一瞬息が止まった。ああ、全てがスローモーションに見えるって、こういうことなんだなと思った。歩道にぽつりと立つわたしの目の前を、後ろを、せわしなくひとがすり抜けていくけれど、わたしの焦点はそこには合わなくて。ガラスのショウウインドウの向こう、最近できたばかりのいま話題のカフェの窓際の席に、わたしの視線はくぎ付けだった。ここ、今度リナリーと一緒に行こうって言ってたとこだ。ガラスに印されたこのカフェのマークが視界の端に映ってそう思った。………ううん、そう頭を働かせて、瞳から流れ込んでくるあの情報を、映像を、打ち消そうと、した。


「なんで、」


だめ、消せない。見たらだめなのに、わたしの視線は彼から外すことができない。少しだけ息を吸うと、ひゅう、と喉が鳴る音が鼓膜を揺らした。ガラスの向こうの、彼のだいだいいろの髪が揺れている。ふにゃりと溶けるような笑顔を見せた彼の視線の先、彼の目の前の席には、わたしからは顔を見ることができないけれど、綺麗な黒髪を微かに揺らす後ろ姿が覗いていた。その瞬間わたしは確信する。あれは神田ではない。綺麗な黒髪の、女のひとだ。

わたしは無意識に後ろに一歩下がっていたようで、どん、と歩道を歩くひとにぶつかった。すみませんと呟いたはずなのだけれど、わたしの声はわたしの脳に届かなかったのか、よく覚えていない。一瞬外れた視線を元に戻しても、彼の笑顔と彼の視線の向かう先は変わらない。なんで、ラビ。わたしは瞼をじわりと満たした液体を零さないように、ぎゅ、とてのひらを握りしめた。今日、生徒会の仕事があるって言ってたよね。だからわたしが映画観たいって言ったの断ったんだよね?いつもみたいに困った顔して、ごめんなって言って、わたしの頭にぽん、っててのひらを乗っけてくれたんだよね?歪んだ視界を戻すように、わたしはふるふると頭を振った。ねえラビ、あのごめんの意味は、本当は違ったってことなの?


「ラビ、」


唇から無意識に零れた呟きなど届くはずもないのに、ラビはわたしの呟きに合わせるかのようにふっと視線をこちらに向けた。と同時に、わたしは直ぐに下を向いてその場を後にしていた。小走りだったわたしの足は、あのカフェから遠ざかるほど速くなっていって。何回か角を曲がったあとに、わたしは息の苦しさもあって足を止めた。


「、はあ、っ、は、」


どくどくと速い鼓動が鼓膜を震わせて、わたしはそっと胸に右手をあてる。唇から漏れる嗚咽はまだ止みそうにない。わたしは左手を、冷たい路地裏の壁につけた。3月の空気に当てられた壁は、いたいぐらいに冷たかった。ぶるりと身体が震えた。ああ、だめだ。瞼を閉じると、真っ暗闇のなかに翡翠色が光る。さっき一瞬、目が合ってしまった気がする。彼の翡翠色の瞳が、不意にこちらを向いたとき、わたしはすぐに顔を伏せて去ったけれど、彼は勘も記憶もいいひとだから、わたしがみていたことに気づいてしまったのではないだろうか。そうしたら、わたしは次に彼に会ったとき、彼を追求しなければならなくなる。彼がへらりと笑って、言い訳をするのを聞かなければならなくなる。別れなければならなくなる、かも、しれない。やだ、いやだよ、ラビ。



_

わたしとラビは付き合っていた。過去形にするのが正しいことなのか、それとも今でもわたしは彼女であると胸を張るべきなのか、今のわたしにはわからない。けれど、あの日から数えて初めて会った始業式の日、ラビはいつも通りにわたしに接した。わたしは気まずくて気まずくて、同じクラスになったと知ったときには早退しようかとも考えたけれど、今日一日をそれで乗り切れたって何の解決にもならないと思ってそのまま学校に残った。生徒会長なのによくサボる彼は案の定朝からわたしに会うことはなかったけれど、それで勝手にもほっとしてしまったつかの間、彼はわたしとアレンのところに現れて、今までと変わらずへにゃりと笑って話しかけてきた。その様子にわたしはひどく驚いたのだけれど、彼がわたしに本当にあの日気づかなかったのか、それとも気づいたけれど知らないふりを通そうとしたのかわからなかったから、わたしは彼がそうしているようにいつも通り接することに決めた。見なかったふりをすることに決めた。このことに賛否両論あるかもしれないけれど、わたしはラビのことがすきだったから、それでも彼女でいたいと思ってしまったの。

でもちょっとずつちょっとずつ、わたしの中でちいさなひずみが生まれてしまった。時折フラッシュバックするあの日の映像が消えてなくなることはなくて、決定打となったのは体育大会の日のことだった。ラビに楽しげに話しかけてかごを渡す後輩の女の子と、ふにゃりと笑うラビ。重なる黒い髪の女の子の残像に、心臓がぐらりとゆれるのを感じた。やっぱり、見ないふりをして蓋をするなんて無理だった。なんでラビはそんな風に女の子と話すの。へらへら笑って、ばかみたい。なんでわたしはこんなラビがすきなの。わかんない。全然わかんないよ。ばか。


体育大会の日から、わたしはラビと今まで通り接することができなくなった。どうしても、ラビのあの笑顔と、女の子の後ろ姿が瞼の裏から剥がれなくて、まともにラビの顔を見られない。関わりを持つまいとすると、いつもラビとアレンと一緒にいたわたしにはもう逃げ場は保健室しかなくて、縋るようにわたしはティキに助けを求めたのだ。何かわたしに助言のひとつやふたつくれたりするのかと思っていたけれど、ティキはただ黙ってわたしの話を聞いていた。だけど、わたしには何だかそれがすごく心地好くて、なによりありがたかった。こうして逃げることは、何の解決にだってならないことはわたしだって分かっている。けれど、まだわたしには彼と対峙できるぐらいの勇気なんてなくて。そしてわたしはまた保健室のドアを開けてしまうのだ。誰かが、ティキが、ほんの少しでも、背中を押してくれることを期待しながら。彼はただ、黙って煙草をふかすだけだけれど。


わたしは他に例を見ないほどの臆病者らしい

11/11/05
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