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沢田綱吉という男を皆さんはご存知だろうか。カタカナ語が右に左に徘徊するこのご時世に何とも古風な名前だと思ったひともいるかもしれない。しかし御家柄が名家であるとかそういう訳でもなく、彼はどちらかといえば頼りない、何処にでも転がっていそうな普通の青年である。彼の肩書きだけは別にして。

実はさっき御家柄が名家という訳ではないと言ったが、それは表向きには、という話である。彼の血筋は何処までも一般ピープルの私(ひいおばあちゃんによると私の先祖は『武士っぽいひと』らしい)には考えが及ばない位の名家なのだ。それには、マフィアという裏社会の、という修飾語が付き纏うのだが。そう、彼の肩書きはあくまでも普通とは掛け離れている。彼はマフィア・ボンゴレのボスだ。


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「どう、仕事進んでる?」

上から降って来た言葉に私はペンを動かす手を止めて顔を上げた。私の目の前に折り重なる白い紙と黒い文字、そして黒いノートパソコンを覗き込みながら彼は私の隣の椅子を引いた。ぼふん、と椅子に腰掛けて私に向かって笑いかける彼に私は肯定とも否定とも取れる苦笑いを返す。実際今回は量が多過ぎてどれくらいまでまとめ終わったのか到底見当もつかない。プリントアウトされた資料と書き込まれた自分の字を見やってうーん、と唸るように絞り出した声に彼は小さく笑って、今回は大きな仕事だったからね、と無機質な光を放つノートパソコンの画面を見つめた。その横顔は少しやつれているようにも見えて、でも私は彼に頑張れだとかそんなことを言えるような立場でもないからただ一言お疲れさまです、と空気を吐き出した。

「なまえもお疲れさま、でしょ?」
「私は別にお疲れさまじゃないですよ。座ってただパソコンポチポチしてるだけですし」
「でもペンでゴリゴリもしてるじゃない」
「それでもただ座ってるだけですよ」
「でもご飯食べて無いでしょ?」
「それは……今から食べます」

私がそう言って椅子から立ち上がれば彼はやっぱり、と半ば困ったように眉を下げた。視線から逃れるようにいそいそと戸棚に向かって行き、扉を開けてカップ麺を手に取れば背中の方からまたそんなもの食べて、と溜息混じりの声が聞こえた。それには聞こえないふりをして私はばりばりとカップ麺のビニールを破る。手早くかやくの袋を開け、電気ポットのロックを解除してボタンを押せばじゅ、と音を立ててそれとともに沸き上がる湯気が視界を霞ませた。蓋を閉じて腕時計で時間を確認しつつ彼に向かって声をかける。

「ボスも早く部屋に戻って寝た方がいいですよ」
「オレもってことは、なまえももう寝るの?」
「いや、私は寝ないですけど」
「なんだそれ」

ハハ、と無邪気に笑う彼の表情にはやっぱり疲れの色が見えて、私はもう一度ボスは部屋に戻って下さい、と言いつつお湯の入ったカップ麺を机に運んだ。資料が汚れないように自分の元居た場所には座らず彼の斜め前の椅子に腰掛ける。私が仕事場所として使っている此処は本当は会議室の用途の為に使われるのだが、机の広さとポットなどのちょっとした調理器具が揃っているという利点から此処に半ば住み着く形になり、私の城と化しているのがこの会議室の現状である。私が時計を見ながら出来上がるのを待っている間も彼は立ち上がる様子を見せず、私が作ったカップ麺(お湯を注いだだけだが)の蓋を食い入るように見つめていた。

「食べ終わるまでまさか居るつもりですかボス」
「それ、新しく発売されたやつじゃない?オレちょっと食べたかったんだよね…」
「部屋に帰って寝て下さい」
「そろそろ3分じゃない?」
「カップ麺食べずに部屋に帰って寝て下さい」
「…………はい」

じと目を向けて言葉を発すれば彼はしゅんとして椅子から立ち上がった。少しだけ猫背気味のその様子と黒いスーツの不釣り合いな感じが何とも可笑しくて少し口角を引き上げた。すごすごとこの部屋の扉に向かって歩いていく彼の背中を見ていると、扉の目の前で立ち止まった彼がこちらを振り返ったので急いで緩んだ口元を引き締める。今度は何だ、と身構えている私に向かって彼は少し微笑んで唇を開いた。

「ちゃんと寝るんだよ」

カチャリとノブを回す音が静かな部屋に響いた。誰に対しても変わらない優しさを向ける彼は本当にこんな裏の世界で生きているひとなのだろうかと時折思う。私が聞き齧ったほんのこの裏の世界のはじっこはあまりにも薄暗くて血生臭いのに、彼はその真ん中で生きている。汚される事なく、忌み嫌うこの世界に自らがその中心に立っている。それを感じる度に、私は溜息を吐かずにはいられなかった。

「……有難う、ボス」

そう言えば閉まりかけたドアにすっと手が掛かるのが見えて、眉を下げた彼の顔がもう一度現れた。ボスじゃなくていいよ、それだけ言って少しだけ開かれていた扉は完全に閉まった。嗚呼彼は狡い。狡いくらいに優しい。それが私にとって少しばかりでなく苦しいのだということは、もうはっきりと自分で分かっていることだった。



10/09/19
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