02

霞み始めていた視界がカチャリという控え目な音ではっきりと色を変えた。重たい瞼を引き上げて瞬きを繰り返すと、ドアの隙間からこっそりと覗いた銀色がチカチカと目の奥に突き刺さる。ちらりと部屋の真ん中の掛け時計を見遣れば、もうとっくに日付を跨いで正に真夜中であった。こんな時間に何だろうか。このひとは、女の子の部屋に、そう例え用があったとしても、入りたくなさそうなのに。あまり上手く回らない頭でそんなことを考えて、わたしはドアに向かって声をかけた。

「……獄寺さん?」
「…あ、わりぃ」

起こしちまったか、と呟きながらすっと彼は部屋に足を踏み入れた。任務の帰りであったらしく、彼は黒のスーツの上下のままでここにやって来たようである。わたしは無意識に出かけた欠伸を噛み殺しながら彼に向かってまた声をかけた。

「何か用ですか?…もしかしてお湯ですか」
「…………」
「図星ですね」

声をかけながら彼の手元を見て、ふっと思いついたことを彼に問い掛ければ、案の定彼は視線をゆるゆると空気に送った。たかがお湯のために深夜にひとの部屋(わたしが勝手に使わせてもらっているのだが)に侵入したことを少し、いやかなり申し訳なく思っているらしい彼は、わたしの指摘に対してしぶしぶといった様子で頷く。激しい任務を終えて帰って来ているのだ、お腹を満たすための食事に使うお湯ぐらい堂々と取りに来ればいいのに、わたしを起こしてしまったことさえ情けなく感じている様子に苦笑しつつわたしは電気ポットの場所を指差した。

「お腹すいているんでしょう?どうぞ」
「わりぃ」

相当お腹が空いているらしい彼は、ポットを置いてある台に向かいながらばりばりと手に持っていたカップラーメンの封を切った。そういえば今はキッチンが修繕中なのだと誰かが零していたような気がしないでもない。最近用を足す以外の用事であまりこの会議室もどきから外には出ていないため、わたしの知りうるこのアジト内の情報はほぼ全て此処を訪れたひとからのものなのだけれど。誰から聞いたのだったかと頭の中をぐるりと見回そうとしたとき、ポットから零れ落ちたお湯がじゅわ、と音を立てて思考を妨げた。ちらりとポットの方を見遣れば、楽しげにカップ麺の蓋を閉じる彼の顔が視界に入ってわたしも不覚ながら笑ってしまった。わたしが零した笑みに気づいたらしき彼は不審そうに眉をしかめる。ああ、なんてこのひとは分かりやすいひとなんだろう。くるくると変化する表情がわたしの頭の中の小学生のイメージにぴたりと当て嵌まってしまうなど、なんとも本人には申し訳ない話だ。

「髪の毛はアレなんですけどねえ」
「は?髪の毛がどうした?」
「そっちの話です」
「どっちの話だよ」

呆れたような眼差しでわたしを見た彼は、少しだけ笑って唇の端から溜息を漏らした。そしてもう一度カップ麺の方に向き直ったため、また彼の表情は見えなくなってしまう。ゴミを片付ける彼の黒い背中が少しだけ揺れていた。嗚呼、今回の任務はほんとうに大きくて大変なものであるらしい。向こうを向いた彼の今の表情は見えないけれど、先程の彼が笑った顔は、一瞬であったとしても忘れられない、苦しみと、疲労の滲んだ笑顔だった。嗚呼、どうしてこのひとたちは、皆同じ表情を見せるのだろう。苦しいのに、苦しいと言わなくて、言えなくて、このひとたちの優しさは、いつまで経ってもこのひとたち自身は救ってくれないような気がして。

「獄寺さん、」
「あ?」
「あの、…なんでもないです」
「何だよ」

お湯の入ったカップ麺をそろそろとテーブルに移動させようとしていた彼は、カップ麺に手をかけたままこちらを見た。言いかけた言葉をしまい込んで目の前のテーブルを手の平で示す。どうぞ、と小さく呟けばおうと返事が返って来て、そろそろと彼はテーブルにカップ麺を置いた。そういえば箸がないなと気づいて周りの食糧品の入った段ボールを探してしゃがめば、お尻にとん、と何か当たる感触がして振り返る。脇に何の気なしに置かれていた缶ビールのケースにどうやらぶつけてしまったらしい。レディのお尻を触るとはけしからんビールだ。……じゃなくて、これ、使えるかも。こんな時にぶつけるなんて、暗示めいた何かをこの時は感じてしまったのだ。いつもは、迷信だとか神だとか、そんなものをひとつも信じてなんていないのに。でもこの時わたしは、こうすることを何か運命のように思い込んでいた気がする。すっとケースから中身を取り出して、わたしは徐に立ち上がった。

「あの、獄寺さん」
「何だよ」
「えっ…と、お酒、呑みませんか」

わたしは手に持った銀色の缶をゆらりと揺らした。いつも鋭いその目が、大きく見開かれて丸みを帯びる。眉間に常に寄せられた皺は、少し緩んでもまだ跡を残していた。よほど驚いたのだろう、まあいつもわたしみたいなファミリーの下っ端から、お酒を誘われるなんてまずないだろうから、当たり前の反応なのかもしれないが。

「あの、どう、です、かね」
「……まじで俺、眠いんだけど」
「あ、あの、」
「…っつっても、出すんだろ、酒」
「………そんなことないですよ」
「んなの缶ビール手に持って言う言葉じゃねえよ」

カップ麺をテーブルに置いた彼は、どかりと目の前の椅子に腰を下ろして微かに笑った。ほんとうに不思議なひとたちだと思う。周りのひとに対して優しいのに、自分が優しくされることには慣れていなくて。わたしがこうすることが彼に優しくしているのか、わたしに出来ているのか、確かなものとして実感はないけれど、でも彼が少しでも、緩やかな空気に包まれて、ふと笑えて、そして気づかぬうちにゆっくりと眠ってしまえたら。そう思いながらわたしは彼の目の前に缶ビールをコトリと置いた。


11/05/21
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