つめたくなって辛くなってきた手を反対の手に変えると、がちゃりと音を立てて氷嚢のなかの氷が揺れた。片目だけ冷やしているからわたしの視界はすこし狭くなっているのだけれど、狭い視界の中で問題の医者はまさにぐうたらといった様子で椅子に座って、………いや寝そべっている。ぐうたら状態で更におやつまで貪っているのだからたちがわるい。ダメ男という言葉を3Dにしたらこんな感じじゃないだろうか。けれど、だけど、そんなまるでダメなオッサン(言ったらオニイサンですと訂正してくるだろうがわたしの年代から見たら間違いなくオッサンである)に、不覚にも、そう不覚にも、ほんのすこしだけ、気をゆるしてしまっている自分もここにいる。チュッパチャプスで、その緩い曲線を描く頬をぽこりと膨らませたこの男は、自己中心の代表みたいな空気をこちらに寄越すくせに、ヤブ医者感を丸出しにしてくるくせに、口を開くとセクハラ発言ばかりするくせに、なぜか突然、こころの奥のほうにふわりと触れてきたりする。意味がわからない。なんでどうして、たったひとつ貴方の指先だけが、あまいの?そんなにお菓子ばかり食べてるんだから、その時々するどくなる瞳だって、空気を震わせる声だって、あまくなったっていいのに。わかんない。


「ほへ、」
「え?」
「ほへ、はんはひほひはへほ」
「…なに言ってるか解読できないんだけど」
「それ、反対も冷やせよ」


口から出したチュッパチャプスで、ちょいちょいとわたしの右目の辺りを指しながらそう言った医者は、またすぐにチュッパチャプスを口の中に入れた。途端にぽこりとふくらむ頬。そんなにチュッパチャプスと離れたくないならチュッパチャプスと結婚でもすればいいのに。わたしはじろりと目の前のチュッパチャプ男を睨んだあと、そっと氷嚢を反対の目に移動させた。相変わらずつめたい。けれど氷嚢が立てる音は、ちゃぷん、とすこし水っぽくなってきていた。


「………ねえ」
「ん………、あー?」
「…聞かないの?」
「はんほ」
「……は?」


チュッパチャプスをくわえたまま喋られても困る。わたしが聞き返すと、目の前の医者はボリボリとその綿みたいな頭を掻いて、チュッパチャプスを口から出した。綺麗な紫色が、蛍光灯のひかりできらりと光る。グレープ味、かな。その指先がつまんだ白い棒の先には、葡萄色のそれが濡れて光っていた。


「…だァから、何のだよ」
「………理由」
「…………は?」
「……目、腫れちゃった、理由、だよ」
「…んなもん聞いてどーすんだよ」
「なんでかっていうとね、」
「だから聞く気はねーって、」
「わたしが言いたくなったの!」


わたしが張り上げた声は、静かな診察室に反響して、すぐに消えた。しん、と静まり返った部屋の中で、また目の前の男はチュッパチャプスを指先でくるくると弄ぶ。言わなくちゃ。向き合わなくちゃ。言葉を発しようと開いた唇に呼応するかのように、かたかたと鳴り始めた身体を、わたしはぎゅ、と膝を両手で掴むことで押さえ込む。すう、と息を吸い込んで、わたしは彼の横顔に向かって言葉を紡いだ。


「………わたし、つき、ん、むぐっ」


はずだった。


「ひょ、はひふんほ!」
「うるせー。オコサマはチュッパチャプス吸ってりゃいーんだコノヤロー」
「ぷは、な、なにすんのよ!」
「いーからそれ舐めてろバーカ」


わたしの言葉は、突然口の中に突っ込まれた甘ったるい味に遮られて、そのままおなかの中に消えていってしまった。医者が、新しいチュッパチャプスの包み紙をびりりと破いたのを見て、わたしも諦めてしぶしぶチュッパチャプスを口の中にほうりこむ。口の中で、じわりと再び、あまい葡萄の味が広がっていった。やっぱり葡萄っておいしいなあ、……って待って、そういえば、葡萄って、


「…ちょ、あんたまさか、これさっき食べてたやつじゃ、」
「はんはほ、ふふへーはー」
「五月蝿いってなによ!食べかけってちょ、…まじさいあく!」
「銀サンと間接ちゅーなんて将軍でも出来ねーぞォ、よく味わえよー」


将軍とあんたのなんて想像したくもないわよ、と思ったけれど、口には出さずにとりあえずこの変な医者の脛を蹴り上げることで収めることにする。ぐあ、とまた変な声を上げて足を抱える男を見ていると、自然に笑みが零れてきて声を上げて笑った。わたしの声に、眉間に皺を寄せて呻いていた目の前の男もふっと笑う。震えていたはずの身体は、いつの間にか止まっていた。

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