08

ペンが止まる。3時間前から何度目だろうか。まだ半分も終わっていないのに、何度ペンを止めたか分からない。頭の中でペンを止めた回数をぼうっと巡らせて数秒、数え上げるのすら億劫に感じて目の前の白い紙を見遣れば、紙に付けたままのペン先に黒いインクが円を描いているのに気が付いて慌ててペンを離した。真っ白に近い紙に黒い円は妙に目立っていて、僕はその紙をくしゃくしゃと丸めて机に置く。新しい真っさらな紙を目の前に置いて、これまた何度目か定かではない溜息を吐いた。



取り敢えず半分の報告書を書き終えた僕は、ずっと同じ形だった体を解して伸びをする。ポキ、と僕の体が立てた軽い音が談話室中に響いた。談話室であるというのに僕以外誰も此処には居なくて、それゆえ話し声などひとつもしない。妙に静かな談話室の中を見回して、不意に孤独感に襲われる。いつもなら隣に座ったなまえが書くのが遅いだのまとまりが無いだの綴りが違うだの字が汚いだの五月蝿かったから、一人なら集中してすぱっと終わらせる事が出来ると思っていたのに。そうでなくちゃ、いけないのに。もう一度何回目か分からない溜息を吐いた。テーブルの上の紙コップに手を伸ばす。軽い。覗き込んでみれば案の定底の方に黄色い液体が少しだけ残っているだけだった。少しの苛々を込めてコン、と強めにテーブルに置けば、端の方に置いてしまった事も加わって紙コップはゆらりと揺れて落下した。コロコロと転がる紙コップをあ、と間抜けな声を漏らしながら目で追えば、床を滑る紙コップは黒い靴に当たって止まり、靴の主がそれを綺麗な指で拾い上げた。

「はい、アレンくん」

そう言ってリナリーは紙コップではなく、もう片方の手のマンゴージュースがなみなみと注がれた僕のマイコップを差し出した。



リナリーと黒い革のソファに並んで座り、プラスチックコップに注がれたマンゴージュースを一口啜る。

「ジェリーさんがアレンくんに持って行けって。洗った後返すの忘れてたみたいよ?」
「そうですか、僕もすっかり忘れてました」
「ふふふ」
「届けてくれて有難うございます、リナリー」
「どういたしまして。…あ、」

リナリーにお礼を言ってもう一度コップに口を付けた時、笑って細められていたリナリーの大きな目は何かに気付いたように見開かれ、そして直ぐにリナリーは笑い出した。止まった目線を辿ればコップの底に行き着く。マンゴージュースを零さないようにそっと持ち上げて底を覗くと、初めて見る模様。いや、コップを水平に保ったままゆっくりと回してみる。おかっぱ頭の顔に五芒星。僕の顔の落書きだった。コップの底の僕は可哀相に紳士には程遠い三日月のいやらしい形の目をさせられて、おまけにご丁寧に『なまえー』なんて台詞まで言わされている。可哀相に僕。こんないやらしい顔をさせられて。マンゴージュースを零さないように爪でそっと擦ってみてもコップの底の可哀相な僕は消えない。なまえコノヤロウ油性マジック使いやがったな。今までわざわざコップをひっくり返して見るなんてことをしたことが無かったからこの落書きに気がつかなかった。書かれたのは、何ヶ月前のことだろうか。まだ温かくて、緩やかな風が吹いていた頃だろうか。

「…下手くそですね」

ぽろりと零れた言葉は何故か瞼を充たす液体に変わる。ほら、どこに居たって彼女の痕跡が残っているんだ。消そうと思っても、消えない記憶。何度指で擦っても、油性マジックで描かれた絵は、消えない。



「あのね、アレンくん」

瞼を充たすものが引くのを待って瞼を閉じていた時、リナリーの声が鼓膜を揺らして僕は目を開けた。はい、と返事を返せばまだ少し歪んだ視界の中でリナリーは聞きたいことがあるの、と伏し目がちに言った。そして脇に挟んでいた完璧に終わっているであろう報告書をテーブルに置く。

「何ですか、リナリー?」


微かに首を傾けてリナリーの大きな瞳を見つめれば、彼女はそれをゆらゆらと揺らした。詰めた息を溜息と共に吐き出して、唇を開く。その躊躇いは手に取るようにこちらに伝わった。揺れる空気。

「…なまえと神田が、任務を、……今日からの任務を繰り上げて昨日行ったらしいの。しかもなまえの希望で、ね」

嗚呼。最後まで言い切らずとも彼女の言わんとするところが分かった。そして、身体の奥が沈んでいくような感覚に襲われる。そんなの決まってる。

「アレンくん……なまえと、何か、あったの?」

途切れ途切れに聞こえた声に視界が歪んだ。喉が詰まったように息が苦しい。そんなの決まってる。僕のせいだって、そんな分かりきっていたことが現実でかたちになっただけだ。それでも。閉じた喉をこじ開けて、なんにもないです、と呟いた。馬鹿か僕は。こんな事で傷付いてる場合じゃない。口角を引き上げて笑みを作り出してリナリーに向ける。リナリーは一瞬、一瞬眉間に皺を寄せたけれど、それ以上は追及せずに瞼を伏せてそう、とだけ呟いた。僕も行き場を無くした視線を自分の手の中のマンゴージュースが注がれたコップに向ける。半分ほど入った黄色い液体でコップの底は見えなかった。一息ついて残りを一気に流し込む。そして止めていた息をそっと吐き出した。このコップを使うのは今日で最後にしよう。このコップは、捨てよう。彼女が残していった物も全て。捨てなければ、この思いも、記憶も、断ち切れない、そう思った。そんなことは思い知っていた筈なのに。あの瞬間の冷たい痛みを忘れる程に、今までが楽しくて、満たされていた。何か名前を付けるとしたら『幸福』だった。幸せ、だ っ た。



10/01/23
10/10/26加筆修正
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