保健室というものは、いつ来ても不思議な感覚がする。学校の中にあるにも関わらず、学校とは違った空気があって、違う世界に来たような、というと大袈裟だが、自分がそこにいると感じるちいさな違和感が身体を少しだけ固くする。ああ、例えば、友達の家に遊びに行ったときのような感覚に少し似ている気もする。目の前の男は、別に友達でも何でもないし、ここは彼の部屋でもないのだが。保健室であるにも関わらずふう、と煙草の煙をふかしているこの男は、やはりいつ会ってもよく分からない。今までこの男が話していたことも、本当かどうかなんて僕には分かりっこなかった。


「なんだよ少年、んな恐いカオして見んなよ」
「貴方の言うことはいつも信じられないんで」
「イカサマするお前に言われたくねー」
「勝負は負けたくないんで」


でもこういうことで嘘をついたりしませんから。しれっとして言うと、ティキ・ミック保健医はへえ、と聞いてイラッとする口調とトーンで返事を返して、また椅子に座り直した。ぎしりと音を立てて椅子を少し回した保健医は、灰皿に煙草を押し付けてまた新たな煙草を一本取り出した。


「今の話は本当なんですか」
「ああ」
「信じられません」
「何でだよ」
「何でだよって……当たり前じゃないですか」


あのラビに限って浮気はない、と言いかけて、その言葉に何の説得力もないことに気づいて止めた。ラビは自他ともに認めるタラシである。ストライクと叫んだ女性の数だって数え切れない。なまえにだって、ラビがサボりをした時には、女の子をはべらしてるんじゃないの、と言われていたぐらいだ。でも、と僕はこころの中で呟く。僕が知る限り、二人はラブラブ、と言うと何か違うような気もするが、とりあえず仲は良かった。すこぶる良かったと言ってもいい。なまえのほうの気持ちはリナリーに聞かないと何とも言い難いが、ラビに関しては自信を持ってなまえへの気持ちは確かだったと言える。ずっと隣に居たのだから、言葉にしなくても分かるところだってあるつもりだ。


「ラビは、そりゃヘタレだし、女の子すきだし、チャラチャラしてるように見えますし実際そうだと思いますけど、」
「散々だなおい」
「なまえのことは、本当にすきですよ」
「……………」
「浮気なんて、ありえませんよ」
「…人間どんなもんかなんてわかんねーもんだぜ」
「ないです」
「…じゃあなまえが見たのは何だったわけ?」
「それこそ、貴方が嘘をついてるんじゃないんですか」


僕が返した言葉に、ティキ・ミック保健医は少しだけ目を見開いた。僕の目を見つめた後、ふっと笑ってまたゆらりと煙草の煙をくゆらせる。余裕、ともいえるその仕草にかちんとくるのは多分僕だけではないはずだ。ひととして自然な感覚のはずだ、うん。


「なに、何でオレが嘘つかなきゃなんないわけ?」
「…………」
「なんだよ」
「…こんなこと言いたくありませんけど、なまえに貴方が手を出したならば嘘もつきますよね」
「……………は?」
「僕は、最初ここに来たときも言いましたけど、貴方が彼氏のいる女性…なまえに手を出したんじゃないかと思ったのでここに来たんです」
「…………」
「どうなんですか?それを隠すために、なまえがラビが浮気しているのを見たと言ってるなんて、嘘をついたんじゃないんですか?」


苛々も重なって、僕はたたきつけるように言葉を並び立てた。この男には、何だか全てすり抜けられていくような気がして、逃がしはしないとその両目を睨みつける。不思議な光を宿した瞳は、こんな時でも妖艶に揺らめいた。この男が醸し出す雰囲気は、色男のそれである。体育大会でこの保健医に抱えられて保健室に行って以来、なまえは頻繁に授業をサボるようになった。最初は休み時間ぐらいであったのに、最近は授業をサボるまでになり、お昼を過ぎてようやく戻ってくることもしばしばだ。聞けば保健室で寝ていたと言うなまえには、それ以上は聞けずじまいで。ラビと話している姿など、体育大会以来見ていない。まして保健室にはあのティキ・ミックがいる。そんなこともあれば、下世話なことだが、何かあったのではないかと考えても別におかしくはないだろう。そうなると、なまえにも非があるのは避けられないが、ティキ・ミックに強引に迫られたとなればまた話は違ってくる。じい、と見つめた両目はふっと音もなく笑って、ティキ・ミックは煙草から唇を離した。


「つまり、オレがブックマンの跡取りからアイツを寝取ったってコトか?」
「…そうです。違いますか?」
「ああ、違うな」


いつになく冷静な口調でそう言ったものだから、僕は反論も出来ずに口をつぐんだ。彼の指先に挟まれた煙草からゆらりと白い煙が立って、開け放された窓から消えていく。彫刻のような曲線を描く横顔が、ゆっくりとこちらを向いた。


「アイツ以外、誰にも言うつもりはなかったんだけどな」
「………え?」
「オレは、」


がらり、と戸が動く音が保健医の言葉を遮って響いた。ふっとティキ・ミックが動かした視線の先を目で追ってゆっくりと振り向けば、その両目を真ん丸にした噂の少女がひとり、保健室の目の前で立ちすくんでいるのが見えた。


「…え、ア、レン?」


高すぎはしない少女の声が、小さく保健室に反響して消えた。



大切なことは、いつもタイミングを失うらしい

11/11/09
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