しゅ、とわたしは綺麗に洗われた割烹着に袖を通した。後ろ手に紐を結び、裾を整えると、わたしはがらんどうに近い自分の部屋をぐるりと見回す。少し前までもうすこし物があったのに、今や本当に何もない。あるのは、少しの服と布団ぐらいのものだ。わたしは、寂しいくらいにがらんとした自室に、ゆっくりと溜息を吐き出した。昨日帰ってきてから聞いた、わたしがいない間に起こったこと。あのひとが、ここに来たこと。お大事に、とひとこと残して、帰っていったこと。避けられない現実たち。わたしは、手に握りしめていた三角巾を頭に巻いた。もう、わたしは、進むしか道は残されていない。きゅ、と後ろで結んで、わたしは店に繋がる戸をがらりと開けた。



day 6


「ちょっとこっち注文」
「はい、ただ今!」
「あんだんご、まだー?」
「はい、ただ今ー!」


僕は、店の中に響く元気な声にそろりと振り返った。おやつどき、店はひっきりなしにやって来るお客さんをさばくのでてんてこ舞いである。かくいう僕も手はそろばんを弾いてお勘定をしているのだが、店の中で給仕に走り回るなまえが気になって思わずちらちらと振り返ってしまう。なまえの様子が、昨日からおかしい。昨日からというより、正しくは昨日串の追加注文から帰ってきて、僕が昼間に尋ねてきた『彦一』なるひとのことを告げてから、だ。表面上では分かった、とそれだけ言ってにこりと笑っていたけれど、その笑顔がぎこちないものであったことは明らかだった。今日も、くるくるとなまえは走り回っているけれど、何だか無理をしているかのような、わざと忙しく自分を追い詰めているような、そんな気がしてならなかった。貼り付けたような笑顔を見せて注文を取るなまえが見える。その度にぎゅ、と胸の奥が締め付けられて、苦しくて、思わず僕は唇を噛んだ。


「…………せん」
「……へ?」
「あのう、すみません」
「…あ、ご、ごめんなさい、申し訳ありません」


目の前で不思議そうな表情をした女性にお釣りを手渡して、僕は気を取り直してありがとうございました、と声を上げた。まだ、お客さんは沢山いる。今は、店に集中しなくては。



_


ちゃぷ、と桶に溜めた水で手を洗って、僕は腰に掛けた手ぬぐいで手を拭いた。水の冷たさで感覚がまだ戻らないが、とりあえず僕が今日中にやらなくてはならない明日の分の仕込みは終わった。ふう、と息を吐くと、淡く白いもやが視界に広がる。もう少ししたら、日付が変わるくらいの時間だろうか。なまえはもう、眠ってしまっているかもしれない。けれど、僕にはなまえに聞きたいことが、いや、聞かなくてはならないことが沢山ある。もう、僕にも、多分なまえにも、時間は残されていない。まだ仕込みを続ける親方にひとこと言い置いて、僕は店の調理場から出た。

店の裏から出るとすぐに、なまえと親方、そして今は僕も住んでいる長屋がある。真夜中の空気の冷たさにぶるり、と震えながら、僕はなまえの部屋の戸を静かに叩いた。返事は、ない。もう一度、なまえいますか、と声をかけながら戸を叩く。戸を叩いた余韻が消えると、しん、と辺りは静まり返っていて、ひとが居そうな気配が感じられない。僕は意を決してがらりと戸を開けるが、やはり部屋はがらんどうであった。なまえはもちろん居ないが、家財道具というものが何も中には無かった。どういう、ことだ?僕が入り口で立ちすくんでいると、突然、しかも上から、抑えられた声が降ってきた。


「みたらしくん、こっち」


見上げると、屋根の上からなまえの顔だけがひょこりと出ていた。




_

「びっくりしたでしょ」
「当たり前です!なまえの首だけ見えるんですもん、びっくりしますよ!」
「あはは、ごめんごめん」


あまり申し訳ないと思っていなさそうな口調で、なまえは隣に腰掛けた僕に謝罪した。初めて座る長屋の屋根は、思っていたより高い。恐怖を感じる程ではないが、ご近所さんあたりなら楽々見渡せる高さだ。当たり前のことだがぐるりと見回しても人っ子ひとり、ましてや屋根の上にいるひとなど自分たち以外には誰も居なかった。なまえにここにいる理由を尋ねると、考えごとをしていた、らしい。ひとりで考えごとをするときにはいつも屋根の上に登るんだとか。確かに、ここなら静かだし、空が見えるし、ひとりで考えごとをするにはもってこいの場所かもしれない。


「…やっぱり、星を見てると、何だか落ち着いてくるんだよね」
「……ちょっと、わかります」
「ちょっとかい」
「あ」


僕がしまった、という表情をすると、なまえはくすくすと肩を震わせて笑った。………けれど、勘違いかもしれないが、すこしだけ、ぎこちなくも感じた。


「みたらしくん、何かわたしに用事?」
「え?」
「ほら、探してたし、わたしのこと」
「あ、それは、」
「彦一くんのこと?」


なまえは表情をあまり変えずに、さらりと僕の聞きたかったことを口にした。僕が言い訳も出来ずにただ頷くと、なまえはこちらをちらりとも見ることなく、言葉をつづけた。一見、何の脈絡もないことを。


「みたらしくん、本当に仕事さまになってきてるよね」
「……そうですか?」
「うん」
「うれしいです、ありがとうございます」


突然飛んだ話に戸惑いながら返事を返すと、なまえはそのまま、予想だにしていなかった言葉を口にした。


「うん、安心して出て行けるよ」
「はい…って、え、どこに出て行くんですか」
「お嫁にだよ、彦一くんのところ」


ガン、と頭を鈍器で殴られたような衝撃が脳に伝わった。耳の奥が、くらくらする。いま、なんて。ぐわん、と耳鳴りが突然始まったようにも思えた。お嫁に、いく、と?張り付いた喉の奥のほうを無理矢理引きはがして、僕はどうにか声を発した。


「……し、らなかったです」
「当たり前だよ、言わなかったんだもん」
「それは!…そう、ですけど……」
「うん」
「……いつ、行くんですか」
「明日」
「あした!?」
「うん、あした」
「………………」
「…なんで黙っちゃうの」
「……だって、突然すぎて、」
「うん、ごめんね」


予想だにしていなかった告白に、僕の脳はまだついていけていない。厭に自分の呼吸音がひゅうひゅうと耳に入ってくる。それに混じって、ぐわん、と耳鳴りのような何かが鼓膜を揺らした。どうしよう、どうしたら。もう分からなかった。自分が何をしたいのか、すべきなのか。なまえは、あのひとのことが、すきなのか。本当に、そうなのか。自分が着ている仁平を思わずきゅ、と握りしめる。いつのまにか噛み締めていた唇を開けば、口をついて自分の声が流れ出た。


「あなたが、すきです」


午前零時を、過ぎていく。
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