なぜ俺は、右腕を伸ばしてこいつを引き寄せるなんてマネをしたのだろうか。ふるふると震える女の頭を、押さえ付けるかのように自分の左肩に押し付ける。着流しにゆっくりと染みてゆくなみだのあたたかさと、そして冷たさに、ふと我に返って俺はそう思った。女を慰めるのに、こんな風に、たとえば抱きしめたりなんてしたことはほとんどない。ましてや自分の女ではない、女の子を。自分の女ならば、抱きしめるという表情ではなく、抱くといったほうが正しいが。自分にも、大人と子供の判別ぐらいは身体が覚えているということなのか。子供だと思って、抱きしめたのか。そもそも、彼女を子供だと思っているのか。わからないことが多すぎて、頭がパンクしそうだ。オメーのせいで更に天パがきつくなってドレッドヘアーになっちまったらどーしてくれんだコノヤロー。銀サン泣くよ?ガキみたいにガチ泣きするよ?あーもう訳わかんねー。とりあえず。


「…オイなまえ、いい加減その汁どーにかしろ自重しろコノヤロー」
「う、るさ、っく、」
「銀サンにかけていいのは愛液だけだから、……いや許可無くかけんのはダメだぞ?ちゃんと許しを乞いてからだからなウン」
「…は!?う、るさい、っく、しねば!?」
「うわーしねばとか銀サンまじ傷ついちゃった泣いちゃうまじ泣いちゃう涙出ちゃう銀サンの息子」
「は!?なんであんたの……もうほんとしねば!?」
「相変わらずそこ言えないのね」
「うっるさい!もうほんと、」
「やっと汁止まったな」


その声にぽかんとすこし口を半開きにしたなまえは、数秒そのまま黙ったあと、うっさいと吐き捨てて左足を思い切り振り上げた。ぐあ、と意識せずとも漏れた悲鳴とともに俺は椅子から崩れ落ちる。いやほんとまじ涙出そうなんだけどっていうか出てるんだけど。あ、言っておくけど目からだからな。


「……ほんと、意味わかんない」
「いやこの数日間に銀サンの息子何回も泣かせた君のほうが意味わかんないからね?これ銀サンが親じゃなかったら君PTAの議題になっちゃうからね?」
「あんたの……息子を、泣かせた覚えはないから!ばかじゃないの!?」
「馬鹿はオメーだ、なまえ」

「逃げたい逃げたいってなあ、お前は何にも追われてなんかいねーだろ」


椅子に這い上がり、背もたれに存分に寄り掛かると、ぎしりと音を立てて椅子は揺れた。眉間に寄せていた皴がふっとゆるんで、問いかけるようなまなざしでこちらを見つめるなまえは、振り上げていた足をゆっくりと重力にまかせてふらりと落とした。


「風俗だか何だか知らねーが、お前の過去だってオメーみてーな貧弱な女のケツを追いかけるほど飢えてねーんだよ」
「な、」
「お前が誰かに置いていかれてると感じるのは、お前が後ろばっか振り向いて、逃げてばかりだからだろ」
「……………」
「何にも、誰も、お前を追いかけてなんかいねえよ。お前がひとりなのは、走る自分の足をクラスメイトに引っ掛けられるからでも、過去に追われてるからでもねー」

「お前が、後ろばっか振り向いて、前見て走ってねーからだろうが。前見ろ。目ん玉かっ開いて、自分の走る道を見てみろよ」

「お前は、お前が思う程ひとりなんかじゃねーだろ。隣にあのジジイだっている。まあお前より先にジジイは死んじまうだろうが、もしジジイが先に死んで、それでもまだお前がひとりだってそう思ってんなら、」



その時は、お前の隣に俺がいるだろ。吐いた言葉は、静かな空気とともに俺の胸の奥を揺らした。口をついて出た言葉に、何よりも驚いたのは自分自身だった。自分がどういう意図でこの言葉を口にしたのか、言葉をなぞればなぞるほどわからなくなってくる。いや、言いたいことは、間違いなくこの言葉であるはずなのに。僅かな自分の中での引っ掛かりが、ほんのすこし、胸の奥のほうで何かを生み出したと後になって思うけれど、いまは、俺はそれを身体の中に沈めた。目の前でゆらゆらと揺れている、綺麗に透き通る瞳をまっすぐにみつめる。だから前を見ろ。振り返るなとは言わない。どんなに強く思っても、そうしてしまうときだってある。けれど、たとえ後ろを振り向いたとしても、もう一度前を向いて歩いていかなきゃならねえ。それが、今を、生きるって、そういうことだろ。そのことに自分自身が気がついたのは、つい最近のこととも、大分前のこととも言えない。ただ、この月日の中で、自分の中に深く根を下ろしていたものから、逃げることも、そればかり見つめることも、生きることとは違うのだと、そう思うようになったから。


「勝手にひとりになんかなれると思うなよ、なまえ」
「……………」
「だァから、きたねー汁はだすなっつの……って銀サンの白衣で拭かないでくれるゥウウウ!?」
「………うっさい、ばか」


「あり、がと、先生」


白衣の中から、ちいさな声がゆっくりと鼓膜を震わせた。

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