教授ののんびりとした声が講義の終わりを告げると、途端にガヤガヤと部屋の中は話し声で包まれた。わたしも、机の上にちらばった筆記用具たちをペンケースに元通りにして、隣の椅子に置いたかばんにいそいそとノートやペンケースを片付け始める。ほら行くよ、と声をかけてきた友人に返事をかえして、残りのものをかばんにつめこんだわたしは、ほら、とせかす友人たちの背中を追いかけて、ぱたぱたと靴音を鳴らしながら部屋の中を駆けて行った。

大学のキャンパス内は、季節の移り変わりをはっきりとわたしたちの瞼に焼きつけるためか、落葉樹ばかりが目に入る。落ち葉はもう地面の土たちと一緒になったようで、あんなに夏に日差しを阻んでいたたくさんの葉っぱたちはとけて消えてしまったかのように見当たらない。枝のすき間、というには広い間から、日差しが地面を、空気を、あたためていく。春が、もうすぐそこまでやって来ているみたいだ。わたしの服装も、少しだけ厚めのカーディガンにワンピース、タイツに春めいた色のパンプスだけれども、季節はずれな感じはしない。テストも終わり、補講の続く日々だけれどそれを嘆く声も心なしかゆるやかに流れていく。こころのなかにぽかりと空いたすき間には、まだ何も埋まらないけれど、確実に空気は温度をじわりじわりと上げていた。それがまた、一等かなしくて、苦しいのだと、昨日思い知ったばかりのわたしは、声をかけてきた友人のほうを振り向いて、へらりとうその笑顔を見せた。


「どーするこのあと?カラオケでも行くー?」
「あ、うん、行こっか、な…」


ずぐり。胸の奥のほうが揺れた音と、すう、と息が止まる音がわたしの鼓膜を揺らした。隣を歩く友人、ではなく、わたしの視線はその向こう側、枝ばかり残した街路樹の傍らに吸い寄せられる。頬に影をつくる、少し長めの髪と、すっとした横顔。ゆったりとした、白いシャツ。ポケットに入った指先は、わたしには今みえないけれど、細くてきれいなことを、わたしは、しっている。てのひらの温かさを、わたしは、しっている。


「………っあ、」
「え?ちょっと、どしたの」
「あき、やまさ、」


きっとわたしの声は、ちゃんとした音になっていなかったとおもう。胸の奥が震えて、瞼の裏が温かくて、こぼれ落ちそうになる。友人に向けて発した、先に行っててという言葉も、掠れてしまってちゃんと届いたか知れない。地面を踏み締めていた春色のパンプスは、ふらりと彼に向けて踊った。かつり、と空気を揺らした靴音に、俯いていた顔がこちらを見遣る。たった数日、たった数日見なかっただけでひどく懐かしく見えた彼の顔は、変わらず綺麗に整っていて、またわたしの心臓はぐらりと揺れた。


「あき、やまさん、」
「…驚きすぎだ」
「あ、あの、なんで」
「来ちゃいけないか?ここの講師が大学に」
「…う、そ!…まさか、秋山さんここの、」
「……なんでまたそうすぐに騙されるんだ」


嘘だよ、と秋山さんは呆れたように眉を下げた。でも、口元はふっと穏やかに笑っていて、わたしのこころをくすぐってゆく。騙された、と思っても、苛々が込み上げてくることはなくて、わたしはぽかりと開けたままだった唇を閉じて、再び開き、笑った。


「すみません、また騙されちゃいました」


だめですねわたし、と呟いて微笑んだはずだけれど、じわりと瞼を満たしたものがぽろりと頬を滑り落ちて、黄緑色のカーディガンをすこしだけ染める。ぜんぜんかなしくなんかないのに、うれしいのに、秋山さんがわたしの目の前にいて、ふと笑っているから、瞼からなみだがこぼれて仕方ない。ずっと願っていたこと。わたしの日常のなかに秋山さんがいること。秋山さんの日常の中にわたしが、ひとかけらでもいいからいること。非日常の中で出会ってしまったから、非日常の中で当たり前になっていたから、だからこそ日常がこわくて、さびしくて、あんなにも望んでいた日常の中で、非日常を願うようにすらなってしまっていたわたしは、もう秋山さんに恋をしてしまったのだとおもう。多分それすらも、頭のいい秋山さんは、解っているのだろうけれど。
…ううん、解ってほしくて、気づいてほしくて、わたしは電話をかけたのだ。ずるいとはおもうけれど、わたしは、秋山さんのやさしさを利用している。それでもわたしは、秋山さんがほしくて、傍にいたくて、仕方がなくなってしまった。


「…あ、だめ、ですねわたし、泣いたり、とか……えっと!…これはあの、冬のにおいって、ちょっとセンチメンタルに、なりませんか?」


ね、と指先でなみだを掬い上げながら、すぐにばれるであろう嘘をついてにへら、と笑うと、秋山さんはまた呆れたように溜息をついた。


「お前は相変わらず、嘘がへただな」


くしゃりとわたしの髪を撫でた秋山さんの手は相変わらずやさしくて、瞬間あたたかくなったてのひらは、春のようにふわりと、気づけばそこにあって。ああ、全部ぜんぶお見通しなのだとそう思った。やっぱり秋山さんは、わたしのうそやずるさなど簡単に紐解いて、わたしのこころの奥を揺らしていく。これからもそうであってほしいと、こころから、そうおもう。そんなわたしの気持ちすら見抜いていく魔術師は、すこしだけ握りしめる手の力を強くした。ああ、たとえほんとうにいまわたしが冬のにおいに包まれたとしても、ここにある確かな温かさに、わたしはきっと今と同じようにうれしくて泣くのだろう。わたしはやさしくも、正直者でもなんでもない。ほんとうにやさしいのは、わたしのうそを、ずるさを知っても、こんなにもあたたかい、このひとだ。



冬のにおいがぼくの涙腺をだめにする

12/03/28
しおからい嘘さまに提出
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