憶で表情が歪むのを感じながらも、僕は静かに頷いた。
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(ふと疑問に思う)(衣織さんでも笑うことができない時はあるのだろうか)(泣くことすらできないほど辛い瞬間が)