06

顔は上げずに視線だけ上に動かせば、群青色に塗られた空に小さく瞬く星が幾つか見えた。その瞬きを視界に捉えていつか穏やかな、生暖かい空気に包まれながら同じ空を見上げていたことを思い出す。独りではなく、隣にあの頃は当たり前のように居た温度と共に。瞼を閉じ、もう一度開いて目を凝らせば深い青を背中に星々は無数に瞬き、この世界は闇ではなく、星に埋め尽くされているようにも思える。星に侵された世界。思えば僕も星に侵食されているんだった。ふ、とおもむろに右手を額に持ってきて左目の上の痣をそっとなぞった。まだ見える。まだ、のろいはとけない。侵食されているのは世界か、僕か。それとも。


「神ノ道化、発動」




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午前0時を少し過ぎた頃。寒さに耐える溜息を吐き出しながら古い煉瓦の町並みを横に見て宿に向かう。暗闇の中辺りを照らすのは頼りなくぶら下がったランプの街灯だけで、目を懲らさなければ身を包んだコートは暗闇に溶けて消えてしまう。静かだった。この地域は夜は人が出歩かないのか人気は全くといっていい程、無い。その原因はアクマのせいであるのかもしれないが。でもアクマが存在しなくともこの地域は何時だって静寂に包まれているような気がした。それくらい、静かだった。


あの話をしてから直ぐに任務に発つ事が出来たのは幸運だった。今思えばコムイさんがそう取り計らってくれたのかもしれないが。いくらいつも通り振る舞っても昨日今日じゃ皆が混乱しているのはもっともだし、逆にあれこれ気を遣われたりするのも避けたかった。これは僕自身の問題で、誰かの力を借りれば解決出来るようなものでもなく、今直ぐにどうこう出来るものでもない。ホームの皆に要らぬ気遣いをさせるのは嫌だった。それにこんな風にあれこれ並べ立てても、なまえと顔を合わせる事が出来ない状況に安心している自分に嫌気が刺す。最悪だ。

「アレンくん、どうかした?」

少し抑えられた高めの声に僕は現実に引き戻されて、声が聞こえた横を見れば少し眉を寄せたリナリーと目が合う。リナリーはその緑がかった髪を闇に溶け込ませていて、団服から出た白い肌だけが僕の目に入る。口角を引き上げて大丈夫ですよ、と微笑めば、彼女はその眉間のしわを更に深くした。

「急にどうしたんです、リナリー?」

口角を上げて笑ったまま逆に聞き返すと、リナリーは俯いて暫く黙った後、前に視線をさ迷わせてためらいがちに口を開いた。

「…何だか、本当になんとなく、ね、」
「……はい」
「……アレンくん、さっきアクマと戦う前、……迷っているような、そんな気が、したの」


そんなこと有りませんよ、と直ぐに答える筈が、石のように固く閉ざされた唇はまるで僕のものでは無いかのように動いてくれない。

「…………」
「アレンくん、」


閉じたまま固まった唇を無理矢理に引き剥がしてさっき言う筈だった言葉を発した。

「僕が自分で決めたことですから」

悩んでなんていません。全て僕が自分で決めたことなのだから。命が尽きるまで歩き続ける事も、14番目が教団を襲うなら止めてみせる事も、彼女に別れを、告げる事も。全て僕の意志だ。そこに誰かの影は無い筈だから。だから後悔なんて無い。迷う事なんて無い、はず、なのに。


「リナリー、大丈夫です。心配しないで下さい」


彼女のアレン、と呼ぶ声とか、にっと笑った顔とか、僕の物真似をしてふざけている姿とか、ファインダーを救う事が出来なくて泣いて震えている背中とか、あの、白い、苦しいくらいに握り締められた手、とか。そんな物ばかりが目に浮かんで、心の隅を焦がすんだ。それを手放すと決めたのは自分なのに。否、本当にあれは自分だったのか。僕が自分だとそう思っているそれがもう侵され始めているのだとしたら。もう僕は僕で居られないのか。自分が自分であるかさえ、分からなくなり始めているのか。分からなかった。本当に僕は馬鹿だなと思って、自嘲気味に、笑った。

「…アレンくん」
「前を向いて、歩いて行きますから」

そう、前だけを向いて。もう振り返らない。それしか方法は、無いから。だってこのこころの端っこが焼かれたような気持ちは僕のものでなくて誰のものだと言うのだ。たったひとつ僕の、僕だけのものだ。


どくん、と何かが背中を走った。ぱ、と上の方を見上げれば見えたもの。そして声。目の前にはあの群青色とは違う闇の色があった。張り詰めた空気の中で、その闇色がゆらりと揺らめいた。


「……数は十数体です。リナリー、右をお願いします」
「了解」


目を閉じて、息を短く吐く。自分に言い聞かせるかのように、言った。


「神ノ道化、発動」


10/01/19
10/10/08加筆修正
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