09

午後2時半。普通なら冬のこの時間帯は一日の中でもぽかぽかして気持ちいい筈なのに、教団の廊下はとても寒い。そして何と無く薄暗い。それは日差しを切り取る窓があまり大きくないことに起因しているのだけれど、それを上回る空気の冷たさ、と言うのだろうか、ロンドンは何だか日本生まれのわたしにとって街自体が冷たく感じた。勿論緯度からして日本より寒いのは当たり前なのだけれど、どこと無く冷たかった。寒いというより、冷たかった。煉瓦の壁は指が千切れそうに冷え切って、どうしようもなく日本が恋しい。手繰りよせるのは幼い頃の記憶だけだけれど、鮮明に思い出せる襖の感触と畳の匂い。鈴鳴りのような妹の声。そして。もう少しで見えそうになった影を頭を振って追い出した。頭を空っぽにしてひとつ息を吐いて目の前のドアを見据える。手をつけば、重厚なドアは煉瓦の壁より少しだけ、暖かかった。
飾り彫りが施されたドアは薄闇の中で静かに息をする。こんなにも重々しい雰囲気の部屋に、それも室長という地位の人の為に有る部屋の中に居るのが、あんなシスコン巻き毛かと思うと、今更だけれどやはり何だか可笑しくて笑いが漏れる。ドアについた右手を離して上着のポケットに入れ、左手に持った報告書を脇に挟んで報告書を落とさないようにドアの引き手に手をかけた。


「失礼しますー」
「あ、なまえちゃん!…まさか報告書?早くない?」

ちゃんと書いたのお?なんて失礼なことをわたしに言ってのけたシスコン巻き毛もといコムイさんは、こちらに振り返ってわたしの脇に挟まれた報告書を見て目を見開いた。その表情に口元が緩むのを感じながら報告書を脇から抜いてコムイさんに手渡す。わたしだってやれば出来るんですよ、とニッコリ笑って言うと、奇跡って起きるもんなんだねえとコムイさんは真面目な顔で言った。

「奇跡は待つものじゃ無い、自分で起こすものですよコムイ室長」
「かぁっこいーいなまえちゃん、…って痛った足踏んでる足踏んでる!!」
「奇跡など 起こしてみせよう ホトトギス」
「聞いてる?ねえ聞いてるなまえちゃん?」
「効いてますよ当たり前じゃないですか」
「え、ちょ、色々指摘したいんいててててて」

涙目になってタンマタンマと叫ぶコムイさんを見て何だか可哀相になってゆっくりと足を外した。そうすればコムイさんはしゃがみ込んで足を摩りながら足折れちゃったかもぉ、なんて語尾を上げて言うので、もう一度足をセッティングする。

「嘘ですゴメンナサイ」

引き攣ったコムイさんの表情が可笑しくて思わず笑い声が漏れる。何だか私悪女みたいだ、なんて考えると益々可笑しい。はは、と声を出して笑っていると、コムイさんの泣き笑いのような顔が目に入って笑いが止まる。

「……どうしたんですか」
「…ん、何でもない、よ」
「何でもなくないですよ、もしかして、足すごい痛かった、ですか」
「ううん全然!違うよ、」

いや、やっぱり全然ってのは嘘だけど、と足をプラプラさせて口を尖らせるコムイ室長に申し訳ないという気持ちがさざ波のように引いていきそうになる。のを堪える。我慢よなまえ。その時、ふっとコムイさんの表情が少しだけ、歪んだ。

「なまえちゃん、手、怪我したんでしょ?」

さっきまでゆらゆらと揺れいた空気がぴたりと止まるのを感じた。わたしを見つめる眼鏡の奥の瞳は言葉通りの心配を浮かべているのでは無いようだった。何処か責められているような、…責められている、というのは言い過ぎだろうけれど、そんな気がした。ポケットの中で、静かにそっと右手を握り締める。ポケットから手は、出さない。その瞳から、そっと視線を外した。

「…神田から、聞いたんですか?」
「…心配してたよ、神田くん」
「まさかぁ!神田が?」
「アイツいつもと様子が違ったって。いつも馬鹿みたいに五月蝿いのに、ちょっと大人しかったって言ってたよ」
「ちょっとて」
「神田くんなりに、なまえちゃんの事心配してるんだよ。かなーり、分かりにくいけど、ね」
「………」
「深くは聞かないけど、心配してる人もいるんだから、無理しちゃ、駄目だよ」

僕もその中の一人ね、と自分を指してわざわざ付け加えるコムイさん。わたしは、じわりと温かさに満たされた瞼に少し触れて言葉を吐く。

「その一言でイケメンから遠ざかりましたよ」
「それよく言われる!」
「そんな事無いですよねイケメンから違いますよね」
「…なまえちゃん最近僕に対して冷たくない?」

そんな事無いです、と心から言った。有難うございます、そう告げて笑うこともできた。あの日から初めて、笑えた気がした。たとえそれがこころからのもので無かったとしても。瞼を満たすものは温かくて、心地好いのだとそう感じることが出来たの。でもそれでも、それでも貴方は居ないんだ。ぽっかりと空いた心の真ん中だけは満たされる事は無くて、思い出せば嫌な音を立てて軋む。ごめんなさい、コムイさん。だからわたしはどうしたってこの耳を塞ぐために、アクマが地面にぶつかるあの音に耳を澄ますしかないから。絶え間無く、ずっと。


10/01/25
10/11/08加筆修正
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