外はじめじめと梅雨の装いを見せているけれど、ここはなんて快適なんだろう。確かに、少し淀んだ空気が纏わり付く感じが無いわけではないけれど、静かに働く空気清浄器のおかげで、わたしがこの学園の中で唯一深呼吸をすることができるのはこの場所だ。最近は、この男の存在も、まあ深呼吸ができる理由のひとつになってはいるが。


「お前紅茶好きか?」
「ふつう」
「可愛げのねー答え方すんなよ」
「ふつうにすき」
「………………」


わたしが保健室ならではの白いベッドにごろりと寝転んだままそう答えると、当のティキ・ミック保健医は何の返事も返して来なかった。ちょっと待っても何の反応も無いので、ベッドを仕切る白いカーテンをシャ、と開けると、ティキに後ろ手でカーテンを戻されてわたしの視界は遮られた。なんだよ。そんなに紅茶作るとこ見られたくないんかい。わたしはぶすっと唇を尖らせて、少し固めのベッドにぼすんと身体を沈めた。うん、やっぱりちょっと固い。後でティキに苦情をいれておこう。わたしは真っ白の掛け布団を両手で引っ張り上げた。



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ずず、とカップの中の茶色い液体を啜ると、鼻を心地好い香りが抜けていって、わたしはほう、と溜息を吐いた。美味しい。ふつうに美味しい、じゃなく、かなり美味しい。ティキって偏食っぽいイメージを持っていたから、こんな本場英国仕様的なものを出してくるなんて予想外すぎて少し可笑しい。このカップが、何か検査に使う紙コップではなく、アンティークの可愛いカップだったら言うことはないんだけど。わたしは、事務椅子に腰掛けて同じように紅茶を啜る(ちなみにカップはかの有名なピンクのアレである)保健医の顔をちらりと盗み見た。


「なんだよサボリ女子高生」
「……なにその棘のある言い方」
「こちとらなんもないのに毎日のように来られると仕事増えて迷惑なんだっつの」
「いいじゃん、ひと来ないとさみしーでしょ?」
「お前に心配されるほど退屈してねーっつの」


カタン、とプラスチックのカップを事務机に置いて、溜息とも言える息を吐き出しながらそう言ったティキは、事務椅子をぎしりと揺らして立ち上がった。かと思えば、スリッパの音をぱたぱたと鳴らしながらこちらに近づいてくる。近づいてくる、といっても元々の距離だって2メートルもないのだけれど。固めのベッドに腰掛けたわたしの目の前に来たティキは、すっとその長い手をわたしに伸ばしてわたしの顎を細い指先で掴むと、ふっと妖艶な笑みを浮かべて言った。


「それともなに、お前がオレを慰めてくれんの?」


ぞわりと背中を何かが駆け抜ける感じがして、わたしは少しだけ身をよじった。思わずぺちり、とわたしの顎にかけられた彼の手を叩くと、おーいて、なんて大袈裟に手を振って彼はわたしから離れる。なんなんだこのひとは。わたしは甘い痺れの余韻が残る背中を片手でそっと押さえた。あの時一瞬、彼からすごいオーラが出たのが手に取るように分かった。オーラというか、………そうだフェロモンだ。ぶわ、と彼からフェロモンが溢れてわたしを一瞬包んでいった。念のためいっておくけれど、イメージだからね。実際に何か彼から出てたわけじゃないからね。でもすごかった。彼の指先に、表情に、わたしの中の何かがぞわりと震えた。これが20代後半の色気というやつなのだろうか。やっぱり違うなあ。わたしと同い年のあいつらも、大人になったらこんな風になるのだろうか。わたしは、一瞬頭の中に浮かんだひとの姿を、ぶんぶんと頭を振って掻き消した。


「なに、お前オレに惚れた?」
「どこをどう解釈したらそういう答えにたどり着くのか説明してください」
「惚れてるやつはみんなそう言うの」
「うっそだあ」


どこからそのとんちんかんな自信が生まれてくるのか見てみたいほんとに。すっと髪を掻き上げながら紅茶に口をつける姿は確かにかっこいいとおもうけれど、そんな性格を知って彼の歴代の彼女さんたちは幻滅しなかったのだろうか。わたしはそんな彼の姿をじと目で見ながら、ばふんと保健室の白いベッドに沈んだ。もちろんカップは中身を零さないように両手で支えてお腹の上で持ちながら。


「おい、ここに居座んなっつの」
「いーじゃんべつによー」
「よくねーよ。お前が最近授業サボってんじゃないかってお前の担任につつかれてんだよ」
「コムイだから平気平気」
「平気じゃねえよ。あいつ意外とお偉いさんだから目えつけられたくないの」
「だめよそんな、権力に染まるようなこと、だめよあなた」
「染まってねえしお前誰だよ」
「頼む……わたしの場所を……奪わないで」
「お前高3って嘘だろ、中2だろ」
「ちがうしー18だしー」
「とにかく居座んな」
「けち」
「お前いちおう学生だろ。とりあえず授業はサボんな」
「……………」
「逃げてんなよ」


いつもはぺらぺらしたティキの言葉が、なぜかとても重く感じたのはこの日が初めてだった。逃げてんなよ。ずしりと胸の奥にこの言葉は沈んでいく。逃げてなんてないよ、そう言える訳はなかった。わたしは逃げている。あのひとからも、事実を知ることからも。わたしは臆病者だ。叶うなら、このままでもいいと願ってしまった。見ないふりをした。今更あのひとをどうこうなんて言えない。わたしは逃げているから。もうどうしたらいいのかわたしにはわからない。だから教えて欲しかったのに。
逃げないって、どうしたらいいの?
てのひらに伝わる紅茶の温度は、もうわからないぐらいに冷たかった。


暖かい紅茶は、驚くほど冷めるのも速く感じるらしい

11/10/28
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