12
さっきから三人の視線が鬱陶しい。時々蕎麦やパスタを食べる箸やフォークを止め、ちらちらとこちらの顔を伺ってくる。ていうか何で皆メン類なんですか、僕だけ空気読めて無い感じになってるじゃないですか。ハッシュドビーフを掻き込むスプーンを止め、はぁ、と溜息をつく。そりゃ、僕だってそこまで馬鹿じゃない。だから、今三人が何を考えているかぐらいは手に取るように分かる。でも僕がそれを自分から口にする訳にはいかない。いずれは分かられてしまうことだとは分かっていたけれど、それを自らの手で手繰り寄せるのは厭だった。寧ろ出来ることならば誰にも知られることなく、吐いた息の白さのように空気に紛れて消えてほしかった。まるで何も存在しなかったように。痛みも無く、傷痕を見て蘇ることも無く。人間はそんなに都合良く出来てなんかいやしないって、もう分かっている筈なのに。そうして知らない振りばかりしていることに何の意味もないことだって。
「…何ですかさっきから。僕の顔に何か付いてますか?」
「…いや、そういう訳じゃないんさ。な、何でも無いさ、な?」
「…そうですか」
ぽつりと一言返事を返した後、またハッシュドビーフに視線を戻しスプーンを持ち直してご飯をすくった瞬間、リナリーの静かな声が鼓膜を揺らした。
「アレンくん、なまえと別れたの?」
スプーンを持つ手が止まる。賑やかな食堂の中で、嫌にはっきりとその言葉は僕に届いた。こういう時、やっぱり女性ははっきりしているものなのだな、と実感する。リナリーの性格も有るのかもしれないが。話の核心を、曖昧にして避けて通ったりはしない。でも僕には、今の僕にはそれが酷く難しくて仕様が無いんだ。スプーンを握ったまま、視線だけちらりと目の前に座るリナリーに向ける。リナリーの瞳は、僕をしっかりと捕らえていた。また、視線を手元のハッシュドビーフに戻して唇を開く。
「…何ですか急に、どうかしたんですか」
「とぼけないで、アレンくん。なまえの口から聞いたの。なまえの言うことを信じていない訳じゃないけど、…だけどあの子、思い込みで物を言うことが有るから」
だからアレンくんに本当にそうなのか確かめたかったの、とリナリーはもう一度視線を上げた僕の目を見つめて言った。真っ直ぐな、瞳で。答えて、アレンくん。そう真っ直ぐに僕に言った。嗚呼逃げられない。痛みは消えない。開いた唇は酷く冷たかった。何故か、震えた。
「…質問の答えは、イエスです。これで、いいですか?」
そう言って目を逸らした。堪えられなかったんだ、その瞳に。吐いた息はゆらゆらと白く揺れて視界を染める。あの時も、きっと堪えられないと分かっていたから、最初からなまえの顔を見なかった。否、見ることが出来なかったんだ。こころを鷲掴みにされそうで。こころを見透かされそうで。泣いて、しまいそうで。何もかも忘れて、抱きしめてしまいそうで。見られなかったんだ。なまえの瞳を。嗚呼もうどうして、影は消えてはくれないんだ。歯痒い。やる瀬無い。あたまがおかしくなりそうだ。もう、わからない。ぐわりと視界が歪んだ。
「おいアレン、そんな言い方ねえだろ」
「…五月蝿いんですよ、ラビ達には関係ない事でしょう!」
「やめてアレンくん!」
声が、荒くなる。かっと昇った血は退かずに僕の頭を侵す。温度を上げた血が、理性をどろどろに熔かしていくのを感じた。
「何なんですか!大体なまえの事だって、別れたんだから僕には関係ないことでしょう!」
「モヤシ!!」
「アレンくん!!」
さっと、昇っていた血が波のように退いていった。神田とリナリーが僕の名前を呼んだからじゃない。神田とリナリーの声に混じって聞こえた、無機質な、ガシャ、という金属音に、だ。
「あ、ごめ、ごめんなさ、」
小さく、震えた声が後ろで聞こえた。振り返ればステンレスの皿の中身は辺りにぶちまけられて床に奇妙な模様を描いている。彼女は落とした皿とスプーンをを慌てて拾い上げた。銀色に光るスプーンと汚れた皿を握るその手は確かに、震えていた。拭くもの持ってこなきゃ、と早口で小さな声で呟いて踵を返す。そして、僕に背を向けて走り出した。
「なまえ、待つさ!」
僕の両足は床に張り付いて動かない。彼女とラビの背中は直ぐに見えなくなって、残った彼女の痕跡は床に描かれた茶色の模様だけだった。それに背を向けても立ち上る匂いからは逃れられない。目を背けても、それは確かに、ハッシュドビーフだった。
10/02/03
10/11/24加筆修正