13

気づけば足は今来た道を引き返して走り出していた。遠くで誰かがわたしの名前を呼ぶのが耳に届いて一瞬、一瞬速度が緩まるのを感じたけれど、わたしの足は止まらなかった。曲がる。走る。曲がる。走る。わたしは何処に向かっているんだろうか。少し思考を働かせようとする度に数秒前の彼の声が脳内を反響する。僕には関係ないことでしょう。そうだ、その通りだね。アレンの言う通りだよ。私達は他人で、恋人とか友達だとか、何かそんな囲い込むみたいな鎖がなくちゃ繋がってなんて居られやしないんだ。家族ですら、生まれ出る前から繋がれている筈のひとですらわたしの手を摺り抜けていったのに。でもわたしは、そんな鎖が無くたって、確かな名前がそこに無くたって、ただ手を繋いで居られたらそれだけで私は良かったのに。



「なまえ!」

背中から響いたのは少年の声では無かった。もう何かひとつ境界を越えた、少し掠れた低い声。ああそっか、そうだよね。追いかけてくる訳無いもの。そしてまた身の程知らずのわたしが自分勝手に傷ついた気持ちをじくじくと生み出す。ばかみたい。何の為に走ってるの?まさか追いかけて来てくれるとでも期待していたわけ?そのためにわざと走ったってこと?ばかじゃないの。都合のいい思考回路は大概にしたらどうなの。前にずっと続いているはずの廊下が不意にぼやけた。嗚呼もうこんなどう仕様もないものばかり生み出してわたしはどうしたいんだ。水分ばかり無くして、口から自嘲の呟きばかり吐き出して。一体何時わたしは元に戻ることが出来るの?一体何時になったらあのひとの瞳をまともに見られるの?一体何時わたしはわたしに戻ることが出来るの?わたしは、「わたし」は、何なの。


「なまえ!!待つさ!!」

後ろから廊下に響く声が大きくなる。振り返らずとも追い付かれ始めていることは手に取るように分かった。どうせ追い付かれてしまうことは分かってる。でもわたしは此処で立ち止まる訳にはいかなくて。自室にたどり着きたいのに今自分が何処を走っているのか分からなかった。前にも後ろにも同じ形のドアばかりが並ぶ。右に曲がり角が有るので曲がれば、まだ廊下は続いていた。ああもう新しい教団の中は分からない!もう此処どこよ!

「なまえ!!」

多分もうラビはすぐ後ろまで来てる。はあ、というわたしのものではない荒い息遣いが微かに耳を掠めた。嗚呼、悔しいな。走ることだけは自信があったのに。当たり前か。男の人だもんね。ラビ運動神経良さそうだしなあ。頬を斜めに流れる涙を乱暴に拭って足を動かす。息が、上手く出来ない。そのことに気が付いて、嗚呼、少し可笑しくて、笑いが零れた。でも直ぐにわたしの喉は自発的に塞がれる。そっか、そうだったんだ。



「なまえ!!」

右腕を掴まれた。意思とは離れた身体の動きに足がもつれて床に倒れ込みそうになったのを妨げたのは男の人の強い腕で。わたしの腰に絡まった腕はゆっくりとわたしを立ち上がらせた。

「……、はぁ、っはあ、び、っくり、した」
「……ごめ、なまえ、ほん、本当に足、速いさ、」
「…っはぁ、は、げほ、っごほっ」
「…っなまえ、ゆっくり、し深呼吸、な?」

自分も息も絶え絶えなラビの吸って、吐いて、と言う声に合わせてゆっくりと息を吸い込んで、吐く。ひゅうひゅうと喉が鳴る音がした。走り続けたせいで乾いた目から生理的な涙が零れる。ゆっくり、ゆっくりと元のリズムに戻っていくのを自分の呼吸音で知った。

「あり、がと、ラビ」
「ん」

ラビはまだ少し速いリズムで息をしていて、その両肩が短い間隔で上下する。ラビの息が整うのを待って、少しだけ息を深く吸って、そして唇を開く。

「…ねえ、ラビ」
「………ん?」
「あのね、わたし、初めて知ったことがいま、あるの」



「泣きながら走るのって、苦しいんだね」




少し口角が引き攣るのを感じながらふにゃりと笑えば、ラビの顔が一瞬歪むのが見えて、そして直ぐに見えなくなった。ラビの腕が痛いくらいに背中に廻って、息をすることが苦しくなる。苦しくなって、苦しくなったことが理由なのかは今のわたしには分からないけれど生温い液体が瞼を満たした。腕の力が強くなる。唇から漏れた嗚咽と共に手から食器が滑り落ちて、立てた金属音に交じって微かにばかやろ、という小さな声が聞こえた。


10/02/08
10/12/12加筆修正
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