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「あたしね、母親に売られたの」

今日の朝ご飯はこれだったの、とでも言うような口調で彼女はさらりとそんな事を言った。ぴしゃり、と彼女がイノセンスから払ったアクマの血が舗装されていない地面を叩く音が響く。あんなにも賑やかだった表通りから一本裏に入れば、こんなにも静かなものなのか。暗い。何も音がしない。ただ静かに家とも何とも言い難い建物ばかりが僕達を取り巻いていた。どういう事ですか、と僕が言う前に彼女は頬に飛んだアクマの血を手の甲でぬぐいながら言葉を紡いだ。あたしの妹、病気だったの。少しでも長く生きるためには、お金が必要だったから、だからあたしは教団に売られたんだ。ひゅうひゅうと風が鳴る音がする。止まっていた呼吸を意識的にゆっくりと行えば、その音すら耳に入ってくるほど、静かだ。

「…でも、エクソシストだと分かったから、お母様も教団に連れて来られたんじゃないですか?
…売られた、なんて言い方は、良くないですよ」
「…じゃあどうして、あの人はあたしの名前を呼んだ事が無いんだと思う?」


あの時の僕は彼女の表情から彼女の気持ちは読み取れなかった。彼女は僕に向かって微笑むだけで、僕には、彼女のこころの中が分からなかった。ただその微笑みが、良い感情によるものではないことぐらいしか、まだ良く世界を知らない僕には分からなかったのだ。


あの人ね、あたしの事何とも思って無かったんだ。あのね知ってる?あの人、あたしを此処に連れて来る時、コムイさんと、お金の話しかしなかったの。○○円貰えるんですよね、とか、いつ貰えるのか、とかさ。笑っちゃうよね。あたし、ばいばいだって分かってたから、ばいばいって、それくらい言ってくれると思ってたのに、最後くらいあたしの名前、呼んでくれると思ってたのに、あの人、あたしには何も言わなかった。なんにも。なんにも。なんにも、




「…、ふぅ、ぅあっ…ぁうっ、」




初めてだった。いつも馬鹿な事をして、ラビと一緒に神田や僕にちょっかいを出して、ケラケラと馬鹿みたいに笑っていた彼女が、…なまえが、声を上げて、泣いていたのは。さっきまで笑っていた顔は、無理をしていたのだとその時になってやっと思い知った。遅すぎる、とリナリーに怒鳴られても仕方ないくらいに僕は鈍感だったと思う。ひとの気持ちは、ただ表面に現れたものだけが真実ではないこと。そんなことは、とっくの昔に思い知っていたはずなのに。けれど彼女は、余りにも明るく、余りに笑うから。それが「余りに」そうであることを、分かっていても目を背け続けてしまっていたのは、僕だ。幸福であって欲しかったから。それが純粋な、ひたすらの幸福であることを、乞うように願い続けてしまっていたんだ。それが、彼女を苦しめる結果になってしまったのに。


僕は俯いて震える彼女の背中に腕を回して、そっと、抱きしめた。少しだけ、泣き声が大きくなったような気がした。ごめん、見ないふりをしてごめん。気づかないふりをしてごめん。すきだと、そう、気持ちに蓋をして、目を逸らして言えなくてごめん。ごめん、なまえ。

彼女の耳元で呟いた言葉は、空気を揺らして直ぐに消えてしまった。けれど、彼女の泣き声は、僕の言葉を吸い込んで、更に大きくなったように思った。そっと、彼女の髪に手をやって、あやすように頭を撫でる。


…なまえ。貴女が泣き止んだら、もうひとつ、伝えたい事が有るんです。
「彼女」の、最期の言葉。

あれはきっと、きっと、貴女の本当の名前だったから。


僕はなまえの肩越しに、その足元に横たわる婦人の亡殻を見つめた。


『ごめんね、__、ごめん』



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彼女が意識不明の状態で帰って来た夜、僕は夢を見ていた。いつかの、そこまで遠くはない、二人の記憶。足音は、すぐ傍まで近づいていた。


10/02/20
11/05/31加筆修正
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