パラパラと降り続く水滴が不意に途切れた。それとともに視界が少しだけ暗くなる。ちょっとだけ速めにアスファルトを駆けていた足はそれに気づいて止まった。雨の代わりに上から降ってきたのは、傘は無いのか、という音。上を見上げると眼鏡の向こうの瞳と視線が絡まって身体が少し固まった。半開きになった唇からはひゅうひゅうと空気だけが漏れる。彼は訝し気な様子で(といっても私の想像だが。彼は全くもって表情が変わらない)私にさっきの質問を繰り返した。彼に傘は無いのかときかれると何だか責められているような気持ちになって、私は革靴の爪先に視線をさ迷わせながらえっと、と喉から声を発する。こんなにもジメジメとしているのに、私の喉は一瞬空気を吸っただけでからからに渇いた。

「…あ、あの、その、傘は持ってるんだけどね?」
「では何故ささない?」

案の定直ぐに冷ややかな声が降って来る(といっても私の見解でだが。彼の声の調子は何時もと全くもって変わらない)。私は一瞬だけ唇を歪めて、それは理由が有りましてですね、と一息に言った。彼の顔をちらりと盗み見ると、無表情のまま私を見下ろしている。それで?といった所だろうか。私を見据えるその瞳は氷の様に冷たく感じた。嗚呼やっぱり私はこのひとが苦手だ。何もかもが完璧に出来過ぎている。彫刻のように整った顔は眼鏡で更にその破壊力というか、何と言うかが増しているし、背が高いし(私は女子の中でも背が高い方だから、見下ろされるという行為は何とも言えない)、口数が少なくて考えている事は読めないし、あの噂のテニス部を率いる部長だというからもうとにかく怖い。そう、とにかく、私は手塚が怖いのだ。今すぐにでも雨にそれはもう激しく顔を打たれてもいいから走って逃げ出したかったが、この質問に答えないといけないという強迫観念が私の唇をこじ開けた。

「その、さっき鞄に物を詰める時にどうにかこうにか突っ込んでいまいましたものですからその、何処に傘が有るか分からないというか、一度鞄を開けたら二度と閉まってはくれないというか、その」
「分かった」

やったぜ、私は生きて家に帰る事が出来る!そう思った私はその時きっと世界の誰よりもおめでたい人間だったんだろうな。それも、手塚が次の言葉を発するまでは。

「…………どうした」
「……はい?」
「何故、歩き出さない」
「へ、」
「帰らないのか」
「いや、手塚くんこそ早くうち帰りなよ」
「お前が歩き出さないと帰れないだろう」
「え、いやどうして」
「………傘いらないのか」

手塚くん程上手く速く頭が廻らない私は、手塚くんが傘に入れてくれようとしている事に気づくのに数十秒かかった。その事に気づいて私は全力で手を横に振る。

「いや、いいよ!ほんと!ほんとに私雨に打たれるのすきだからほんとに!じゃ、ばいば、」

私は最後まで言葉を言い切る事が出来なかった。手塚くんに背中を向けて雨の中に走り出すはずが、背中を向けたまでは良かったが右腕を見事に掴まれてしまった。恐る恐る振り向けば、風邪をひくぞ、とあの声で言われた。私には眼鏡の奥がギラリと光って見えた。キラリではなく、ギラリ。



世に言う相合い傘を手塚くんとしながら歩くのは不思議な気持ちがした。自分の直ぐ右側に居る存在があの手塚くんなのだ。最初はさっき見えたギラリが頭を離れなかったけれど、ふと見えた手塚くんの濡れた学ランの右肩が私の中の何かを溶かした。何だかそわそわと落ち着かない気持ちがして、ふわふわして、私はこころの中で独り言を呟く。きっと手塚くんはこの道が家への帰り道なんだ。きっとそうに違いない。いや、絶対。そういう事に、しておく。そういう事にしておかないと、何だか自分がおかしくなりそうだった。彼が私の歩幅に合わせるようにゆっくりゆっくりと歩いている事も、部活帰りで疲れているからで、時々横を歩く私に視線を送ってくる事も、きっと湿気た空気に私の頭がやられたんだろう。妄想だ妄想。うん。絶対。
意味も無く視線を辺りにさ迷わせると、彼が肩に背負ったテニスバッグがちらりと視界に入る。

「……あ、明日、試合なんだっけ?」
「ああ、練習試合だ」
「へ、へえー」

あ、私の頭は本当にやられてしまったみたいだ。だから雨って何だか嫌なんだよなあ。寒いし。冷たいし。観に行きたいななんて思ってしまうし。頭の中がぐるぐるする。駄目、試合観に行きたいなんてそんな、違う。今までずっと怖くて苦手だったのに、こんなの私、手塚が好きみたいじゃないか。そんな事有る訳無い。無い。絶対に試合を観になんて行かない。だって、

「……あ、私の家、ここ」

逃げるように手塚の傘の中から走り出た。ぱらぱらと降る雫が私の髪の毛をしっとりと濡らす。雨って、冷たいな。ふと、そう思った。

「じゃあね、…えっと、遠くでコートに思いを馳せるよ明日」

傘入れてくれて有難う、と言ってひらひらと湿気で少しべたついた右手を彼に向かって振った。彼は私のその右手を数秒見つめた後、玄関前の階段を少し上がった私を見上げた。ゆっくりとその唇を開く。何故か私にはそれが、スローモーションのように本当にゆっくりと、見えた。

「観に来ないのか?」

彼は少しだけ首を傾けて、そう言った。アスファルトを打つ雨の音が少しだけ弱まる。青い傘に包まれて、ガラスレンズの向こうで静かな光が私を射抜いた。



どきり、心臓が鳴る音がした

だって、
好きになってしまう気がした



10/05/08

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