何時もならばなんてことのない4階までの道程が、毎日部活で鍛えているとはいえその部活後となると一変して苦しいものへと変わる。一段一段足を上げる度に痛み、とまではいかないものの体が悲鳴を上げているのが手に取るように分かった。疲れているのにも関わらずこのように3階分階段を上る羽目になった原因が、数学の教科書というのもまた加えて苦痛を伴う。おし、あと5段。


勢いを付けて一段飛ばしで一気に上り切れば、荒れた呼吸と共に溜息が流れ出た。少しずり下がったエナメルバッグを背負い直し、もう一度溜息をつく。もうすっかり日が暮れて暗闇に染まる中、廊下の奥の自分の教室に向かってゆっくりと重い足を踏み出した。


角を曲がると見えた明かりに思わず目を細めた。一番奥の部屋から白い蛍光灯の光が漏れ出ている。あれは、自分の教室だ。思わず右手の腕時計を見遣る。薄暗い中で文字盤が9と6を指していた。誰かまだ残っているんだろうか。思わず教室に向かう足取りも速くなる。誰かいるのかもしれない、もしかしたら彼女が、と思うだけで、少しだけ足の疲労感も和らいだ。


自分の教室の引き戸についたガラス窓から明るい中を覗き込めば、一番後ろの奥の席に座る、あの子の姿。こちらに気づく素振りは見せず、熱心に何か紙にペンを走らせている。邪魔をしたら悪いとは思ったが、何故か俺の手は教室の引き戸に掛かっていた。


ガラ、と古い音を立てて目の前のドアは開いた。それと同時に彼女は紙から顔を上げる。その顔は驚きの表情に染まっていた。そして直ぐに何時ものような笑顔に変わる。


「びっくりしたー。園田くんかあ」
「お、う、………何してんの、こんな遅いのに」
「え?そんな遅い時間なの?」
「今9時半」
「うそん!まじでか!」
「まじです」


気づかなかったー、なんて言いながら彼女はペンを置いて大きく伸びをした。俺は明るい教室の中に入り、机と机の間を何故かはやる気持ちを押さえ付けてゆっくりと彼女の席に向かって歩いた。


「部活?」
「ああ」
「遅くまでやってるんだね」
「バスケ部も同じ様なもんだろ?」
「あ、そう言われればそうだった」


今日は部活休み?と聞くともう一度彼女は伸びをして頷いた。彼女の一つ前の席に座ってバッグを机に下ろせば、でも、と声が聞こえた。


「何で園田くん教室に来たの?」


……あ、その事をすっかり忘れていた。教室の目の前に来るまで覚えていたはずなのに、自分でも驚くぐらいスコンと数学の教科書の事を忘れていた。そうだ、その為に重い足を引きずって階段を上ったんだ。何だか急に顔に熱が集まってきて、暑くなる。うわ、俺、何かすげー恥ずい。


「あ、その、あれだ、数学の教科書取りに来たんだ」
「あーなるほそ。今日園田くん確か当たったもんねえ、数学」
「あーうん、明日黒板書かなきゃだからさ。持って帰ろうと思って」


そう言って立ち上がり自分の机の中から数学の教科書を取り出して自分の席に座れば、よっ生徒の鑑、なんて茶化すから、俺は被せるように言葉を発した。


「あ、そっちは?こんな遅くまで何してんの?体育大会関係?」


熱くなった顔を隠すように横を向いて何でもないように聞けば、そ、と言葉が返って来た。


「ほら、今日の体育委員会でさ、あたしダメダメだったからさ、何度も園田くんにフォローしてもらっちゃって」
「いや、俺は全然大丈夫だし」
「いやいや!申し訳無いしそれに、後ろで見てた生徒会長ちょう怖い目で睨んでたし!何よ、仕事まだ始まったばっかりなのにさ、あんな睨む事無いよねえ!」
「いや、ま、そうだけど」


それは別に委員会でしどろもどろしてたからじゃ無いと思うぞ、と言うべきところなのだろうが、ぱかりと開いた口は何故か働かなかった。横で頭ぶつけた事そんなに根に持ってんのかしら、とまだ見当ハズレな事をぶつぶつと呟く彼女。
……話題、変えよう。


「競技の企画書だろ?それ。どう、進んでる?」
「あー…、色々考えてはみたんだけど…」


見ていい?と聞いてなまえが頷くのを見てから、机に置かれた紙を手に取る。白いルーズリーフに、なまえらしい文字で様々な事が書き込まれていた。


「いま字きたねーなと思っただろう園田殿」
「いや、そんなことは有るような」
「あるんかい」


はは、と声を上げて笑ってから、もう一度ルーズリーフを見る。結構沢山書いてあるなあ。紅白ではなくクラス対抗にする、学年の伝統競技は取り入れる、借り物競争やりたい、玉入れの玉を鉛入り、部活対抗リレー、個人競技は学年混合でやる、棒引きで一本取りしたい、パン食い競争を障害物に追加、先生も競技に参加、神田のメイド服w………エトセトラ。


「神田のメイド服wて」
「ああ、障害物競争に加えたいなと」
「それはなまえ………面白いな」
「ぶふっ」
「面白い……けど、一個だけこれはイカンのが有る」
「え、どれ?」
「もし仮にメイド神田の後に玉入れだったとする。………玉に鉛を入れたら、確実に死人が出るぞ」
「…………うん園田くん、これはやめる」
「健全な判断だ」


言うが早いかなまえはペンケースから赤ペンを取り出して玉入れの玉を鉛入り、に斜線を引いた。


「うん、面白いと思う。クラス対抗にするとか、いいアイデアだな」
「そう思う?毎年さ、体育大会が近づくにつれクラスがダークな雰囲気に包まれていくのが何とも言えなくてさ。クラス対抗だったら結束も固くなりそうだし、いいかなって」
「いいと思うよ、俺も」
「そうだよね!有難う園田くん!」


そういってなまえは花が咲いたような笑顔を俺に向けた。これを聞いたらウォーカーには馬鹿にされそうだが、本当に、こころからそう思ったから。そして急に、今まで忌ま忌ましかった数学の教科書が可愛いものに思えて、俺はそっと手の中の数学の教科書の背表紙を撫でた。ありがとな。何だか数学が好きになれそうだ。



……今思った。俺って現金な奴なのかもしれない。



恋は盲目とは的外れでもないらしい

10/04/29
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